第8話 ジゼルピンチ

 薬店の上に住むようになってから3日目、ミュリエルは、正式にモーリスから店を150万トレールで買い取り、看板を『モーリス薬店』から『ミュリエル薬店』へ変えた。


 壁のペンキが剥げていたので、壁を塗り替えて店内を蘇らせた。と言っても、ミュリエルがハケを持って、壁にペンキを塗ったわけではなく、魔法でハケを動かし、壁全体を薄いアップルグリーンで塗り、カウンターの木目や腰板は、ワックスでツヤを出し、窓にはカナリーイエローのカーテンをかけた。


 2階の部屋の壁も、キッチン、ダイニング、リビングはホワイトに、ベッドルームはピーチに、ゲストルームはホリゾンブルーに塗った。


 壁を塗り替えるだけで部屋が明るくなり、ミュリエルは大満足した。いずれクッションやカーペット、食器類も新調し、好みの空間に整えようと決めた。


 ミュリエルが1階に降りていくと、ジゼルが来ていた。


「とってもいい感じになったじゃない。壁のグリーンが爽やかで、見違えたわ」


「お店に来てくれる人たちに少しでも元気になってもらいたくて、明るい色にしました」


「いいわね。あなたの顔を見たら、誰だって元気になっちゃうと思うけどね」ジゼルはミュリエルの顔を両手で包んだ。「オープンは、いつにするか決まった?」


「今から薬の調合をして、問題なく在庫を確保できたら、明日からオープンしようと思っています」


「そう、楽しみね、応援してるわ」


「ありがとうございます。今からどちらへ?」


夕刻が近いこの時間に、市場へ行ったところで、もう何も売っていないはずなのに、買い物籠を手に持っているジゼルに、ミュリエルは訊いた。


「今晩は冷え込みそうだから、シャンタルさんのことが少し心配でね、シャンタルさん元気にしてるけど、もう75歳だし、1人暮らしだからちょっと行って様子を見てくるわ」


「お気をつけて、何かあったら呼んでください」ミュリエルは頭上を見上げた。


 ジゼルも同じように空を見上げると、スズメが1羽、2人のところに飛んできた。このスズメが連絡役をしてくれるということだ。何かあれば、このスズメに、ミュリエルを呼んできてもらうよう、お願いすればいい。


「ありがとう、行ってくるわ」ジゼルもモーリス同様、魔力量の多い魔術師でなければ使えない魔法を、ミュリエルが使えることを知っていて、秘密にしてくれている。


 もし人に知られれば、ミュリエルが奇異の目で見られるか、利用されるだろうと思ってのことだ。実の親よりも、親らしい2人だった。


 解熱鎮痛薬と鼻炎薬、それから咳止め薬、などなど一般的で、よくある症状に対応したポーションを、ミュリエルは魔力を少しだけ注ぎ作っていった。


 ミュリエルが作った鎮痛薬が、たちどころに良くなると評判になってしまっては、他の薬師たちが困ってしまうから、平均的なポーションを、平均的な価格で販売することにした。


 ただし、重病の患者には、魔力を最大限使い、救うことができたならと、ミュリエルは考えていた。


 しばらくして、ジゼルについて行ったスズメが帰ってきたので、窓を開け中に入れてやった。


「タスケテ、タスケテ、ジゼルガタスケテ」


「案内して!」ミュリエルは店を飛び出し、走り出した。こんなに走ったのは初めてだというくらいに早く。地面に足をつけるのだって忘れてしまうほどに走った。


 ミュリエルが、走り出たことに気がついたサラとレオも、ミュリエルの後を追ってきた。


 中央の噴水広場まで走って来て、ミュリエルは人集りを見つけた。体中の血がなくなってしまったかのように、ミュリエルの体が恐怖で凍りついた。


「ジゼルさん!」


「ミュリエル!こっちよ」


 ジゼルを取り囲む群衆をかき分け、ミュリエルは前に進み出て、ジゼルに飛びついた。

「ジゼルさん、何があったのですか?お怪我は?」


「私は大丈夫、シャンタルさんが買い物に行きたいって言うから連れてきたんだけど、突然倒れてしまって、返事をしてくれないのよ」


 ジゼルはガタガタと震えながら、シャンタルの体を一緒懸命ゆすっていた。


「分かりました、ジゼルさん少し離れていてください」


 マジックワンドを取り出して体をスキャンした。どこに不調の原因があるのか、これで分かる。


 胸の辺りで血が滞っているのが見えた。


 直接シャンタルの体に、魔法を施せば応急処置はできるが、そんなことができるのは、魔力量の多いミュリエルだけだ。マジックワンドで治療を施してしまったら、摩訶不思議な光景になってしまう。


 人の多い場所で、目立つことはしたくないが、薬店へ戻りポーションを用意するなんて、悠長なことをしていては、シャンタルの命は無い。


 そこで、ミュリエルは指にはめた、クリスタルリングを使用することにした。


——クリスタルリングは、マジックワンドには及ばないが、使う者の魔力を増大させ、放出することができる——


 ミュリエルは、薬店を飛び出してくるときに、咄嗟に持ってきた鎮痛薬のポーションを、シャンタルの口に含ませた。


 そして呪文を唱えるとき、ジゼルをちらりと見た。


 ジゼルはミュリエルが、何を言いたいのか察して、大きな声でシャンタルの名を呼んだ。


 ミュリエルは小さな声で呪文を唱えて、魔法を発動した。するとシャンタルの滞っていた血が流れ出した。


 ミュリエルが唱えた呪文は、ジゼルの声にかき消され、誰にも聞こえなかった。


 ——魔法の発動は、魔力量の多いミュリエルだからできることだ——


 シャンタルが目を覚まし起き上がると、人集りが一斉に喜びの声をあげ、ミュリエルを称賛した。  


「ミュリエル!ジゼル!サラとレオが外へ出せと大騒ぎするから、出してやったら突っ走っていっちまうし、こっちは全然追いつけないしで、一体何があったんだ?」モーリスは息も絶え絶えに、地面にしゃがみ込んだ。


 死にかけたシャンタルより、モーリスのほうが死にそうだと、ミュリエルは思った。


「モー、私たちのミュリエルが、シャンタルさんの命を救ったのよ」


「それでこの人集りか、俺は心臓が止まりそうだったぞ」


「ミュリエル!私は鼻が高いよ」人々から拍手喝采を浴びるミュリエルに、ジゼルは嬉しくなり、ミュリエルをギュッと抱きしめた。

 そして、群衆に向かって、自分の娘がいかにすごい薬師かを力説し始め、ミュリエル薬店のことを宣伝し始めた。


「モーリスさん、シャンタルさんは血の滞りがあるようです。放っておけば、また同じことになるでしょう」


「治療が必要だな、今日は俺たちの家に連れて帰ろう。そうすれば、何かあっても、すぐに対応できるだろう」


「そうですね。血の巡りを良くするポーションを作ります。それを飲んでもらって、様子を見ましょう」


「ポーションだなんて、あたしには、そんな高価な物買えないよ。もう年なんだ、そろそろ迎えが来たっておかしくない。治療なんていいよ」シャンタルは、仕方がないことだといった風に言い、服に付いた土を落としながら、立ち上がった。


 ミュリエルとモーリスは、両脇からシャンタルの体を支えた。


「そう言わずに、シャンタルさんにはもう少し長生きして、ミュリエルの子供を抱いてもらわないと」モーリスが言った。


「ハハハ!そりゃいいね、このあたしに、ひ孫ができるのかい。ミュリエルの子は可愛いだろうね。だがね、ミュリエルの旦那になるなら、このあたしに気に入られなきゃならない、そりゃ、ちと難しいよ。あたしは苦労してここまできたからね。そこら辺のひ弱な男にゃ、負けないよ」


 シャンタルは若い頃、夫を戦争で亡くし、女手一つで息子を育て上げたが、その息子も不治の病を患い、先立ってしまった。


 ミュリエルは時々、シャンタルの往診へ行くモーリスに付き合っていただけだが、なぜか気に入られてしまった。


「それは俺も同感だよ、シャンタルさん。ミュリエルを嫁にやるなら、俺より強くないとな」


「モーリスさんもシャンタルさんも、からかわないでください」


 僅かに頬を染め、俯いたミュリエルを、モーリスとシャンタルは笑った。


「ジゼルが暴走しないうちに、帰った方がよさそうだね」シャンタルが言った。


 ジゼルの勢いは止まることなく、うちの娘は若干17歳にして、立派な薬師なのだと、胸を張って自慢していた。


「おい、ジゼル、そろそろ帰ろう。日が暮れてしまう。それに俺は走りすぎて腹ペコだ」


「え?ああ、そうね、そろそろ帰って夕ご飯にしましょう。今日はミュリエルが大活躍したから、ミュリエルの好物を作ってあげようね」ジゼルはミュリエルが褒められているのが、自分のことのように嬉しくて、スキップしたくなるくらいに浮かれた。親バカになるのも悪くないと思えた。


 サラとレオが先を歩き、シャンタルをおぶったモーリスと、ご機嫌なジゼルに挟まれ、ミュリエルは夕日に照らされた家路を歩いた。

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