第28話「おうちデート⑤」

 そのあとは何事もなく、勉強会も無事に終わった。

 5時半になり、そろそろ母さんが帰ってくる時間だ。

 こんな状況を目撃されたら、片桐さんを襲いかねない。


「では、私はこれで失礼しますね」


 荷物をまとめた片桐さんは、玄関の前でくるりと振り返り、いつもの優しい笑みを浮かべた。


「なんか、ごめん。今日はいろいろ迷惑かけた」

「迷惑、ですか?」

「だって、わざわざ僕の家まで」

「そんなの、迷惑のうちにも入りませんよ」


 ふふふ、と片桐さんは右手を口に当てて上品に笑う。


「私が行きたいと言い出したんです。あなたは何も悪くありません。そうだ、もしよろしければ明日もお邪魔してもよろしいですか?」

「構わないけど……大丈夫なの? ここまで来るの、大変でしょう?」

「いいえ、そんなことないですよ。もう場所も覚えましたし」


 そうは言うけれど、この家から駅に向かうまでは、自転車がないと少々辛い距離だ。

 おまけにこの炎天下ときたら、「しんどい」のたった一言で片づけるには少しおこがましいくらいの疲労が溜まるだろう。


 だからわざわざそんなことしなくていいのに、片桐さんはそうしたいと申し出る。

 全く持って意味がわからない。


「……本当にいいの?」

「はい。もちろん」


 即答だった。

 ここまで言われたらこっちも引き下がれない。


 さらに片桐さんは僕に詰め寄ってくる。


「私、外出禁止令なんてくそくらえって思ってるんです」


 ニヤリと不敵な笑みを浮かべた彼女は、いきなり僕の手を引っ張って、玄関の扉を開けた。

 まだ外は明るく、夕方だというのに太陽の日差しが強い。

 その日光が眩しくて、僕はほんの少しだけ目を瞑った。


 再び目を開けると、目の前の片桐さんはうずうずとした表情を見せる。


「どうです? 外の世界ですよ?」

「別に……いつもと同じ景色だよ」

「そうですね、何も変わらない風景だと思います。あなたが家に引きこもろうがなかろうが、世界は変わらないです。なら、楽しい方向に転がった方が、人生面白いじゃないですか」

「大げさだな」


 それに、本質とかけ離れている。

 そういう言葉は外部に絶望して自分の殻に閉じこもっている奴に言うべきセリフだ。

 僕の場合、母さんの呪縛でやむを得ず外出ができないだけであって、別に外の世界を悲観しているわけではない。


 片桐さんは続ける。


「別に散歩くらいならいいんじゃないですか? この周辺をぐるりと回るくらいなら。なんなら、3歩だけ外を歩く、というのも──」

「つまらないギャグだね」

「ひどい。渾身のネタだったのに」


 小学生でも思いつくような駄洒落をよく渾身の一発として持っていくことができたな、と半ば呆れながら感心する。


 片桐さんは手を離し、今度は冗談を抜いた純粋無垢の輝きを放つ笑みを浮かべた。


「昨日言ったこと、覚えてます?」

「昨日? いろいろ言われすぎてどれがどれだか」

「それもそうですね。えっと……あなたといろんなところに行きたかった、というのは?」


 ちゃんと覚えている。

 少し声がしんなりとしていたから余計に。

 まさか、本当に僕をどこかへ連れて行く気ではないだろうな、と少し身構えてしまった。


「大丈夫です。村山くんが想像しているようなことはしません」

「じゃあ何?」

「いえ、来年の夏はみんなでいろんなところに行きたいですねって、思っただけです」

「みんな? ……ああ、須藤や藤堂さんか」

「他に誰がいるんですか」


 それもそうだな、と僕も笑った。

 僕の交友関係が狭いのはもちろんだが、それは片桐さんもそうだった。

 表向きは誰とも隔たりなく仲良くできて、交友関係は広いけれど、僕や須藤たちのように休日まで会うような人は滅多にいないらしい。


 僕と片桐さんは対照的な場所にいるようで、案外近いところで生きているのかもしれない。


「そういえば藤堂さんから『来週の花火大会、一緒に見に行かないか』って誘われているんですけど、どうですか?」

「ごめん。行けそうにない」

「それは外出禁止令のせいで?」

「いや、そうじゃなくて。この日は母さんの実家に帰る予定なんだ」


 毎年お盆と正月の季節になると母さんの暮らしていた実家に帰省することになっている。

 ここから車でおよそ1時間はかかるため、当然花火大会には参加できない。


「そうなんですね、残念です。まあ、私も用事があるので行けないんですけど」

「用事って……まさか」

「はい。想像通りのことです」


 やめろと言ったのに、片桐さんはまだ続けているようだ。

 溜息を吐きながら、僕は彼女を睨んだ。


「危険だ」

「でもダメなんです。あの愛されている感じが、肌から離れなくて」


 悲しげに彼女は笑った。

 もう、これは一種の依存症なのかもしれない。


「それが、君の『生きたいように生きる』ってことなの?」


 昨日彼女本人から電話越しに言われた言葉だ。

 そっくりそのまま返してやる。


 片桐さんは唇を噛んでしばらく沈黙し、また笑みを浮かべて返答した。


「こうすることでしか私は生きられませんから」


 答えになっていない。

 だけど、追撃することはできなかった。

 彼女の過去を知って、片桐さんなりにもいろいろ思うところはあって、でもこうすることしかできなくて。

 彼女が切ない笑みを浮かべるのを見て、きゅーっと胸が締め付けられる。


「それでは、私はこれで」


 片桐さんはペコリと頭を下げ、この場所からスタスタと立ち去って行った。

 逃げた。

 それは誰の目から見ても明らかなことだった。


 僕は小さくなっていく彼女の背中を見送り、母さんにバレないうちに家の中へと戻った。

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