第22話「冷たい帰宅①」

 電車を乗り継ぎ、長い旅を終えた。

 駅に着いた時刻は6時を大幅に回っていたけれど、不思議と焦りはない。

 片桐さんが僕と似ていることを突き止めたからだろうか。


 いや、今はそんなことどうでもいい。

 駅を降りて須藤たちと別れた僕は、真っ直ぐに家へと向かった。

 スマホを確認してみると、母さんからの鬼電がいくつもかかっている。


 どこにいるの。

 心配している。

 早く帰ってきて。


 そんな大量のメッセージと共に、大量の通話履歴がトークアプリに残されていた。

 背筋にひんやりとした感覚が走る。

 こんなトーク履歴、見たことがない。

 それは僕がいつも母さんの機嫌を損ねないようにしていたからだけど、本気で怒るとこうなるのか、と一種の恐怖を感じた。


 家に近づくにつれ、自転車を漕ぐ足がどんどん重たくなる。

 大丈夫、と片桐さんたちには言ったけれど、ちょっと大丈夫そうじゃない。


 恐る恐る、僕はドアノブを開けた。


「ただいま……」


 小さく呟いた。

 どうか、聞こえないでほしい。

 そんな一抹の願望を抱いたからだ。

 しかし現実と言うのはいつもそんな願いとは裏腹に、母さんの慌てたような足音が僕に近づいてきた。


 リビングからやってきた母さんは、血相を悪くしていて、少しやつれていた。

 確かに門限は過ぎてしまったけれど、まだ外は明るいし、そこまで大事にするようなことでもないと思う。


 しかし、母さんの中ではやはり一大事だったのだ。


 一発、ヒリヒリと右頬に強い衝撃が加わった。

 一瞬の出来事だった。

 記憶の限りでは、母さんが僕に手を出したことなんてこれが初めてだ。

 当然、父さんからぶたれたことなんて一度もない。


 そこまでするかという困惑よりも、母さんが僕を見る目が怖かった。

 怒りではない。

 軽蔑。

 瞳には光が宿っていなかった。


「どうして約束を破ったの? お母さん、6時には帰ってきなさいって言ってるでしょう?」

「ごめん……」


 感情の入っていない声が余計に恐怖を駆り立てる。

 いつものヒステリックより何倍も精神的なダメージがあった。


「それに、今日は図書館で勉強じゃなかったの?」

「それは……」

「嘘、ついていたのね、お母さんに」


 返す言葉も出なかった。

 事実その通りだから。

 最初は乗り気じゃなかった、なんて言い訳も通用しない。

 だって、楽しいと思ってしまったのだから。


 母さんは僕の肩をがっちりと掴んだ。

 相手のことなんてまるで考えていない、ぎゅーっと締め付けるような痛さが肩から伝わってくる。


「いなくならないでって言ったじゃない。私のことを裏切らないでって、言ったじゃない。ねえ、どうして私の言うことを聞いてくれないの? 太一」


 抱きしめようとしているのか、握りつぶそうとしているのか、僕にはわからなかった。

 ただ痛みだけがそこには存在している。

 結局僕のことよりも自分のことが大事なのだ。

 母さんは、そういう人だ。

 いつの間にか、自己愛と親子愛をすり替えてしまっている。


 ごめん、という言葉すら出てこなかった。

 それほどまでに母さんは冷徹で、圧倒的で、威厳のようなものがある。

 この家では、母さんに逆らうことなんてできない。

 改めてそれを思い知った。


 無言を貫き、下を向く。

 本当は何か弁解した方がいいのかもしれない。

 もしくは、謝罪の言葉でもかけた方がいいのだろう。

 だけどそんな簡単なことすらできなかった。

 喉元を何者かに締め付けられるように、言葉が喉に引っかかって何も喋れない。


「太一はいい子だから、今日は悪い子に唆されたのよね? だからお母さんとの約束も守れなかった。そうよね?」


 沈黙を貫く。

 それは母さんに対する威圧からではなく、片桐さんや須藤たちを「悪い子」と評されたことに腹を立てたからだ。

 須藤や藤堂さんは僕の数少ない友人だ。

 僕をからかったり、ウザ絡みしてくるけれど、なんだかんだ一緒にいて楽しい。

 そう思わせてくれる大事な人たちだ。


 片桐さんもそれは同じだ。

 まだ須藤たちほどではないけれど、それなりに打ち解けた、と思っている。

 確かに表に言えないようなことをやっているけれど、それは愛情不足ゆえの行動であり、その点は僕と似ているから勝手にシンパシーを感じてしまう。


 そんな人たちを「悪い子」の一括りにされてしまうのはやはり頷けない。


 しかし母さんを否定することはできなかった。

 否定すれば、また面倒なことになる。

 だからこれはせめてもの抵抗。

 否定はできないけれど、肯定もしたくない。


「……そう」


 何かを察したのか、母さんはそれだけ呟いて、僕の肩を離す。

 感情のこもっていない、生気のない顔。

 本当に自分の母親かと疑いたくなる。


 母さんはまるで僕に愛想を尽かしたかのようにクルリと振り向き、台所へと向かった。


「明日からしばらく外出しちゃダメよ。どこにもいかないで」


 まあ、そうするだろうな、とどこか冷めて目で見ている自分がいた。

 母さんを裏切ったのだ。

 それ相応のペナルティは受けるつもりでいたから、別にこのくらいで驚きはしない。

 ただ、もう片桐さんと勉強ができなくなると思うと、それは……少し寂しいな。

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