第9話「勉強会③」

 昼食を食べ終えた僕たちは、図書館に戻った。

 午前よりも勉強スペースを使う人は多く、僕たちが座っていた席も、別のご年配の人が利用している。


「どこに座りましょうか」

「どこでもいい。早く始めよう」

「じゃあ、あそこにしましょうか」


 片桐さんは窓際の席を指した。

 まだテーブルはいくつも残っている。

 向かい合った方が教えやすいだろうに、どうして居酒屋のカウンターのような席に座ろうとするのだろう。

 それに、窓からの日光が眩しいし、熱線も浴びたくない。


「テーブルでいいでしょ? 他にもいっぱい空いてるし」

「ダメです、隣同士になりましょう?」


 頑なに言うことを聞いてくれない。

 これはもう何を言っても無駄だ。

 相手が自分を曲げないと、後々面倒であるということは既に母さんで証明されている。


 はあ、と溜息をつき、僕は彼女が指定した席に座った。

 こういう席は荷物を置く場所もテーブルと比べると限られるから、あまり好きではないのだけれど。


 片桐さんは僕の右側に座り、椅子を寄せた。

 なぜか朝よりも彼女は調子づいている気がする。


「で、午前の続きでもやりますか? それとも、別の教科をしましょうか」

「どっちでもいい。僕がわからなかったら、教えてって言うから」

「わかりました」


 彼女は素直に黙々と問題集に取り掛かった。

 僕も今度は数学の課題を進めた。

 英語と違って数学に関しては、少し自信がある。

 とはいえ少しできる程度なので、片桐さんと比べたら全然足元にも及ばないが。


 10分くらいが経っただろうか。

 ぷに、と片桐さんが僕の頬をシャーペンでつついてきた。


「……何?」

「つまらないです。退屈です。何かわからないところはないんですか?」

「ないよ。今のところはね」

「面白くないです」

「君は僕のことをなんだと思っているの」


 半ば呆れながら僕は問題を解き進める。

 まだ学校で習ったところの復習で、基礎的なところばかりだから、今のところ片桐さんの手を借りることはない。

 が、彼女はそれが気に入らないらしい。

 承認欲求、というやつだろうか。


 援助交際をしているのだって、一種の承認欲求を満たす行動なのかもしれない。

 彼女が思う「愛されたい」とは、つまり承認欲求の一部なのではないだろうか。


 そんなことを思っていたら、ニヤリと片桐さんは僕の隣で笑った。


「そうだ、何か面白いことを言ってください」

「どうしてそうなる」

「いいじゃないですか。私の欲求を満たすためです」


 どうしてそうなる、と頭を抱えたけれど、僕には片桐さんに話せるような面白い話なんて何もない。


「じゃあ、全然面白い話でもないんだけど、さっき君が言ってたルイ……なんだっけ」

「ルイ・アームストロングですね。それがどうかしたんですか?」

「いや、誰なんだろうって少し気になってね。あと、その『What a Wonderful World』って曲も」

「有名な楽曲ですよ。聴いてみますか?」


 僕の是非も問わず、片桐さんは自身のスマホにイヤホンを差し込み、片方を僕に差し出してきた。

 動画サイトの画面には件の人間らしき黒人の画像が映っている。


 彼女に言われるがまま、僕は右耳にイヤホンをつける。

 流れてきたのは、どこかで聞いたことのあるジャズ音楽だった。

 どこで聞いたのかはわからない。

 テレビのCMだったか、ドラマの挿入歌だったか、あるいは、何かのタイミングでこの曲そのものを知っていたか。

 タイトルも歌手もわからなかったけれど、そうか、これが片桐さんが言っていた曲だったのか。


 ふうん、と僕が音楽を聴いていると、片桐さんは僕に身体を椅子ごと寄せてきた。


「な、何?」

「コード、ちぎれちゃいますから」

「そんなにヤワじゃないでしょ」


 だったら無線のものにすればよかったのに、という言葉は胸の奥に飲み込んだ。

 だってこれは、作戦かもしれないから。

 こうやって、数多の男たちを手にかけてきたのだろう。


 だけど僕はその手には乗らない。

 まだ全部聴けていないけれど、僕は彼女のイヤホンを外し、再び勉強に取り掛かる。


「もういいんですか?」

「どういう曲なのかはわかったしね。これ以上君に迷惑はかけない。また家に帰ってからちゃんと聴くよ」

「……本当につまらない人ですね」


 その言葉が何を意味しているのか、僕にはあまり理解できなかった。

 まあ、そう思われているのならそれでいい。

 自分でも自分がつまらない人間だということは、十分わかっている。

 面白味の欠片もなく、ユーモアのセンスすらない。

 そんな乾いた人間が僕だ。

 何を今更、と吐き捨てたくなる。


 そこから、僕たちは必要最低限の会話しかしなかった。

 あれだけちょっかいをかけてきた片桐さんだったけど、僕がわからない問題を尋ねてくるとき以外は常に黙ったまま問題集を解き進めている。

 彼女が解いているのは夏休みの課題で出されたものではなく、おそらく市販の参考書だ。

 プラスアルファの勉強もして偉いと感心するのと同時に、どうしてそこまで勉強するのかと少々疑問に思ってしまう。

 片桐さんの成績なら、そこまでしなくてもきっといい点数は取れるだろうに。

 まあ、それをするから高得点が取れるんだろうけれど。

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