第5話「親①」

「ただいま」


 誰もいない薄暗い家に声をかける。

 当然誰も反応してくれない。

 僕は部屋の明かりをつけ、2階の自室に入り、買った漫画を読み始めた。

 本当は帰りの電車で読むつもりだったけれど、思わぬ出来事が立て続けに起きてしまったから、読むことができなかった。

 だけどこれで心置きなく読むことができる。


 ベッドで横になり、静寂の中漫画を読む。

 店舗特典目当てで遠くまで出かけたけれど、その割にはあまり面白くない。

 物語が、という意味ではなく、この漫画を読んでいる時間が。


 やっぱり片桐さんと過ごした時間の方が強烈だった。

 当然あんな場所で出会えるなんて思っていなかったし、彼女の闇というしばらく脳裏に離れなさそうなものを目撃してしまったからではあるけれど。


 丁度漫画を読み終わったタイミングで、ガチャリと玄関の扉が開いた。

 母さんだ。

 僕は漫画をベッドの下にしまいこんで、勉強と向かい合う。


 階段を上ってくる足音が聞こえる。

 一歩、また一歩近づくたびに妙な緊張感が、それこそ凍り付くような雰囲気が背後から忍び寄ってきた。


 僕の部屋をノックする。

 返事もしていないのに、母さんは勝手に扉を開けた。


「あら、帰ってたのね」

「うん。早く用事が済んだから」

「別にいいのよ、門限までに帰ってくれたら」


 ニコニコと張り付けたような笑みを浮かべる。

 母さんが言う門限は午後6時だ。

 高校生にもなって門限なんて、過保護ではないかと首を捻りたくなるけれど、その時間もとても早く設定されている。

 学校の最終下校が6時だから、必然的に部活なんてできない。


 母さんは後ろから僕を優しく抱きしめる。

 その優しい抱擁が異様に気持ち悪く感じた。


「勉強しているのね。嬉しいわ。模試は散々な結果だったから、次はきっといい成績が取れるわね」

「そうだね、頑張るよ……」


 そもそも7月に受けた模試は平均点が低くなるように設定されている。

 ましてや、高校に入ってばかりでまだ勉強に慣れていないから、いきなり入試対策なんて言われても今ひとつピンと来ていない。

 それでも母さんは単純に好成績を求めているから、全く滑稽なものだ。


 今日は本を買うために少し出かける、と言っただけで、もしも漫画を買っていると知ったら没収だれてしまうだろう。

 そして迷ってしまったとはいえ、ホテル街に足を運んでしまったのだ。

 もしもそれがバレてしまったら、きっと一生外出することなんてできない。


 母さんは下に降りて、今日の夕食を作りにキッチンに戻った。

 どっと疲れが息と共に吐きだされる。

 明確な愛情は感じるけれど、その愛がいつも痛々しい。

 あの抱擁だって、棘のようだった。


 片桐さんの言葉が脳内でリフレインする。


 ──愛されたいんです、私。


 だったら僕の母さんの愛をくれてやる。

 母さんの愛は強い。

 一途に愛してくれるから。

 ただ、強すぎて痛々しいけれど、愛されたい彼女からしてみれば嬉しい話だろう。


「なんで、歯車って嚙み合わないんだろう」


 それっぽいことを言ったつもりだったけれど、あまり意味はない。

 馬鹿馬鹿しくなって、夏休みの課題になっている問題集を開く。

 教科書を開きながら、ゆっくり、少しずつ問題を解き進める。

 数学はそれなりにわかるけれど、英語は全くわからない。

 中学時代はどの強化も普遍的にできたのに、高校に入ってから苦手かそうでないかが顕著に差が出てき始めた。


 ごはんよ、と1階から母さんの声が聞こえる。

 僕はペンを置き、問題集を閉じた。


 ダイニングには料理が並べられていた。

 サラダに唐揚げ、南瓜煮……メニューだけ聞けば美味しそうだけど、正直に言ってしまえば母さんの料理はそこまで美味しくはない。

 美味しくない、と言うより味がほとんどしない。


「今日は腕によりをかけたのよ」

「そうなんだ」


 適当に返事をする。

 やる気のある無能ほど恐ろしいものはない、と聞いたことがあるけれど、なんとなくわかる気がする。


「いただきます」


 片桐さんに倣って、僕も手を合わせた。

 だからと言って食事が美味しくなるかと問われたら当然そんなことはなく、いつものようにあまり味はしなかった。

 今日、ジャンクフードを食べたせいだろうか。

 それもあっていつも以上に味が薄い気がする。


 母さんの手料理を食べるたびに思い出すのが、父さんの料理だ。

 薄味派の母さんと違い、父さんは濃口派の人間だ。

 しかし出汁はちゃんと取るし、調味料にもこだわっていて、父さんの作る料理はとても美味しかった。

 だから食事はいつも父さんが作ることになっていて、僕たち2人はその料理をいつも「美味しい」と笑い合って食べていた。


 だけどその父さんはもうどこにもいない。

 父さんの手料理はもう二度と食べられない。


 チラリと居間に飾られている父さんの写真を一瞥し、僕はまた母さんの作った唐揚げを食べた。

 やっぱり味が薄い。

 正直、このラインナップで一番美味しいと感じるのがサラダだなんて、なんだか悲しい感じもする。

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