第1話

 粘性のある液体を表面に纏った、巨大なナメクジのような怪物が大通りを移動している。絶え間なく粘液を放出しているためか、巨大ナメクジが通った場所には、雨が降った後のようなぬかるみが出来ている。

 志苔館しのりたて里莉さとりは建物の影に隠れつつ、その巨大ナメクジが過ぎ去っていく姿を冷静に見ていた。

 巨大ナメクジはゆっくりとしたスピードで大通りをゆっくりと移動し、十分後にはその姿も遠くなっていた。もう感知されることもないと判断した曾我谷そがたに大介だいすけは、安全を確認しつつ建物の影から身を表した。その後に続いて里莉も大通りに出る。

「ねえ、あれって死体よね」

巨大ナメクジが通った後の道路に横たわる人影を指さして里莉が尋ねる。

「ああ、死体だな。危険はないと思うが……ちょっと待ってくれ」

 大介は落ち着いた足取りで道路に横たわった死体に近付き、手短に調べると、こちらを一瞥し大丈夫だと合図を送る。大介の傍らには、四十過ぎほどの太った中年男性の死体があった。

 合図を受け取った里莉は死体に近付き、詳しく観察する。

「あの巨大ナメクジの粘液、別に人体に影響はなさそうね。

 巨大ナメクジの通り道に横たわっていたため、その死体は粘液まみれではあるものの、死体の身につけている衣服が融けたり、皮膚がとけたりといった様子は見受けられない。もっとも、死後かなりの時間が経過しているせいか、その男の死体は腐敗している。

「胴体に鉤爪みたいなのでえぐられているわね。これが致命傷みたい」

「ふーん。傷跡的に昆虫型の怪物にやられたってところか。死体がだいぶつぶされているけど、これはさっきのナメクジか」

 少し離れた場所からでも臭うくらいの強烈な異臭を放っている死体を、里莉は表情を変えることなく観察する。

「そうなんじゃない?さすがに十メートル以上あるものが上を通ったらただじゃ済まないでしょ。ま、死体そのものには興味がないっていうのはどの怪物にも共通してるみたいね」

 人を襲い殺していく怪物ではあるが、それは食するためではないとされている。というのも、怪物が人を喰う、ということは報告されたことがないのだ。少なくとも里莉たちは聞いたことがなかった。そもそも口や胃に該当する器官がない怪物も多く、ただ人間を殺戮するために活動する怪物がほとんどであった。そのため、怪物が興味を示すのは生きた人間であり、死体には一切興味を示さないとされている。

 そのため、先ほどの巨大ナメクジの怪物は、道すがら倒れている死体を通るだけで終わったのだと考えられる。

「死んでどのくらい経ってる?」

「うーん……一ヶ月くらいは経ってるかな」

「手錠で両腕を後ろで固定されてるが、これは見せしめってところか」

 その死体を調べるが、特にこれといった所持品もない。

「そうなんじゃない?手錠かけられて何も持たされずに放り出されたんでしょ。それで怪物との追いかけっこをさせられたんじゃないかな」

 文明が崩壊し、警察組織や法律による犯罪抑止機能が無くなってしまった現在、力を持った人間が他の人を奴隷のように扱ったり、食料などを独り占めするために殺害したりするということは珍しくはない。そして、人びとが集まりコミュニティを作った中で、そのコミュニティ内の規律を守れなかった人物や、コミュニティのリーダーに反抗した人物を処刑する、なんていうことも里莉は聞いたことがあった。

「まあ、どこで放り出されたかは分からないが、この男が元々いた場所も近いだろうな」

「怪しいのはあそこだよね」

 里莉は巨大ナメクジの来た方向を指さす。向こう側には巨大な壁が見える。

「そうだな。食料には余裕もあるし、そんなに切羽詰まっているわけではないが……やっぱり気にはなるよな」

 里莉の性格をよく知る大介は、里莉が壁の向こう側に行こうとするのは分かり切ったことだったが、念のため聞いてみる。

「うん。たぶんあの向こう辺りに人が住んでる可能性は高いと思う。ただ、この”ただすけ”が見せしめのように死んでいるから、あんまり友好的じゃないかもしれないけど」

「それはそうかもしれないが……”ただすけ”ってこの男のことか?」

「うん。名前も知らないし、とりあえずそう呼んどこうかなって」

「……そうか、いやまあどうでもいいけど」

 この死んでる中年男を何度も呼ぶ機会なんてないと思ったが、別に反対する理由もない大介はその辺で話を切り上げる。


「でっかいわね。すご」

 死体のあった場所からさらに歩いていくと、100m以上あると見られる壁の近くまで来れた。壁が大小様々な岩が積みあがって出来ており、そこに人の手が加わっているようには見受けられない。

「局所的天変地異でも起こったのかな。それとも特殊体質の能力とか」

 科学的に説明のつかない天変地異が世界中で起こっているが、そのなかでも二種類に分けられる。地形変動のような事象が突如として起こる局所的天変地異と、異常気象が定期的に同じ場所で起こる持続的天変地異である。

「にしてもどこまで続いてるんだろうね。終わりが見えない」

 里莉たちの前にある岩壁は、建物や道路を無視するかのようにそびえ立っており、ぐるりと円を描くように岩壁があるのはなんとなくわかってはいるが、いかんせん大きすぎるため全貌がつかめない。

 岩壁を見ても、梯子や階段といったものは見られず、少なくとも岩壁を登るのは難しそうだった。

「あっちから入れそうだな」

 大介が濡れた跡を辿るようにして壁に沿うようにして歩いていく。

「ほら、やっぱりな。火薬の匂いがしてたんだよ。昨晩の爆発音はここっぽいな」

 大介が指さす岩壁のところには、十メートルくらいの高さの穴が空いてた。

「じゃあ昨日の爆発音はここを破壊するためのものってこと?」

 旅をしている里莉たちが、昨晩寝ている時にどこからか大きな爆発音が聞こえてきたのだが、その原因がこの場所だったらしい。

「そうだな。こんだけの穴を開けるのに結構な火薬を使ってるから、まだ火薬の匂いがプンプンする」

「言われればそうかも」

「ただ、どうも変な感じがするな」

 そう言って大介は穴付近の壁によじ登ったりして詳しく調べる。

 身長が2m近くある大介は、運動能力に優れており、また格闘技にも精通していて、複数人が相手でもものともしない強さを持っている。そのため、これまで様々な危機に遭遇してきた里莉たちだったが、ここまで無事に旅をしてこれた。

 里莉は岩壁にぽっかりと空いた穴をのぞく。岩の破片や土砂はあるが、人が出入りできるようにはなっている。壁の向こうは外側と変わらない風景が続いているように見える。

「やっぱり、ここ2回爆破されているな」

「2回?それは2回に分けて爆破しなくちゃ壁に穴が開けられなかったってこと?」

「いや、時間を置いて爆破されてるな。2回目は昨晩だけど、一回目はもっと前だろう。詳しくはわからないけど5日以上前だな。材質の違うものが爆破されてるんだよ」

「ん?あー言われてみればそうだね」

 爆破によって生じた瓦礫や土砂をよく見ると、下の方にはそびえ立っている岩壁の一部と見られる岩があり、その上には成分の違う土砂が大量に積み重なっている。

「ここにある土、この周辺で使われているようには見えないだろ?」

 岩壁は岩しか見当たらず、周辺の道路や建物はコンクリートである。

「一度目の爆破で岩壁に穴を開けて、その後何らかの方法でその穴を土壁で塞いだ。そして昨晩その土壁を爆破したってところだな。土砂を見たら爆破してからそんなに時間が経ってないのがわかる」

 里莉も瓦礫や土砂に手を触れてみるがよく分からなかった。大介は運動能力だけでなく、五感も常人のそれよりもはるかに優れており、聴覚や嗅覚などで怪物の存在を察知することもできたりする。

「あの巨大ナメクジ、この壁の向こう側から来たみたいね」

 粘性のある液体の通った跡が地面だけではなく、穴の壁面全体に残っていた。

「巨大ナメクジだけじゃなくて、他にも二匹ぐらい怪物が通った感じがするな」

 大介は瓦礫の近くを調べている。粘性の液体がない地面や瓦礫の山に、獣の毛があったり、巨大な蹄の跡がわずかに残っていた。

「近くにはいないんでしょ?それじゃあとりあえず行ってみましょ」

 粘性の液体のせいでぬかるんだ地面に足跡をつけながら里莉たちはゆっくりと歩いていく。


 壁の中へと入っても特に大きく風景が変わるわけでもなく、ただ人のいない街並みが広がっている。巨大な岩壁はぐるりと土地を囲むようにそびえ立っているようで、遠くに反対側の岩壁があるのがかろうじて分かる。

「大きなテーマパーク以上の広さがありそうね」

 辺りを見渡して里莉が言う。

「そうだな」

 大介はそんな返事をしながら、地面に耳をつけて目をつぶる。

「うん、この辺りで動いている怪物はいなさそうだな。音は聞こえない。ついでに言うなら、生きた人間もいないんじゃないかな。それなりの人数がいたらさすがに分かるけど、その気配もないな」

「へえ。向こうなら大学の敷地もあるから、その辺で何人か集まってコミュニティでも作ってるのかなって思ってだけど」

 道路にある標識によると数百メートル先に大学があると書いてあり、それらしい敷地が確かに向こう側に見える。

「まあ、息を潜めて隠れてたのなら別だけどな」

「とりあえずあの大学でも行こっか」

 穴の近くは半壊、もしくは全壊した一軒家が規則的に並んでいる。どうやら怪物によって壊された建物がほとんどである。

 また辺りを見渡してみると、10mから20mほどの高さの土壁が不規則に乱立していた。

「あの岩壁とは成分が違うみたいね」

 土壁に軽く手を触れながら里莉が言う。様々な大きさの岩によってできている岩壁とは違い、学校のグラウンドで見るような土でできている。土自体には違いは見られないが、壁大きさや形は様々であった。

 そうした土壁のせいで壁の中の様子が分かりにくいものになっている。


 大学の敷地は金網によって囲まれているが、ところどころ怪物によって破られており、大学の門と思われる場所に至ってはほとんど原型を留めていなかった。

 壊れた門扉の瓦礫の中には大学名の書かれたプレートが見つかり、壁に入ってすぐのところで見た標識の大学名と一致している。

「有綸大学……そういえばそんな名前の大学聞いたことあるかも。割と最近できた大学で、ちょうど受験生の時に大学調べてたときに見た気がする」

「そうか。俺はそもそも大学に行く気がなかったから、全然知らないな」

 里莉も大介もともに現在二十歳であり、元々は同じ高校の同級生であった。里莉は大学に入学したはいいものの、その頃から世界各地で怪物が現れたため、大学生活をほとんど送ることなく今を迎えている。

 崩れた門扉から少し歩いたところに、第一守衛室と書かれたプレハブ小屋程度の大きさの建物があり、こちらは綺麗に残っている。

「死体があるな」

 と、大介は守衛室に近づきつつそう言った。

 守衛室の出入り口であるドアは空いており、どうやら誰かがこじ開けたようだった。

「わ、ほんとだ」

 大介に続いて守衛室に足を踏み入れた里莉もそれを見つけた。

 守衛室の中は監視カメラの映像を見るためのものと思われる十数個のモニターでほとんどが埋まっており、その他ロッカーや水道、電子レンジや小さな冷蔵庫があり、薄くホコリがかぶってはいる。

 そして、水道のあるシンクと机の間に若い男の死体が倒れていた。顔は苦悶の表情を浮かべ、喉を掻きむしるような格好で倒れている。

 里莉は身をかがめ死体の様子を詳しく調べる。

「この死体……毒もしくは薬品を飲んで死んでるわね」

 里莉は死体の口の中をライトで照らしたり、匂いを嗅いでそう判断した。

 それを聞いた大介は水道の蛇口を捻り水を出す。蛇口からは無色透明な見た目は普通の水が出てきた。

「……臭いもそんなにはしないが」

 そう言いながら大介は蛇口から出ている水を少しだけ手の甲につける。

「かなり薄くはなっているけど、なんか薬品が混じってるな」

 大介は蛇口についた少し大きめな浄水器を解体する。

「やっぱり誰かがこれいじってるな。外側もそうだけど、中のフィルターとかも手を加えた形跡がある。ここに薬品を仕込んで元に戻したんだろう」

「倒れた位置からしても、この男の人はここの水道水を飲んで死んだんでしょうね。死体が動かされた形跡もないし。……とりあえず言えるのは、この人は誰かに殺されたってことね」

 そう言う里莉の顔はどこか楽しそうな表情をしていた。

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