一章 精迷の森
第16話 異端審問教
雲一つなく、煌々とした満月が浮かぶ夜に吹く風はとても緩やかで、暗く暗く奇妙な夜であった。
大国アメリア。世界でも有数の軍事力を誇るこの国では、国内において安心安全が保障されている。巡回する衛兵の質も高く、暴力行為の事件は滅多に見ない。金回りもよく、国民はみな笑顔が絶えず、貴族の屋敷なども多いのだ。
素人目で見ても国力の高い国であると分かる。長い歴史の中で近年は特に安定していた。他の大国もアメリアにわざわざ挑もうとはせず、分の悪い戦争はほとんどない。よって戦績は連戦連勝。
果たして、その訳は。
アメリアにある教会。その教会を建てた宗教の名こそ、異端審問教。
その名の通り異端審問官を多く抱え込んだ宗教団体だ。しかし宗教とは名ばかりで信者と呼べるような信仰心の強い敬虔な者も少ない。そもそも信仰の象徴となっているのが法王であり、事実上は異端を許さぬ単なる組織のようなものなのだ。むしろそう呼ぶ方がしっくりくるほどである。
だから組織の名前にこだわりはない。一番都合がいいから宗教という言葉を借りた。ただそれだけである。
そんな組織が狩りつくすことを目指す“異端”とは。それすなわち不死である。長寿とは全くの別物であり、この世の理からはずれし異能だ。不死系の魔物、魔人、それらを狩りつくすことこそ、彼ら異端審問官の使命なのである。
だが当然、長き時を生きる異端は強い。知恵なき下位のアンデット系ならまだしも、魔人などになってくると話は変わる。ただでさえ高いスペックに積み上げられていく技術。限界と定められた壁も軽々越えていくのだ。
不死者たちの上位にもなってくると伝説で語られる存在たちが多く出てくる。相手にしてはいけない存在。しかし狩らねばなるまい。そのために異端審問教は存在する。
そして、対抗するほどの戦力も備えている。
異端審問教が誇る最高戦力、十人の異端審問官────十審。
異端に屈しず、滅し屠りし世界の調和を整え続けてきた精鋭だ。この者たちはそれぞれがA級上位以上に至っていて人知を超える一騎当千の力を有している。特に十審上位ともなれば、伝説級の異端とも勝負の土台に立てると言われているのだ。
十審の他にも強者が揃っており、そこらの高位冒険者など目じゃない戦力をごろごろと抱えている。
そんな異端審問教の教会がアメリアにはある。
異端審問教は国に戦力を貸し出す代わりに、献金をもらうという形で活動していた。つまりアメリアは異端審問教の威光と自国の軍事力を掛け合わせて、近隣諸国や大国たちを牽制しているのだ。
しかしそれだけでは大国を凌ぎ、連戦連勝の強国は出来上がらない。
果たして、その訳は。
有名な話で、自国はもちろん、他国でも知らぬ者はいない。最近ではアメリア国内、ひいては近隣諸国において子供を躾けるための話として用いられるようになった。
アメリアを攻めると、悪魔が動く。
異端審問官でありながら悪魔とよばれる者。矛盾に矛盾を重ねたこの言い回しはまさに言いえて妙だ。
その悪魔がちょうど遠方から異端狩りを終えて帰ってきた晩の話。
生ぬるい風が夜の通りを抜けていく。
アメリアの首都ルーン、時刻は九時を回ろうかというところ。街の北側で人通りの少ない道を歩く一人の少女がいた。年の頃は十六ほど、短く整えた薄紫の髪を揺らしながら、背丈の小ささ故に狭い歩幅をとてとて進めながら歩く。
両手で抱え込んだパンの詰まった茶色い紙袋から食欲をそそる匂いが溢れる。鼻孔をくすぐる香ばしさに、ついつい鼻歌が漏れた。気分よさげにスキップでもしようか、そう思っていた時。
少女の可愛らしい耳がピクリと揺れる。風が攫ってきたのは、この国では珍しい悲鳴と怒声。非常に小さな音から距離の遠さが窺える。少女の判断は早かった。
両手の自由を確保するために紙袋はその場に置いた。刹那に疾風のごとき速度で街を駆け抜ける。音はなく、細い道でも蛇のごとく滑らかに進み、高いジャンプ力で屋根を飛び越えた。
景色や音、匂いなど全感覚を研ぎ澄ませる。数瞬の集中の後、藤色の眼が捉えた。
すかさず魔法を一発放つ。無詠唱で生成された極小の火球。周りへの被害を考慮して、範囲性を失くし、ある程度の威力を保ちながらスピードに特化した。
炎が目で追えぬ速度で飛んでいってすぐ、二人の男の悲鳴が聞こえる。
「ぎゃあああああああ‼ なんなんだよ畜生!」
道端でのたうち回る男。右膝を抑えながら苦悶の表情を浮かべている。少女の放った魔法が綺麗に右膝を直撃していたのだ。しかも魔法は膝を横から抉り、中で残り燃え続けている様子。
「状況から見るに、あなたが悪事を働いたと想像できましたので少々手荒に拘束させていただきました」
遠方から魔法を放ち、まだ遠くに居たはずの少女はもう男の前に姿を現していた。キュッと表情を硬くして、先刻までの上機嫌な様子はどこにもない。
「てめぇぶっ飛んでんのかこのガキッ! どこにそんな証拠があんだよ!」
男は気味の悪い動きをしながらも痛みを叫びに変えて発散する。
男は完全に自業自得だが、実際にこの少女がしたことはイカれているのだ。
少女は想像できたと言った。だがその想像の材料となったのは、女性の悲鳴、男の怒声、あとは逃げるように慌てて走っていた目の前の男を見たというだけだ。
どれほど罪の重いことをしたのかも分からない。もしかしたら何もしていない人を巻き込んでいるかもしれない。そんなことは歯牙にもかけず、一瞬の判断で淡々と魔法を放ち、えげつない方法で足止めをしたのだ。
よく言えば、それは徹底しているということなのだろう。少女は自分の思考を疑いもしない。
体内から肉や骨を燃やされる。それは想像を絶する痛みで、耐え難いものだろう。しかし苦しむ男を前に、天使のように愛らしい薄紫の少女は残酷だ。
────内から焼かれて喋れる余裕があるなら一般人ではなさそうです。冒険者崩れでしょうか?
「おいガキ! これさっさとなんとかしろよ!」
もしこの男が悪事を働いていた場合、あまりに身勝手な言い分だ。少女は当然無視、しようかと考えたが奥から衛兵が走ってくるのが見えた。逆方向からは被害者であろう女性もこちらに向かってきている。
ならばあとは引き渡すだけで逆にこの炎は邪魔になるだけ。少女はぱちんと指を鳴らして魔法を消した。
「許さねぇ。どうせ捕まるんだ。ガキ、お前だけでもぶっ殺してやる」
「はぁ……仕方がないです。胸を貸してあげましょう」
「そんな貧相な胸いらねぇよ!」
「あぁぁ! 言ってはならないことは言いましたね! もう許しません! 怒りました!」
ぷくっと頬を膨らませて地団駄を踏みながら涙目になる少女。
男は腰辺りから小刀を取り出し、隙だらけの少女へお構いなしに振るう。が、次の瞬間に男は目を剥くこととなった。少女が素手で小刀を掴んだのだ。
「なッ⁈」
白く小さな手からは血も出ていない。訳の分からぬまま男は振るった腕を下に引かれる。体勢を崩し、がら空きになった顎。そこに少女の膝がクリーンヒットする。
意識は一撃で刈り取られた。そして顎を弾かれてバク転の動きで後ろに倒れこみそうなところ。
「お仕置きです!」
少女の掌底が男の胸を突いた。べこっ、という音を鳴らしながら男は後方へ吹き飛ばされる。あっけなく勝負はついた。
おそらく肋骨を複数破壊された男は路地の奥の方で衛兵に担がれている。
「あ、あの!」
さらさらとした金髪で身なりの良さそうな女性が少女に話しかける。貴族の娘というほどではないが、育ちは良さそうだ。
「えと、あの男にはさっき鞄の中からお金を盗まれて、倒してくれてありがとうございます!」
金髪の女性は深々と頭を下げる。確かに、女性が肩から下げている鞄は中途半端に開けられていた。鞄を締め直すこともなく必死に男を追いかけてきたのだろう。
少女は戦闘中の厳しい表情をすぐに解きほぐし、打って変わって天使の表情に戻る。
「どういたしまして。それよりもあなたが無事で何よりです。夜の通りを女の子一人で歩いては生けませんよ?」
女の子、自分よりも背丈が小さく、明らかにまだ子供であろう少女にそう言われたのが可笑しくて、あるいは少女の柔らかい笑顔に当てられて、女性は泣き笑いのように「はい!」と答えた。
「お怪我はありませんか!」
男をぶっ飛ばした方から走ってきていた衛兵は二人いたらしく、そのうちの一人がこちらにやってきた。
「男の身柄はすでに拘束しました。ご協力感謝します」
衛兵が一礼する。
「大丈夫ですよ。怪我人がいなくて何よりです」
少女は笑顔のままに衛兵に丁寧に言葉を返した。そしてトレンドマークとも言えるこの笑顔で、鈍感な衛兵はやっと気づくこととなる。
「あ! あなたは! そ…………」
「わぁ!」
衛兵が何か言おうとしたところで、少女がいきなり何かに気づいたように声を上げる。
「パンが!」
「「パン…………?」」
その場にいた衛兵も女性もきょとんとした顔になる。
「ごめんなさい。パンを置いてきているので私はこれで!」
それだけ言い残して少女はまた凄まじいスピードで去っていった。
そして紙袋を置いてきた場所に戻ってきたはいいものの…………。
「にゃーお」
パンを咥えた猫がこっちを向いて鳴いて、その拍子にパンを落として、またパンを咥え直す。のんびりとした猫が家の隙間にのそのそと帰っていった。他の猫も取っていったのだろう、今のが最後の一つだったらしく紙袋は無情にも宙を舞う。
「猫ちゃんたちめぇ~、ちょっといいお店のパンだったんだぞ~…………」
膝から崩れ落ちて涙目になる少女。パンを買ったお店はもう閉まっているため、諦めてとぼとぼと帰ることにした。
満月の夜は彼女にとってついていない日となった。
豪奢な赤毛を美しく輝く。長身で引き締まった肉体と出るところの出た理想のスタイル。それは強く、綺麗で、透明感と存在感を併せ持つ女性。悪魔と呼ばれた女性である。
悪魔は自宅のソファに腰かけながら、昼のことを思い返す。
真祖の吸血鬼の一部復活。
その一報は悪魔がアメリアに返ってきてすぐの夜、異端審問教の大神官から伝えられた。
およそ600年前に封印されたという邪神。異端の中でも群を抜いて歴史の深い真祖の吸血鬼は資料で知れることは頭に入っている。伝説で語り継がれるような出鱈目な強さを誇るのだという。
本来の力を取り戻す前に潰さなければならない。真祖の吸血鬼の一部を各地に散りばめて封印している場所も守備を強化しなければいけない。
相手は伝説となった自分にとって未知数の邪神。考えることが多すぎるのだ。さすがに疲労も感じる。今日も遠征から帰ってすぐにこのことを聞かされて、身体的には問題なくとも精神的には重いものがある。
長いため息が出た。
「糖分が欲しい…………」
だらんともたれて、首に入った力を抜く。ぼーっと天井を見つめていると玄関の方で物音がした。
「マシュー様ぁ、ただいまですぅ」
聞き慣れた天使の声は自分よりもより一層疲れていた、というよりは残念そうだ。小さな足音と共に悪魔のいる部屋に入ってきた薄紫色の髪をした少女。
「おかえりソフィア。どうしたの?」
「マシュー様に頼まれたパン、猫ちゃんたちにとられちゃいましたぁ」
そういえば、晩御飯は何がいいか聞かれて、考え事が多くてパンとてきとうに応えてしまった事を思い出す。そのパンを猫に取られてこんなに落ち込んでいるらしい。ついつい、くすりと笑んでしまう。
気になることは多いがこれ以上そのことを追求するのはやめてやろうと思った。
「気にするな。晩御飯は家にあるもので何か食べよう」
「うぅ、マシュー様やさしぃ」
少女が歩いてきて、ぼふっとマシューの胸に顔を埋めた。マシューはその頭を心底愛おしそうに撫でる。
薄紫色の少女、ソフィアからは藤の花のように甘い香りがする。マシューにとって糖分などこれだけで十分なのだ。
この家には悪魔と天使が住んでいる。
異端審問教の中で誰もが認める最強の異端審問官。異端を滅す者でありながら悪魔とよばれる者。
十審 No.1 マシュー=グリフィン
悪魔の右腕。感情豊かで天使のごとく無垢な少女。
十審 No.2 ソフィア
異端審問教が誇る十審のNo.1、2がほとんど常駐という形でアメリアに駐在している。それこそがアメリアの持つ最強のカードだ。
糖分補給を終えたマシューはすぐに十審に召集の声をかけ会議を開くことに決める。満月の夜を境に、事態は加速度的に動き出した。
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