第472話 寝落ちで仕事を放棄するところだったよね?
久しぶりのミスティオの地。
角猛牛亭ミスティオ店という拠点があるし、通りを進むと見覚えのある街並みが目に映り、帰って来たという気持ちで胸がいっぱいになる。
まずは荷物を降ろしたいから、角猛牛亭ミスティオ店へと足を運ぶ。
といっても殆どの荷物はアイテムボックスに入れてあるから、偽装用のリュックサックを片付けたいだけだ。
通りを歩いているとほどなくして見えて来る角猛牛亭は、相変わらず繁盛しているようで夕方も近い今時分になると、いそいそと食事客が一組、二組と入って行く。
俺達もその後に続いて、正面の入り口から入る。
「ただいま~」
思わず零れた台詞は、帰宅した時に掛ける言葉だった。
「あら? お客さんかと思ったらエルじゃない、久しぶりね」
ザック一家の長女ジェシカが、看板娘として受付に座っていた。
因みに長男がズワルトで、王都の角猛牛亭を引き継いでいる。
「王都に行っていたんでしょ? お土産は?」
続けて飛び出した台詞で、帰って来たなと増々感じる。
俺の登場に驚きはするも、ジェシカの興味は人間よりも物欲にあるようだ。
物が手に入りやすい王都からザックさんの一存でミスティオに引っ越したものだから、友人とも離れ離れになった訳だし、その寂しさを物欲で埋めているとなれば理解できなくもない。
「ジェシカは相変わらずだな、お土産はあるけど気に入るかは分からん。 あと、ヨアヒムとは上手くいってるの?」
結婚を前提に付き合っているジェシカの彼氏。さらっと名前を呼べたけど、我ながら良く覚えていたと思う。
ザック夫妻の次代を担う一員だから、辛うじてヨアヒムの事も覚えていた。次期料理長だな、まだまだ修行中の身だけど。
「ま、まあ、ぼちぼちよ……」
言葉を濁しつつ照れながらも、恋人の事を思い浮かべ頬を染め上げるジェシカ。
この表情を見せられたら、ジェシカ達の仲の良さが良くわかる。ごちそうさまです。
「順調そうで何よりだよ」
「それよりもお土産は何?」
照れ隠しなのかジェシカが一番興味がある物を話題に上げ、流れを変えようと必死に見える。
「ここで出せる物じゃないし、ザックさん達の分と合わせてゼノビアさんに渡しておくよ」
「分かったわ、仕事が終わったらお母さんから受け取るね。 エル、ありがとう!」
土産が渡されるのが確実となり喜びの笑みを浮かべるジェシカは、看板娘に相応しい素敵な笑顔を見せていた。
……現金だがなっ。
「ラナちゃんは独り立ちしたみたいで時々泊まっているけど、パーティーは解散したのよね? テイムモンスターも増えたみたいだし、そちらのメイド服を着た女性は新しいお仲間?」
「いろいろあって連れているから……仲間みたいなものだね。 ノイフェスっていうよ」
女神から授かったライマルの補助装置などと本当の事はいえないし、ノイフェスの紹介はいつも困るな。
正直に「頑張った使徒への移動手段にもらいました! 所有物です!」なんて、口が裂けても言えない。
そもそもノイフェスが人間じゃないって、信じてもらえるかすら怪しいしね。余計な事は話さないのが一番だ。
ジェシカはあまり納得していないようだけど、俺が色々隠し事が多いのはいつもの事だし、客の事情に深入りしないのが良い看板娘というものだ。
訝しげな眼差しのまま二人部屋の鍵を受け取り、勝手知ったる我が家みたいなものだから、階段を上り荷物を置きに自室へと向かう。
「荷物はアイテムボックスにしまって、この後はお土産を渡したり挨拶に行くけど、ノイフェスはどうする?」
「ついて行くデス」
元のグライムダンジョンコアの意識も残っているようだし、人間観察が目的だから、付いて来ても大人しく見ているだけで邪魔はしないから問題はない。
「分かった、それじゃまずはゼノビアさんのところだ」
「ラジャーデス」
フェロウ達はいつも通り俺達の後を付いて来る。
王都ほど人混みで混雑していないから、ミスティオの街なら大丈夫かと思ってシャイフは影に入れていない。
階段を降り、二階にある事務室にしている部屋の扉を叩く。
「ゼノビアさん居ますか?」
「開いているわ、中へどうぞ」
許可を得たのでカチャリとドアノブを回し、扉を引いて室内へと身を滑り込ませる。
書類仕事をしていたようで、机に齧りついて獣皮紙にガンマペンを走らせていた。
「王都のお土産を持って来たよ」
「ええ?! エルくん?」
声をかけると顔を上げ視線が合うと、目を丸くして時が止まったかのように動きかなくなっていた。
ゼノビアさんの意識が戻るまで多少の時間を要したが、コホンと咳払いをして何食わぬ顔をして聞き返してきた。
「それで、何かご用かしら?」
先ほどの場面は無かったかのように、すました顔で用件を聞いているゼノビアさん。
こんな短時間で忘れるはずもないので、苦笑をしつつも問いに答える。
「一応事業の様子伺いと、王都のお土産の配布だね」
「そう、宿と食堂の経営は順調よ。 それでお土産は何かしら?」
……血は争えないな。
「宿の部屋にも導入して欲しいんだけど、コイルスプリングマットレスをお土産に持って来たから使ってみて」
「コイルスプリングマットレス?」
見本用に一つ取り出すも、広げるだけのスペースが無いから、壁に立て掛けるように置く。
「どういった用途に使うのかしら?」
パッと見は厚みのある長方形の布の塊にしか見えないから、使い方の予想が付かないのだろう。立て掛けたせいもあるだろうけど。
「快適な睡眠を得るための寝具だよ。 使い方はベッドの上に置いて、汚れないようにシーツをかけて使うんだ」
「ここにはベッドが無いから、まだお客が入っていない部屋で試しましょう」
土産とはいったけど、客室に導入するとなるとゼノビアさんも確かめずにはいられないようだ。
さっそく開いてる部屋を確認して戻って来たゼノビアさんが、部屋の鍵を片手に「行きましょう」と俺を急かしてくる。
客室に入りさっそくベッドの上の物を退かし、マットレスを敷いて毛皮を並べる。シーツがなかったから間に合わせなんだ、済まない。
そう伝えると、使い心地を確かめるだけだから「なんでもいいわよ」とゼノビアさんの理解を得られた。
軽く身を投げ出すようにゼノビアさんが勢いよく横たわる。
すると、ポヨンと優しく跳ね返り、その衝撃の柔らかさに目を見開いていた。
「これに羽毛布団をかけるのよね?」
「そうですよ」
「……なんて夢見心地のような感触なのでしょう」
優しく包み込むような体の沈み具合に羽根布団をかけたところを想像し、夢見がちな乙女のような発言を口にするゼノビアさん。
とりあえず合格のようで安心した。
「これを全室揃えられるように用意したし、従業員の部屋にも導入しようと思ってお土産に買ってあるよ」
「これがお土産なのね……。 こんなベッドで寝たら、毎日の疲れも吹き飛びそうよ!」
満足そうにマットレスに横たわるゼノビアさんは、身体の力を抜いて寝心地を確かめている。
一応は導入品を確かめるという仕事なのだが、目を瞑って今にも眠りそうな体勢になっている。
夢の世界の住人になる前に、肩を揺すって起こしてやる。
「はっ?! 少し横になって力を抜いただけなのに、眠りかけていたわ! これは客室に是非導入しましょう!!」
あっという間に眠りについた様で、完全にゼノビアさんの太鼓判が貰えたね。
この日、コイルスプリングマットレスの全室導入が決定した。
もう少し放っておいたら、完全に寝落ちで仕事を放棄するところだったよね?
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