第54話

 花梨は、その日に取り戻した記憶を、町田に聞かせるのに夢中になっていた。そうすることであの日、死にかけた自分が失ったものを取りもどせるような予感があった。


 しかし、町田は逆だった。記憶を失っていない彼は「もうよそう」と顔を歪めた。


 そんな彼の声を花梨は無視した。以前なら、嫌がる他人の言葉を無視することなどなかったのに。


「どうしてあの日は、裸にされなかったのかな? ねえ、町田君、知っているのよね?」


 ――ブーン――


「……僕は、……知らないよ」


 その声はコンプレッサーの唸りに砕かれた。


「うそ、町田君は何でも知っている人よ。勉強もできたし、スポーツだって。東京の飛行場のことだって……。命のことだって……。昔からそうだった」


「止めてくれないか、頼む!」


 彼は声を上げると腰を浮かした。


「私に最初にできたのも、まあくんだったよね?」


 問い詰めると、彼はドスンと椅子に腰を落とした。まるで腰が砕けたようだった。コーラの缶が床に落ち、カラカラと転がった。残っていた中身がプルタブの口からだらしなくこぼれた。


「そうだよ……」


 彼は両手で頭を抱えた。


「……青井に、……やれって、命じられたんだ。僕だけじゃない……」


「お医者さんごっこって言っていたよね。今考えたら、変なお医者さんだよね。……まあくんは注射ができたけど、他の男子はできなかった。ふにゃふにゃになって……」


 言ってから、おかしくなって、ククッとのどが鳴った。笑ってはいけないことだったのに。……今になると分かる。町田は私に真剣だった。他のいじめっ子には覚悟がなかったのだ。


「……まだ子供だった。まあくん……、射精しなかったもの」


「ひどいな……」


 頭が膝につきそうな姿勢で、彼は泣いていた。


「何がひどいの?」


 彼は答えなかった。


「泣かないで。どうして町田君が泣くの?」


「僕らは見世物にされたんだ。みんな、僕らがするのを見て笑ったんだ」


「そうなんだ……」


 花梨にその記憶はなかった。されるがまま、目をつぶっていたからだ。男子が次々にチャレンジした。成功したのはまあくんだけだった。それからそうするのが、彼の役目になった。


「アッ……」


 新たな記憶が蘇った。春休みになる前の事件だった。


「……終業式の後、あいつの家に呼ばれたよね?」


「呼ばれたのは花梨ひとりのはずだ」


「やっぱり、何でも知っているのね」


「後で青井が自慢していた。花梨とやったって」


「やった……?」


 言われて初めて青井の部屋で裸になったのを思い出した。


「そうだ。いつもみたいに、犬にされたんだ。その時……」


 射精がどういうものか、初めて知った。


「青井は、花梨が妊娠したんじゃないかって、心配していた」


「私、初潮がなかったから」


「そこまでは僕らも知らなかった」


「それで私は殺されたの?」


 ――ブーン――


 ――ブーン――


 ――ブーン――


「あの日、縄跳びを首に巻かれた。その端は、町田君が持っていた。突然、身体が浮いた。ガチャガチャなる音で、移動式の鉄棒にぶら下げられたと分かった。……すごく息が苦しくなって、本当に死ぬんだって思った。……気付いた時は、病院のベッドの中だったわ……」


 記憶の奥底から青井の声がした。――逃げろ――


 ――ブーン――


「……青井は、花梨が妊娠したと思って怖がっていた。……僕は、……花梨を解放したかった……」


 確かにあの頃、解放されたい、死にたいと考えていた。それを彼に伝えたことがあっただろうか?


「それで殺した?」


 ――ブーン――


「……生きているじゃないか。……殺されそうになったって、親に話さなかったのかい?」


「……ママ……、お母さんに話したわ。それからお母さんと一緒に、警察にも先生にも話したわよ。でも、相手は優秀な生徒で私はバカ。話は支離滅裂しりめつれつだったみたいだし……。仕方ないでしょ。死にかけたショックもあったし、酸欠で脳は障害を負っていたし。……それが分かったのは後のことだけど。……あいつの親は議員で、私の親は飲み屋のママ、父親は誰か分からない。……信用度が違ったのよ。私が話すことなんて全然、相手にされなかった。大人たちは、自殺に失敗した私が、誤魔化そうとして嘘をついていると言ったわ……」


 花梨は泣かなかった。その日は、もうたっぷり涙を流した後だから我慢できたのかもしれない。ジュースを口に運び、天井をにらんで胃袋に流し込んだ。


「あの綾小路という先生も?」


「それは覚えていない。でも、たぶんそうだったのだと思う。私が書かされた遺書が決め手になっていたのよ。せめて裸で死んでいたら、他殺と思ってもらえたかもしれないのに……」


 ――ブーン――


 ――ブーン――


 ――ブーン――


「青井から見れば、私なんて虫けらだったのよ」


 その名前を言えて、強くなった気がした。


 その時だ。暗い廊下の方からすすり泣く声がした。


「幽霊?」


 花梨は町田の腕を握った。


「だれだ?」


 町田の声は震えていた。


 2人で廊下を覗くと浴衣姿の凛花がいた。大粒の涙で頬はすっかり濡れていた。


「カリンー」


 凛花が抱きついてくる。石鹸のよい匂いがした。


「お前たち部屋にいないと思ったら、こんな所でいちゃいちゃしやがって」


 暗闇から顔を見せたのは森村と佐藤だった。2人も目を赤くしている。


「なんでここが分かったの?」


「違うよ。下の階のコーラがなくなって買いに来たんだ。そうしたらお前たちがここを占拠していたから、飲み物を買いに来た連中は廊下で並んでいたんだ」


「みんな、来いよ」


 佐藤が呼ぶと、ぞろぞろと同級生たちが顔を見せた。みな一様に眼を赤くしていて、顔は怒りや悲しみで強張っていた。


 彼らはどの辺りから話を聞いていたのだろう?……心が揺れる。


「その青井というやつ、俺がぶん殴ってやるよ」


「僕もやるよ。青井をボコボコにしてやろう。花梨の敵討ちだ」


 平和主義者の森村までも調子に乗って拳を作った。


 その時、「無理だ」と町田が言った。


「どうしてだ。俺は町田みたいな弱虫じゃないぞ。相手が5人でも10人でもやってやる。そうだ、荒神も連れて行こう。それなら都会育ちの連中なんか、50人でもぶっ飛ばせるぞ」


 佐藤が農作業で鍛えた力こぶを作って見せた。


 その筋肉に目をやってから、町田が口を開いた。


「青井は、去年の暮れに死んだよ。仲間とバイクをとばしていて事故ったらしい。無免許なのに、何かあったらまた親父にもみ消してもらえると思っていたんだろう。自業自得だ」


 空気が、一瞬で固まった。


「……そうなのか……。死んじまったのか」


 佐藤の眼が点になっていた。


「死んだら殴れないな」


「そうかぁー。それで夢に出るのかな……」


 花梨はトンと椅子に腰を落とした。


「夢にその男が出るの?」


 凛花が隣に座って涙をふいた。


「うん。最近ね……。顔は大人になっているけど、間違いなく青井裕也よ。今日、分かった。……死んでまで、どうして私を憎むんだろう……」


 花梨の声のトーンが落ちると、友達が沈黙した。


 ――ブーン――


 沈黙が嫌いだった。静寂が怖かった。それが1人の時ならいいけれど、友達の視線にさらされる時は、何か悪いことが起きそうで胸が痛む。


「あぁ、残念。……イチロー、シュンスケー。みんなもダメじゃない。もうすぐ町田君といい雰囲気になりそうだったのにー……」


 花梨は町田の右腕を取った。憎い相手だけれど、大好きな相手でもあった。


 町田は顔を赤くして狼狽えたが、拒絶することはなかった。最初は驚いて宙に上げた左手を、友達の視線に躊躇いながらもそっと花梨の背中に回した。


「こらぁー、不純異性交遊だぞー」


 声が上がると、花梨はエヘヘと笑った。


「センセー、ここに不良がいまーす」


 それは、決して教師の耳には届かない優しい声だった。


「うるさいわよ!」


 近くのドアが開き、顔をのぞかせた高齢者に注意された。

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