第53話

 自動販売機コーナーで、花梨と町田が向き合っていた。


「ごめん……」


 彼が上半身を90度、折った。


「どうして謝るの?」


「僕も、青井の手先だった……」


「うん、だからいいの。もう、昔のことだし……」


「本当に?」


 彼が頭を上げた。


「うん……」


「秦野さんは、いい人だな」


 そう言うと彼は、よろよろと隣の椅子に掛けた。


「ありがとう。……でも、いい人なんて、私だけじゃないのよ。凛花さんだって、他のみんなだって善い人なの。でも、悪いところもあるの。……善いところと悪いところがぐちゃぐちゃになって混じってる。だから、昨日はいい人が今日は悪い人になっちゃう」


「そんなものなのかなー」


 彼は釈然としない表情を作った。


「そんなものよ。みんな阿修羅なの」


「阿修羅?」


「オッチャン、……あの運転手さんが教えてくれたんだけど、阿修羅は正義の人だったんだけど……」そこでインドラが思い出せなかった。「……あぁ、やっぱり私バカだ。昨日、聞いたばかりなのに。……でね、何とかっていう神様に娘を奪われて、取り返そうと戦いを挑むわけ。何度も何度も戦いを挑んで、その度に敗けて、それでも戦いを挑むわけ。……みんな、何かをきっかけに変わってしまうのよ」


「それが青井だった?」


「うん。誰とどんなステージに立つのか、それで演技が変わる……」


 花梨は法隆寺を思い描いていた。……焼けてなくなってしまった若草伽藍。あれは誰だったっけ? 厩戸皇子の子供。……彼は父親に教えられて熱心な仏教信者になったけれど、そのために一族と共に首をつって死んでしまった。……体育用具室のような暗い五重塔の中で羅漢が慟哭していた。


「秦野さんも演じてる?」


「うん。精一杯、善い人を演じているつもり。それでも馬鹿だから、この程度なんだけどね」


 苦笑いがこぼれた。あの時も同じだったような気がした。


 ――プシュ!――


 町田の缶は大きな音をたてた。茶色の泡がモコモコとあふれた。彼が慌てて口で泡をすくった。


 彼は顔を空に向けてコーラを飲んだ。大きな喉仏のどぼとけがゴクゴクと上下する。それはとても威圧的な光景だった。


 善い人を演じきろう。……考えたけれど無理だった。すべてを思い出している。


「覚えてる。あの縄跳びの色?」


 ――グッ……、彼ののどが鳴り、彼が沈黙する。


 ――ブーン……、自動販売機のコンプレッサーの鈍い音が世界を支配する。


「黄色だった……」


 彼の視線は花梨の金色に似た色の髪に巻きついていた。


「そう、黄色だった。私の好きな色。お母さんが買ってくれた黄色の縄跳び。……それを首に巻かれて、犬のように歩かされた」


 花梨は天井を見上げる。


「あそこも、こんな暗い場所だった」


「そうだね」


「いつも呼び出されていじめられた」


「青井だ」


「うん。あの日もそうだった。学校に呼び出された。行かないと、あいつは家まで押しかけて来るから、行かざるを得なかった。……母には心配させたくなかった」


「春休みのことだね?」


「うん。桜が咲いていた」


 花梨は小5の春休み、縄跳びを持って学校に向かった時の景色をまざまざと思いだした。通りや校庭の桜が美しかったけれど、少しも楽しくなかった。


「僕も呼び出された」


「だよね。あそこにいたよね?」


「だから、ごめん」


「謝らないで。命令を聞かなければ、町田君がいじめられたかもしれないし。……でも、あの日はなんだか普通と違う気がしたんだ」


「どういうこと?」


「私は何度も遺書を書かされた。本当に死にたいと思うくらいいじめられたから、すらすらと書けた。いつもはそれを読まされて、馬鹿呼ばわりされて終わったんだけど……。あの日は文面が決まっていたのよ。【私は全てを捨てて生まれ変わります】そんな感じだったと思う。良く書けてるってあいつは言った。そして、ご褒美だと言って私の黄色の縄跳びを首に巻きつけた。……あれって、町田君が考えた文面よね? 私、町田君の言うままに、書いたのよね?」


 短い間があった。


「……ああ、そうだよ。青井に命じられて、僕が遺書を考えた」


「それからいつものように、犬のように四つん這いで歩いた。あの時、縄跳びの端を握っていたのも町田君?」


 彼は無言でうなずいた。


「不思議なのよ。それまでは裸にされて犬の真似をさせられたのに、あの日は服を着たままだった」


 話せば話すほど、あの日の景色は映像のように鮮明になり、当時の気持ちも鉛のように重くのしかかってきた。しかしそれは、決して苦痛ではなかった。歴史資料館で復元図を見ている感覚だ。どんなに言い繕ってみたところで、過去は変わらない。


「もうよそう」


 町田が言った。

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