第52話

 花梨と凛花が部屋に戻ると「大変だったわねぇ」「遅かったのね」「何があったの?」と同室の生徒たちに取り囲まれた。


 凛花は口をつぐんだ。


「あのね……」


 花梨は話し始めて戸惑った。話すべきこと、話してはいけないこと、その区別さえ難しい。ましてそれを彼女らに理解できるように話すのは不可能だと思った。


「……上手く話せない」


「まさか花梨がいじめ経験者だったなんてね」


 モエが言った。


「それじゃ、私がいじめていたみたいじゃない」


 苦笑で顔が歪んだ。


「でも、大変だったのね。ヨシヨシ……」


 彼女は花梨を抱きしめて後頭部を撫でた。


「ありがとう、くすぐったい……」


 身体をよじって彼女の腕を脱する。


「私も!」「私にも!」


 モエに続いて同室の友達に抱きしめられた。


「美川さんも、する?」


 モエたちが両手を広げた。彼女たちはロビーで目にしたドラマに感動したのだろう。すっかり凛花を受け入れているようだった。


 ところが凛花にとって彼女たちは、どこまでも傍観者のようだ。


「今日は疲れているのよ。そっとしておいてくれるかしら……」


 テラスで話した時の柔和にゅうわな表情を隠し、いつもの仮面の少女が答えた。そして大浴場に向かう準備を始めた。そこの旅館の風呂は1階の大浴場だけだ。


「そ、それもそうね」


 モエたちは顔と顔を見合わせ、ある者は怯えたような、別の者は呆れたような表情を作って「トランプでもやろうか」と頭を寄せた。


「花梨もやろう?」


 モエに誘われたが断った。綾小路が記憶のふたを開けたために、頭の中には青井裕也あおいゆうやという少年が現れていた。彼の悪魔のような微笑みに、花梨の胃袋はギリギリときしみを上げていた。


 ――プルルルル……、大黒の間の電話が今日3度目のベルを鳴らした。


「もしもし、大黒の間」


 近くにいた生徒が受話器を取り、花梨に目を向けた。


「花梨、町田君よ」


「エッ……」


 はじかれたように電話を替わった。胃の痛みが増した。


『僕だよ。町田』


「え、あ、うん。分かる」


『少し話がしたいんだ。いいかな?』


「うん。いいよ」


 気が進まなかったけれど、会いたいと言われたら断れない性格だ。大浴場に行くという凛花と部屋を抜け出した。


「ガンバって」


 凛花はそう告げるとエレベーターに乗った。励まされたのに複雑な気持ちだった。


 エレベーターの横にある階段を上る。そこは藍森高校の生徒の部屋がないフロアだった。


 待ち合わせ場所の自動販売機コーナーに向かう。そこに近づくほど、何故か腹の痛みが治まっていく。


 小さな空間をそっと覗く。並んだ自動販売機が春日神社の石燈籠を思わせた。そのぼんやりした明かりの中にジャージ姿の町田がいた。丸椅子が4つ並んでいたけれど、彼は罰でも受けているように直立していた。


「どうも……」恐る恐る中に入った。


「呼び出してごめん。大丈夫?」


 花梨は振り返り、廊下を見渡して誰もいないことを確認してから「うん」と応じた。


「今日はごめん。それと、清水寺ではありがとう」


 町田の話し方は、大根役者が台本を読むようだった。


「やっぱり町田君……」


「知っていたのか?」


「ううん。……ついさっき、思い出した。町田君って、だよね?」


 ちだつし、名字と名前の頭をつないでと友達は呼んでいた。その頃彼は、決して身体は大きくなく、いつもよれよれの、どちらかと言えば不潔な洋服を着ていた。友達は、彼の家は貧しいのだと思っていた。


「忘れていたのか?」


 彼が疑うように目を細めた。


「私、バカだから……」


「小学校の頃は、そんなじゃなかっただろう?」


「酸欠で脳に損傷があるらしいの」


 東京から引っ越すとき、母親に教えられた。それが、彼女が田舎に引っ越すことを決めた理由だった。あれっきり、その話を聞いたことはないけれど、脳の損傷という言葉だけは忘れたことがない。


「それって……」


 町田が言葉を失った。暗い瞳の中で自動販売機の光がチカチカ瞬いていた。


 彼は全てを無かったことにするかのように首を振る。手は財布を握っていた。自動販売機にコインを入れてボタンを押す。2回。


 ――ガランゴロン……、静かな廊下に、心臓をたたくような、大きな音がした。


 彼が腰をかがめ、コーラとグレープジュースの缶を取った。


「どっちがいい?」


 二つの缶を差し出す。花梨はグレープジュースの缶を選んで丸椅子に掛けた。


 ――プシュ――


 プルタブをひくのに力が要った。


「アオってやつ、覚えてる?」


「うん……」


 青井裕也、その名前は口にしたくなかった。いや、できなかった。舌がそれを拒絶する。


「……あいつ、議員の息子だったから、好き放題、友達をいじめてた」


「うん。私は、めかけの子って……。子供が妾なんて言葉、知らないから、絶対、親がそう言っていたのよね」


 花梨をいじめた首謀者は青井だった。それを印象付けるのが、賢い町田の伏線のようだった。


「ごめん……」


 彼が上半身を90度、折った。

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