第50話

 日本旅館のロビーには美川の家族と花梨、綾小路だけがいた。


「事件のことを知られてしまったが、大丈夫か?」


 美川が、凛花を案じていた。


「大丈夫よ。今より悪くなることはないと思う。それに、私には花梨がいる」


「そうか……。夏休みには帰っておいで」


「お父さんが藍森町においでよ。いいところだから」


「そうか……。凛花が言うならそうしよう」


「秦野さん、凛花をお願いします」


 美川夫婦が花梨に向かって頭を下げた。


「秦野さん、何かあったら、いつでも連絡を下さい。飛んでいくから」


 そう言う綾小路に向かって、花梨は首を横に振った。


「何もなくても、来てください。……何もないところですけど。それと、前みたいに名前で呼んでください。オッチャン」


 花梨は、無理やり微笑んだ。


「ありがとう」


 綾小路の微笑は歪んでいた。


「では、帰りましょう」


 彼は美川夫婦に向き、帰宅を促した。5人は並んで駐車場まで足を運んだ。


 綾小路がエンジンをかけ、美川が後部座席に乗り込んだ。


 皐月が恐る恐る凛花の肩を抱いた。彼女はされるがまま、じっとしていた。まだ、心の中の澱みが浄化しきったわけではなかった。


 反応の乏しい凛花の肩を離した皐月は「夏休みには……」そう言いかけて口を閉じ、タクシーに乗り込んだ。


「オッチャン。安全運転でね」


「信号を見落とさないでね」


 花梨と凛花はハンドルを握る綾小路に声をかけた。


「任せてや」


 綾小路は妙な関西弁で応じると車を発進させた。


 花梨と凛花は、赤いテールランプが角を曲がって見えなくなるまで見送った。それから夜空を見上げた。小さな星がキラキラと懸命に光を放っていた。


「激動の一日だったわね」


 凛花の声に「うん」と花梨は応じた。


「苦労したのね」


「凛花も」


「うん」


「でも、良く分からないの。どうしてオッチャンの息子を刺したの?……お姉さんが関係しているみたいだけど」


 躊躇っていた凛花が、おずおずと口を開いた。


「姉は大和撫子やまとなでしこをリアルにしたような美しくて、優しくて、他人を疑わない女性なの。私よりどちらかといえば父に似ていて、ふっくらした日本的美人。私の5歳上で、小さなころから遊んでくれたり勉強を見てくれたり……。今でも大好きな姉なの」


 凛花が言葉を切った。


 花梨は、凛花の父親を思い出す。それなら、美しさでは凛花の方が上なのだろうなぁ、と考えながら「うん」と応じた。


「姉は大学1年の時、バイト先で瀬田にナンパされたのよ。瀬田と付き合っていることはときどき話してくれたから、私は羨ましいなぁって思っていた。父や母には内緒だったけどね。……最初は普通の恋人同士だった。ところが去年の夏ごろ、瀬田が麻薬に手を出したの。それに姉を巻き込んだ」


「麻薬?」


「最初は大麻だった。その時は姉も私に教えてくれて。……私は、止めるように言ったのよ。でも、それが恋人同士が共有する秘密だとかなんとか言って……。ずーっと続いちゃったのね。そうして大麻以外の薬も使った。セックスが気持ちよくなるんだって。……私には分からないわ。そういうの」


 凛花が待っているようなので、「うん」と答えた。


「薬を使ってセックスをするようになってから、乱交もするようになったみたい。薬で理性や羞恥心を失って、……あの姉が複数の男と……」


 彼女の言葉に心をえぐられる。まるで自分が責められているようだ。


「……春休みだったわ。あいつに呼び出されて、写真を見せられたの。姉が色々な男と関係している写真よ。……お前の姉はこんなにスケベなんだ。だから姉と別れて私とやり直したいって……」


「エッ?」


 それは想像するだけでも不愉快な話だった。


「あいつ、姉を友達に抱かせて金をもらっていたみたい」


「そっか……」


 ネットに流れていた麻薬や売春の話はそのことだったのだろう。


「姉に売春まがいのことをさせておいて、私に乗り換えようなんて許せなかった。それで文句を言いに行ったの。私が拒否したら無理やり……」


 星を見上げた凛花の頬を、流れ星のように美しく儚い涙の粒がこぼれ落ちるのを、花梨は黙って見ていた。


「……私は姉ほどおとなしくないから、目いっぱい抵抗したの。そうしたら、私にも薬を使ったら自由になると思ったみたい。馬鹿な男よね。……あいつが薬を用意しているときに、机にあったカッターナイフで刺したの。目いっぱい、刃先を伸ばしてね。でも、あいつは死ななかった。……無我夢中だったから、急所をはずしちゃったのね。カッターの刃も、簡単に折れちゃったし……」


 凛花は視線を落として、フーッと長い息を吐いた。

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