第48話

「一馬。お前もびないか」


 綾小路は立ちすくんでいる息子に言った。しかし、瀬田は動かなかった。父親に対する怒りで、理性を見失っているようだ。


 阿修羅だ。……花梨はそんな風に感じた。彼は恋人を取り返そうと、ただ無闇にあがいている。凛花には彼に対する愛情などこれっぽっちもないというのに。


 そんな彼に警戒しながら、美川春樹が歩み出た。


「綾小路さん。詫びは、昨夜充分していただいた。手を上げてください」


 彼は力まかせに綾小路を立たせて椅子に座らせた。


「父さん……」


 瀬田は表情を歪ませたまま、呆然と立ち尽くしている。


「一馬。お前の事件のニュースを見て、奈良に越してきた」


 苦いものを飲むような声だった。


「東京の会社は?」


「辞めてきた」


「また、辞めたのか!」


 落ち着いたように見えた瀬田の眼に怒りが浮いた。


「どうして会社を辞めたことなんか責めるの。あなたのことが心配だから、奈良に来るために辞めたのでしょ? 全部、あなたのためなのよ」


 花梨が声をあげた。まるで裁判官の、……花梨は本物を見たことがないけれど、テレビで視たそれのような、迷いのない、ガラスのように透明で断定的な声だ。


「もとはと言えば、すべてはから始まったんだ」


 瀬田は父親を指差した。


「あなた、自分が悪いのに、お父さんのせいだというの?」


 花梨は言わずにいられなかった。


「6年前だ。この男は、家族に説明もなく勝手に学校を辞めたんだ。僕が医大にいて金がかかるというのに。……母は驚いて泣いてばかりいたよ。そうして失望し、離婚した」


「そうなの……」


 花梨は綾小路の横顔に眼をやった。父親に縁遠いのは、瀬田も自分と同じだと思った。


「お父さんにだって、仕事を辞めるにはそれなりの理由があったんだよ。君も子供じゃないんだ。分かってやりなさい」


 美川が言う。


 父親同士の共感というものだろうか?……花梨は父親という存在がうらやましかった。こんな父親がいたら、自分はどうなっていただろう?……凛花が羨ましい。


「別れたといったって、こいつは説明さえしなかった。自分が悪いんだと言っただけだ」


「すまない。説明しなかったことは謝る。あのころは、どう話していいのかさえ、私には分からなかった」


「それなら、今、説明しろよ」


「出来ない」


 左右に首を振った。


「ほら見ろ。あんたは自分勝手なんだ。自分は何もせず、他人にだけ求める。いつもそうだ。僕には勉強しろと言いながら、あんたは仕事をやめる。立派な医者になれと言いながら、自分はタクシー運転手だ。歴史から学べと言いながら、あんたがしたのは、家族の前から逃げることだった。僕が大学に通い続けるために、いくら借りたと思う? それを返すのに、何年かかると思う?」


 瀬田は怒りをぶつけ続け、綾小路は言われっぱなしだった。唇をギュッとかみしめ、怒りと愛の入り混じった瞳で罵声ばせいを吐く息子を見つめていた。


「綾小路さん。息子さんに説明してあげてください。あなたは生徒の自殺未遂事件の責任を背負わされたのでしょ。……今日、凛花と話して私は気づかされた。もう、みんな子供ではないのです。包み隠さず説明すべきではありませんか?」


「自殺未遂事件……。どういうことだ?」


 瀬田が、眼を丸くした。


「それは……、話せない」


 綾小路は床に視線を落とした。彼の拳が震えていた。




 短い静寂があった。


「私も聞きたい」


 花梨は綾小路の前に膝をつき、その顔を見上げていた。


 ――グッ……、彼ののどが鳴った。


「私も似たような経験があるから、……話してください」


 花梨は、純粋に知りたかった。この世のどこかに、自分と似たような子供がいたことを。そしてその子供の周囲で、大人たちは何をしたのかを。


「話すべきだと思いますよ。花梨さんのためにも」


 諭すような美川の声に、花梨は違和感を覚えた。


「私のため?……自殺未遂って、私のことじゃないですよね。担任の先生は柳原先生だもの。まさか、校長先生……。いえ、校長は女の先生だった……」


 心の奥底に封印されていた記憶が、爆発的にあふれて花梨を赤く染めた。あの日のことが、まるで昨日のように頭の中で像を描いた。


「秦野さん、申し訳ない」


 綾小路は椅子を立ち、花梨の前に膝を折って両手をついた。


「6年前、私は羊川第1小学校の教務主任をしていたのです。秦野さんが3年のころから同級生のいじめにあっていたことは柳原先生に聞いていた。柳原先生はまだ若く、経験も少なかった。彼が何もできなかったことは誰もが納得できた。しかし、私は違う。私が手をこまねいていたばっかりに、幼い君を死の淵に追い込んでしまった……」


 綾小路の下げた頭が床に着いた。


「……春休み、始業式の準備をしていた私は体育用具室の扉が開いていることに気づいた。そこで、鉄棒から……」のどがゼーゼーと鳴った。「……ぶら下がって……。私が秦野さんを見つけ、君の身体を鉄棒からおろした。君は息を吹き返したが、私は自分がゆるせなかった。あの時、首に巻き付いていた縄跳びをほどくときのおののきが、棒のように固まった身体の感触が、……まとわりつく死の臭いが。……それが忘れられず教師を辞めた」


 花梨は蒼い石像のように固まっていた。いじめは3年間に及んだ。そのころの痛みや怒り、屈辱と絶望が全身を支配していた。

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