第47話
花梨の頭は混乱していた。凛花が刺した研修医が、綾小路の息子だという。そんな偶然があるだろうか? もしあるなら、神様はなんて意地悪なんだろう。
「花梨も、ありがとう」
そう言って凛花が立ち去った後、すぐに訊いた。
「凛花さんが刺したのって、オッチャンの子供だったの?」
「あぁ。何の因果やろなぁ」
「凛花さんが刺した理由も知っているのよね」
「あぁ、一応なぁ。……美川さんに、お父さんの方やけど、本当のところを教えてもらった」
「それ、私にも教えてもらえる?……誰にも話さないから」
「それは、どうやろなぁ。個人情報や。ただ、これだけは言える。悪いのは、刺された息子の方なんだよ。美川さんのお姉さんにひどいことをしたのだ。美川さんはお姉さんを助けに行って、はずみで息子を刺したそうだ」
「ふーん」
綾小路の話はあまりにもざっくりした物語だった。が、凛花が事件を起こした事情が分かったのは救いに感じた。それだけで十分だと思った。
時計の針が午後9時を指した。生徒たちに面会に来ていた客たちは自ら立ち上がり、三三五五、別れを告げて宿を出ていき、残っているのは凛花の家族と綾小路の他、1組だけだった。
長い断絶と大きなすれ違い。それを埋めているのだろう。凛花と両親の頬には光るモノがあった。唇には絶えない言葉が必要だった。
「もう面会の時間は終わりなので……」
花梨のテーブルの近くで教頭が
「ナイス、先生。ありがとう」
花梨が礼を言うと、友永がウインクを返した。
面会時間が30分間延長された。
「花梨ちゃんは、先生にも恵まれているようやなぁ」
「お陰様で……」
エヘヘと笑いがこぼれる。改めて、藍森商店街の住人のことや藍森寮の寮監のこと、豊かな自然のことを話した。
「穏やかな町のようやなぁ。だから花梨ちゃんのような子供が育ったのかぁ」
綾小路は探るような眼差しをしていた。
「嘘じゃないわよ。だから、遊びに来てね」
「そやな。いつか必ず行くわ」
彼の返事に満足し、「ちょっとトイレ」と立った。
時刻は午後9時20分。延長された面会時間も残り10分に迫っていた。
「もう一度、美川さんに挨拶しておくよ」
綾小路も席を立った。
花梨は席を離れて初めて、ロビーのあちらこちらに生徒がいるのに気付いた。
「どうしたの?」
「だって美川さんが……」
同級生たちは一様に、美川の面会する様を見に来たのだと語った。
凛花、謎の転校生だものね。……「そっとしておいてあげてよ」そう頼んでその場を離れた。トイレから戻ったのは5分ほど後のことで、まだ、凛花の面会の様子をうかがう生徒が沢山いた。
凛花の家族の輪の中に、硬い表情の綾小路がいた。オッチャンらしくないと思った。
凛花は、ちょうど背中が向いていて、その表情を見ることはできなかった。家族と発展的な話ができたかしら。……凛花の気持ちが和らいでいることを願った。
その時だ。ロビーの片隅にあの男性がいるのを見つけた。ワイシャツとグレーのスラックス姿で、サングラスも掛けてはいなかったが、昼間に言葉を交わした綾小路の息子に間違いないと思った。
恐る恐る近づき、「瀬田さんですね」と声をかけた。
「どうしてそれを」
「美川さんに聞きました。どうして付きまとうんですか。みんな怖がっているんですよ」
「あいつのおかげで、僕の人生は無茶苦茶になってしまった」
瀬田が両手が拳を作った。彼は、覚悟した表情で一歩進んだ。
「やめてください。凛花だって、あなたを傷つけたことを後悔しています」
花梨は瀬田の進路に両手を広げて立ちふさがった。
「どけ」
「お父さんも心配しています」
「だから、なんだというんだ」
花梨を跳ねのけて瀬田が進むと、「一馬」と声がした。美川家の輪の中で綾小路が立ちあがっていた。
「馬鹿野郎。お前など、死んだらよかったのや」
前に出た綾小路が、いきなり瀬田の頬を殴った。ロビーのあちらこちらで小さな悲鳴が上がった。
「何をするんだ!」
瀬田が綾小路を突き飛ばした。
綾小路はよろよろと後退して尻もちをついた。
「医者になって、幸せに過ごしていると思ったが……」
その声は涙にむせていた。
「父さんこそ、どうしてこんなところに?」
瀬田は蔑むように綾小路を見下ろした。
2人のやり取りは、1人の人間が演じているようだった。東寺で瀬田に会った時に似ていると思った声は、綾小路のそれだと気づいた。
「申し訳ありません」
綾小路がその場で座りなおし、凛花と家族に向かって土下座した。
「こんな息子。刺されても仕方がないのです。お宅の御嬢さんにとんでもないことをしていたのだから。ただ、命だけは許してやってください」
ロビーが静まり返った。
「頭を上げてください」
涼やかな声がした。声の主は、綾小路の前に屈んだ凛花だった。
「綾小路さんに頭を下げられては、刺した私はどうしたらいいのか……」
彼女の顔は苦痛にゆがんでいた。それでも美しさは失われていないと花梨は思った。
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