第44話

 清水寺の拝観は石段を下り、音羽の滝に続く。


「音羽の滝の水は延命水とか黄金水とも言われています。三本の滝は延命長寿、学業成就、恋愛成就の三つのご利益りやくがあるそうです。一つ飲めばご利益を得られますが、三つ飲むと強欲だということでご利益はないそうです」


 バスガイドが説明すると生徒たちはバラバラと散って学業成就と恋愛成就の滝に並んだ。


「花梨、どれを飲む?……私は恋愛だな」


「うーん、考えるから、先に行って」


 花梨はモエと別れて凛花を探した。案の定、彼女は教頭と2人で通路わきにぼーっと立っていた。


「凛花、黄金水を飲みに行こう。いいですよね、教頭先生?」


 花梨が迎えに行くと「私はパス。関心ない」と凛花が応えた。そんな彼女に教頭が教えた。


「思い出になるのだ。行ってきなさい」


 意外だった。


 恐る恐る凛花の手を引く。彼女は教頭の加齢臭から逃れるように軽快に動いた。


 花梨は迷うことなく恋愛成就の滝に並んだ。学業には関心がなかった。凛花も一緒だ。彼女の思い人が誰かは分からない。まさか、刺した研修医ではないだろう。


 町田の姿を探すと、彼は学業成就の列に並んでいた。


「町田君は、恋愛には関心ないみたいね」


 凛花は花梨の気持を読んでいた。


「仕方がないよ。人間嫌いだもの」


「人間は嫌いでも、セックスにはおぼれるかもよ。……誘惑してみたら?」


 凛花の声が花梨の耳をくすぐった。


「そんなこと……」


 今以上に軽蔑されたくなかった。目の隅に、延命長寿の列に並ぶ教頭の姿があった。




 凛花と花梨が滝の列に並んでから、シークレットサービス気取りの教頭は周囲を見回して不審者がいないのを確認、延命成就の列に並んだ。修学旅行の団体が並ぶと延命長寿の列が一番短い。水を飲んでから凛花たちがやって来るのを何食わぬ顔で待った。


「教頭先生は延命長寿ですね。長生きしたいの?」


 教頭のもとに戻った花梨はからかった。


「まぁな……」教頭が苦笑する。「……歳をとるほど長生きしたくなる。不思議なものだ」


「ふーん」


「お前たちは、いつ死んでもいいと思っているかもしれないが、歳をとったら分かる。あと5年。あと1年と命が惜しくなるものだ。先生も孫の顔が見てみたいからな」


「先生にも家族がいるんですね」


 凛花が言うと、教頭がまなじりを上げた。


「美川、先生を馬鹿にしてるだろ」


 凛花の顔が曇った。後悔しているのだ。


 凛花は誤解されるタイプらしい。私みたいに思ったことを口にしているだけなのに。……花梨は同情を覚えた。


「していません」


 凛花がつんと澄まして坂を下った。


「教頭先生、ダメだよ……」花梨は文句を言い、彼女を追った。「……凛花、待ってよー」


 花梨の後を、困惑の表情を浮かべた教頭が追った。




 教頭のシークレットサービスが功を奏したのか、清水寺を出て竜安寺を回り京都の古い宿に入るまで、あのサングラスの男性が現れることはなかった。


「無事で良かったよ」


 教頭は使命を全うし、満足げな顔をしていた。


「藍森に帰ってから、校長への土産話にでもする気ね?」


 花梨がからかうと、「大人をからかうな」と応じて笑った。


「宿に着いたからと言って油断するなよ。夜も表に出るんじゃないぞ」


 教頭は忠告することを忘れなかった。


「はい。外に出るつもりはありません」


 凛花が素直な生徒を装っているように見えた。それでも、教頭は「ヨシ、ヨシ」と2度、3度とうなずき、否定的な言葉を向けることはなかった。


「とんだ修学旅行になっちゃったね」


 花梨は教頭から解放された凛花と並んで部屋に向かう。今度の宿は和風旅館だった。


 花梨たちの部屋は〝大黒の間〟という和室の6人部屋だ。青畳の匂いが心地よかったが、「ベッドじゃないんだ」と文句を口にする生徒が多かった。


「京都だから、いいんじゃない」


 花梨は床の間に飾られた米俵に座って打出の小槌を振る大黒天の彫り物をなでた。


「なでると、良いことがあるの?」


 モエが訊く。


「知らないわよ。第一、このおじいちゃん誰?」


「知らないの? 大黒様に決まっているでしょ」


 モエが笑うとみんなが笑った。


「花梨の家にもあるんじゃないの? 居酒屋なんだし。……うちの神棚に恵比寿様と並んでまつられているわよ」


 居酒屋アキコで母の手伝いをする花梨も、店に大黒様どころか、神棚があったかどうかさえ知らなかった。


「えっ。知らないの、私だけ?」


 花梨が声を上げると友達の笑い声が大きくなった。


「私も知らなかったわよ」


 凛花が言った。花梨はホッとしたが、一瞬、室内が凍りついた。賢い凛花が、大黒天を知らないはずがないと考えたに違いなかった。何故、彼女は噓をつくのか?


「あー、お腹空いた!」


 空気を温めようと声をあげた。大黒様ぐらいのことで友達がいがみ合って欲しくない。それをモエが察してくれた。


「さぁ、夕食の時間よ。私がカギを持つから、みんな急いで」


 花梨と凛花も、彼女に急き立てられて部屋を出た。

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