第40話

 平等院を出たバスは東寺に向かった。バスに乗った時点で、花梨たちは凛花を追ってきた謎の男のことを忘れていた。


 境内を案内するバスガイドは、東寺は弘法大師空海こうぼうだいしくうかいが開いたと話した。そうして庭園を五重塔に向かいながら、空海は中国から真言密教しんごんみっきょうを持ってきて全国を行脚あんぎゃした偉い僧侶だと説明した。


 花梨はバスガイドの話は理解できなかった。ただ、興福寺の五重塔と似た塔を見上げ、綾小路のことを思い出した。


「オッチャンの話の方が良かったよね」


 隣の凛花にささやくと彼女は同意した。


「……なんだかんだ言って綾小路さんの説明は血肉があったわ」


「血肉?」


 難しいことを言うものだと思った。


「形式的じゃなく、人生とつながっていたということよ」


「うん……」


 バスガイドの説明に解説を加える凛花に付き従いながら、講堂に入る。


「この沢山の仏像は立体曼荼羅りったいまんだらと言われ……」


 ガイドが話している時、凛花に手を引かれた。


 真面目な凛花が呼ぶのだからガイドの説明は重要ではないと解釈、いやむしろ喜んで退屈な説明の輪を抜け出して講堂の奥、開口部を外に抜け出した。


 そこは境内をめぐる順路から外れた行き止まりの場所だった。


「エッ!」


 そこに人がいて驚いた。深い軒がつくる日陰にいたのは町田厚志……。


「話してきなさい」


 そう言われて背中を押された花梨は彼の前に立った。


「ど、どうも」


「どうも」


 ぺこりと頭を下げる。2人は緊張していた。


「美川さんに呼び出されたんだけど……」


「私も……」


 正面にいるのが恥ずかしく、隣に並んだ。


「そうなんだ」


「うん」


 どうしよう。どうしたらいい?……脳内を言葉にならない電気が走り回った。


 軒下は深い影になっている。そのお蔭で、空はとても青く高く見える。


「何かあるのかな」


 空に眼をやりながら町田が言う。


 彼の声を聞いただけで、花梨は幸せだった。脳内の混乱が青空に吸い込まれて消えた気がした。素直な言葉が言えると感じた。


「凛花さん、気を回してくれたのよ」


「え?」


 町田の青味がかった瞳に見下ろされた。思わず視線を逸らす。背筋がぶるぶるっと震えた。


「私たち、友達になれないかな」


 花梨は、おずおずと彼を見上げる。普段のように、あっけらかんと、やろうと言えたらよかったのに。……小さな困惑が心に濃い影を落とした。


「友達?」


「異性が友達になるって、難しいと思う?」


「友達か……。なんだろうな……」


 彼の心が、スーッと遠ざかるのを感じた。それで慌てた。


「恋人ならどうかな。それがだめなら、愛人とか、セフレとか……」


 花梨は動転していて、自分が何を話しているのか分からなかった。そんな経験をしたことは、かつてなかった。


「なに言ってるの?」


 町田が首を傾げる。


「あ、あのう……」


 花梨の喉が鳴った。


「私、町田君のことが好きなんだ。……たぶん……」


 声の最後の方は消え入りそうだった。


「あぁ、ありがとう」


 町田の声は、決して喜んでいるものではなかった。


「で、ドッキリか何か?」


 誰かが撮影しているに違いない、とでもいうように、彼はきょろきょろと周囲を見回した。とても無様な姿だ。


 自分が彼にこんないやらしい、無様な行動をとらせているのだ。……花梨は後悔した。


「中学の時、同じことがあったよ。同級生にだまされて、馬鹿にされた」


 町田が言った。


「騙すだなんて……。私、マジよ」


「秦野さんが?」


「おかしい?」


「僕は友達がいなくたって、君がどんな子か知っているよ。誰とでも……、あれ、……やるんだろう?」


その時、扉の陰で2人の会話を聞いていた凛花が現れた。


 町田の前につかつかと歩いてきた凛花は、手のひらで町田の頬を打った。パシッと乾いた音がした。


「町田のアホ、最低や!……行くでぇ」


 凛花は言い放ち、花梨の手を握ると荷物を引きずるように歩き出した。


「待ってよ、凛花」


「あいつはあんな男なのよ。忘れた方がいいわ」


「そんなことないのよ。私が悪かったの」


「どこが」


 凛花は足を止め、花梨の両肩に手を置いて言った。


「町田君が言うのが事実だもの。私は、……ヤリ……マン……だもの。誤解されるのは当然なのよ」


「そやからって、あんないい方、ないわぁ」


 花梨と凛花の横を、蒼い顔の町田が通り過ぎる。その背中は講堂の中に消えた。


「あほぅ」


 消えた町田の背中に凛花が声を投げた。


「町田君。優しいのよ。それで、他人と触れては傷ついてる」


「花梨となら、傷つかないとでも言うん?……逆に、花梨が傷ついてるのと違う?」


 凛花の関西弁が胸に刺さる。


 花梨は黙った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る