第6章 謎の男
第39話
秦野花梨、修学旅行の3日目だった。
藍森高校の生徒たちは食事を済ませ、その場からバスに向かう。エレベータを待っている者、階段をワイワイ言いながら下りる者。……最上階のレストランから階下に向かって列ができた。
「花梨、約束、忘れるなよ」
階段を下りる花梨の隣、並んだ佐藤が恨めしそうに言った。
約束?……彼が何を言っているのか、一瞬、分からなかった。
「おい……」
彼が疑惑の目をした。
「脱童貞でしょ?」
思い出し、声を潜めて応じた。
「今晩、京都でな」
当然の権利のように言うので腹が立った。グーで彼の脇腹を殴った。
「痛っ……、くなんてないぞ」
一瞬、表情をゆがめた佐藤だが、農作業で鍛えた彼には、ダメージはなさそうだった。
「そんな態度じゃ無理よ。させてあげない」
花梨は何よりも凛花の目を気にしていた。洗面所に立ち寄った彼女は後方にいるはずだった。
「僕との約束も忘れるなよ」
背後から森村の声がした。
「俊介もかぁー」
花梨は呻き、それから「男はバカばっかりね!」と笑った。
「何の話だよ?」
前をあるっていた荒神が足を止めた。
「やらせろって、煩いのよ」
「だから俺の恋人になれって言っているんだ。そうしたら、誰にもそんなことはさせない」
彼は身体を横にして器用に階段を下りながら言った。
「誰と何をするのか、それは私が決めるのよ」
花梨は、昨夜、凛花が言ったように応じると、荒神の前をすり抜けるようにして、トントントンと階段を飛ぶようにして下った。
「花梨、待てよ」
背後から佐藤や荒神の声がしたが、止まることなく1階まで下り切った。
エレベーターを使ったのだろう。ロビーにはすでに凛花がいた。
「早かったのね」
「今、下りたところよ」
そこに佐藤が追いついた。彼は花梨の顔を見ると顔を真っ赤にして横を向いた。
「なんだ、一郎。凛花に惚れたのか?」
やって来た荒神が、からかった。
「違う」
「昨日、裸を見られたのさ」
森村が教えると、荒神が声をあげて笑った。
「まったく、男どもはデリカシーがないんだから」
凛花が花梨の手を引き、バスに向かって歩き出す。
「なんだよ、デリカシーって」
佐藤が声を荒げた。
モエが彼の袖を引く。
「関わらない方がいいわよ」
耳元でささやいた。
花梨と凛花はバスに乗ると、いつものように並んで座った。
「藍森高校のみなさん、おはようございます。奈良はいかがでしたか?」
バスガイドの明るい挨拶と共に観光バスが動き出した。最初の目的地は宇治市だ。
「これから向かう平等院は10円玉に描かれていることで有名ですね。あの建物は上空から見ると鳳凰が翼を広げて飛んでいる姿になっているんですよ」
ガイドは京都と平等院の歴史などをざっくりと説明する。そんな話に耳を傾ける生徒は僅かで、多くの生徒は友達との雑談に興じるか居眠りして昨夜の寝不足を取り戻そうとしていた。
そんなバスの後をつけてくる1台の黒いRV車があった。観光バスが平等院鳳凰堂裏手の有料駐車場に入ると、RV車も続いて入り、少し離れた場所に停まった。
RV車を降りたのは白いTシャツとジーンズ姿の目立たない若者だった。
「あれ、昨日の男じゃないか?」
最初に気付いたのは荒神で、ちょうど
若者はサングラスをしていた。スマホを片手に池の北の端に立っていて、池を覗き込むふりをしながら藍森高校の一団を観察しているように見えた。
「うん。サングラスをしているから確証はないけど、そうだと思う」
勝俣が眼鏡の奥の目を細めた。
荒神は2組の集団を抜け出し、先を歩いている1組に紛れ込むと花梨の肩を握った。
「荒神君。どうしたの?」
「しっ」
彼は人差指を立て、静佳の視界から隠れた。それから凛花が彼女の隣にいることに少しだけ躊躇しながら口を開いた。
「昨日、美川のことを聞きまわっていた奴がいた」
「うん、花梨から聞いたわ。それがなんだって?」
彼女も声を潜めて聞き返した。
「知るかよ。そいつがいる。奈良から尾行してきたんじゃないか」
花梨は凛花の顔を見た。それは少し蒼ずみ怯えているように見えたが、すぐにいつもの無表情に戻った。
「私なら大丈夫よ」
彼女は気丈に振る舞っていた。
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