第38話

「秦野花梨、ちゃんと部屋にいます」


 凛花から受話器を受け取って就寝前の所在確認に応じた。


『良かった』


 受話器の向こうで安堵する静佳の声がした。


 電話を切ると、小さな覚悟が花梨の中で産まれた。


「あのね……」


 凛花の手を取って隣に掛ける。


「……みんなの中で広まっているから話しておくけど、今日、チンピラみたいな男が凛花のことを聞いて回っていたらしいのよ」


「そ、そう。誰だろう?」


 凛花が動揺したのが分かった。


「その男がいうにはね。凛花さんが、昔、売春をしていたって……」


「そうなんだ……」


「それで一郎が凛花さんに無茶を言ったのよ。ごめんね。……でも、凛花さん。そんなことしないわよね。私と違って真面目だもの」


「話は、売春のことだけだったの?」


「えっ……」花梨はどぎまぎする。彼女が売春を否定しなかったからだ。


「やっぱり、他にもあったのね?」


 他に?……改めて森村や佐藤に聞いたことを頭の中で整理した。


「麻薬の話しや……」


 口にするのも嫌で、もごもごと声が消えた。


「私が、人を刺し殺したとか?」


 彼女の声は笑うでも否定するでもなく、ただ堂々としていた。


「否定しないの?……まさか、本当なの?」


 凛とした凛花のイメージが壊れていく。


 彼女は唇をキッと結ぶと花梨の手を強く握り返す。


「売春や麻薬の話はデタラメよ。私はそんなことしていない……」


 やっぱり、そうよね。良かった!……一瞬、安堵した。嬉しくさえあった。すべては尾ひれはひれがつく噂話なのだ。


「……でも、人を刺したのは本当なのよ……」


 エッ!……息をのんだ。


「……相手は死ななかったけど。……私のことを聞きまわっているのがその男かもしれないけど、チンピラというのはどうかなぁ。……私が刺したのは瀬田せたという研修医だもの」


「研修医?」


「そう。医者の卵。違うか、医者のひよこね」


 やはり凛花の恋人は自分たちのような庶民とは違うのだ。……花梨の頭に白衣をまとった男性の背中が浮かぶ。


「どうして殺そうとしたの?」


「それは……、ゴメン。話せない」


「今のままじゃ、凛花が全部悪いみたいになっちゃうわよ」


「そうね。……私はそれでいいわ。ずっと、そうだったんだから」


「ずっと?」


「もの心ついたころから、ずっとよ。はい、この話はこれでおしまい」


 凛花がポンと手を打つ。


 頭の中で白衣の男性が振り返る。教師の友永だった。


「それより、花梨の恋を成就させようよ」


 凛花の顔がありふれた女子高校生の顔になっていた。


「ムリよ。町田君、人間嫌いだもの」


 彼を好きだという確信はなかった。ただ、凛花の言葉を信じていた。


「そんなことないと思うわよ。きっと臆病なだけよ」


「臆病?」


 セックスをしたいといえなかった森村を思い出した。


「人と関わって傷つくのが怖いのよ。花梨だったら癒してあげられると思うわ」


「セックスで?」


「もう、その考え、何とかならないの? 百歩譲って、男たちがみんな花梨の身体を求めているとしても、いきなりはダメよ。軽い女だと思われちゃうから」


「もう、思われているわよ」


「んー。そうかもね」


 否定しない凛花が、ちょっと憎らしい。……セックスはコミュニケーションだと割り切っていたつもりなのに、黒いものが表情を汚した。


「ごめん、花梨。でも、現実を受け止めるところから出発しないとね」


「凛花さんは、その恋人のことを、まだ愛しているの?」


「恋人?」


 凛花が首を傾げ、それから苦笑した。


「私が刺したのは恋人なんかじゃないわよ」


「それなら、誰なの。その研修医?」


「その話は終わりって言ったでしょ」


「凛花が勝手に言ったのよ」


「そうよ。私が決めるの。私のことだもの」


 凛花の気持ちは石より硬いものに見えた。


「私のことはいろいろ言うじゃない」


 友達らしくつっこんでみた。


「花梨が、危なっかしいからよ」


 彼女の眼差しは母親に似ていた。


「ズルーイ」


 花梨は口をとがらせる。


「ほらほら、そんなだから……」


 凛花にかかっては、花梨は子ども扱いだった。


「もう、勝手なんだから」


「そうよ。私は勝手な人間なの。作戦、考えてみるわ」


 凛花は憎まれ口を利き、照明を消した。


 部屋が暗くなると、花梨は一つのことに縛られた。


 ――どうして人を殺しちゃいけないんですか?――


 凛花は瀬田という研修医を殺そうとし、失敗して咎められたことが納得できずにいるのだろう。どうして、殺したかったのだろう? 今でも殺したいと思っているのだろうか? 綾小路のオッチャンなら、凛花の疑問に何と応えただろう?……疑問はいろいろ湧いたが、奈良の観光地を歩き回った疲れに負けて、いつの間にかぐっすりと寝てしまった。


 ――花梨、裸になれよ――


 声と下卑た笑い声がした。


 どうして?……考えたかと思うと、すでに裸になっていた。


 背後から抱きしめられた。それは森村の腕でも、佐藤のものでもなかった。荒神や町田のものでもない。


 ――花梨――


 声が軟体動物のように肌をはっていく。ぬめぬめとしたいやらしい感触。


 ――愛してる――


 声は下腹部からした。そこに頭があった。


 全身の筋肉が収縮し、太ももがその頭を挟んだ。


 ――痛い、助けて――


 頭がうごめき顔を上げた。凛花だった。


「ゲッ!」


 花梨は自分の声で目が覚めた。


 カーテンの隙間から朝日が差し込み、室内をほんのり明るくしていた。


「花梨、どうしたの。怖い夢でも見た?」


 隣のベッドに、上半身を傾けて見つめる凛花がいた。

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