第35話

 大神神社から箸墓古墳までは車で10分ほどの距離だった。


「これなら蛇でも通えそうね」


「本物の蛇なら、ないな」


 花梨の率直な感想を森村が否定した。


 車を降り、小山のような箸墓古墳に眼をやった。大仙陵古墳よりは小さい。それなのに、どうして男子がここに来たがるのか、花梨には分からなかった。


 大神神社で綾小路と気まずいことがあったからか、凛花は何も言わず歩き出していた。


「おい、待てよ」


 彼女の後を男子が追った。


 いつも先頭を歩く綾小路が車に寄りかかったまま動こうとしない。ただ古墳の案内板に向かう彼らを見ていた。


「オッチャン、行きましょう」


 花梨は彼の手を引いた。


「いや。オッチャンは、ここで待つよ」


 その声は病を患っているかのようにかすれ、たどたどしかった。


「古墳のこと、説明してくれないの?」


「あぁ、それは道々車の中でなぁ」


 綾小路は花梨の手を切るように引くとポケットから名刺入れを取り出し、裏に携帯電話の番号を書いた。


「もし、何か困ったことがあったら、ここに電話しなさい」


 改まった口調が妖しいものに聞こえた。その顔が真剣なので、花梨は笑うことも茶化すこともできなかった。素直にそれを受け取った。


「困ったことならあります……」


 花梨は言った。凛花と両親を合わせたいと、大神神社でも願ったことを話した。凛花は強がっていても、藍森町に置いていかれて寂しがっているのに違いないと。


「花梨ちゃんが美川ちゃんのことを真剣に考えているなら、自分の本当のことを話さなくちゃいけないよ」


 花梨を見る綾小路の目は、父親のように優しかった。


「オッチャン、私のことを何か知っているの?」


「オッチャンは、何でも知っているんだよ。花梨ちゃんが東京にいたこともね」


「えっ!……どうして?」


 一瞬、彼が大神神社の主かと思った。が、それにしてはみすぼらしい。花梨にとって東京は、哀しい時代の象徴だった。思い出したくないことばかりだ。


「縁、……かなぁ」


 彼は言った。


「縁……?」


「凛花さんのことも?」


「美川さんの事件はテレビでも報道されたからな。彼女は関西には来たくなかったはずだ」


「でも、来ました」


「心の中で戦っているんだろう」


 教えられて初めて、彼女の気持ちが理解できた気がした。同時に決心した。


「……お願いがあります。聞いてくれたら、オッチャンがしてほしいこと、何でもします」


 花梨は綾小路に顔を寄せると耳元で望をいった。


「花梨ちゃんが本気なら、……交換条件ということかいな。……いいやろ」


「ありがとうございます。約束ですよ」


 花梨は友達の後を追った。




 彼女はほりを巡る手すりに寄り掛かるようにして墳丘ふんきゅうを見ていた。男子はさらに遠くを肩を並べて歩いていた。他に見学者の姿はなかった。


「あー、いたいた」


 声をあげながら近づいた。


「オッチャン、反省しているって。凛花さんが赦してくれそうにないから、距離を取るって言っていたわ」 


 打ち合わせしていた通りに話すと、凛花が表情を曇らせた。


「私こそ、大人げなかった。願いことなんて大したことでもないのに……」


「何を願ったの?」


「少しでも早く自立できるように、ってね」


「自立?」


「ええ。親の世話にならずに、一人暮らしがしたいの。もちろん、寮暮らしでもなくてね」


「大人なのね」


「大人じゃないから、自立したいのよ」


「うぅーん。私には分からないけど」


「いいのよ、他人のことなんて、分からなくても」


 凛花はくるりと向きを変えて歩き出す。そんな凛花が孤独で可哀そうな存在に見えた。


「日が暮れるわ……」


 空は薄らと紫色がかっていた。


「ほんとだ。……一郎、早く帰らないと、夕食がなくなるわよ!」


 花梨は先を歩く男子に声をかけた。


卑弥呼ひみこさまー!」


 彼らは墳丘に向かって叫ぶと、駆け戻ってきた。


「おう、帰ろう。俺、腹が減った」


 佐藤が笑った、




 箸墓古墳からホテルまでは国道を北上する。40分ほどの道のりだった。


 最初の10分ほどは綾小路が箸墓古墳と近くにある纏向まきむく遺跡について語った。それが邪馬台国の畿内説の根拠だという時の彼は、以前の歴史好きのガイドの顔をしていた。


 深く考えることのない助手席の佐藤が眠ると、彼は黙った。すると、後部席の3人も眠りに落ちた。


「花梨ちゃん、おきいや。着いたで」


 起こされたのはホテルの駐車場に着いてからのことだった。


「今日はありがとうございました」


 生徒たちが頭を下げると、「こちらこそ、おおきに」と綾小路が帽子を取った。


「夕食に間に合ったかな?」


「ええ、なんとか」


「オッチャンがしゃべり過ぎた。堪忍なぁ」


 綾小路は生徒一人一人と握手を交わし、ホテルの入り口に立つ静佳に向かって「遅くなって、申し訳ない」と帽子を振った。


 花梨は綾小路と別れるのが忍びなかったが、「ほな、行きや。先生が待っとる」と促され、仕方なく背中を向けた。


 ホテルの出入り口で振り返ると、綾小路は誰かと電話をしていた。もう、自分のことを忘れられたようで、寂しいものを覚えた。スカートのポケットの中の名刺に手を添えた。


「花梨、早く来いよ」


「分った」


 森村に呼ばれて夕食会場のレストランまで走った。


 ホテルに帰ったのは花梨たちの班が最後だった。レストランに入ると注目を浴びた。ブーイングがあるかと思ったが、予想に反して生徒たちが私語をやめた。


 教頭が前に立った。


「皆さんが無事に帰って、先生は嬉しい……」


 彼が意味のない長い挨拶をして食事が始まる。生徒たちは、その日一日の経験を友達と話しながら賑やかな食事をした。目の前の食べ物がなくなっても話は延々と続く。


 しばらくすると、親戚が面会に来る生徒は席を外した。時おり従業員がやって来て生徒を呼び出した。


 会場に人の出入りがある度に、花梨は気になって仕方がなかった。


「きょろきょろして、どうしたの?」


「凛花さんの家族が来ないかと思って……」


「馬鹿ね。私の家族はこないって、何度も話したでしょ。忘れたの?」


「忘れてなんかないわよ」


 食事の時間が終わると、生徒は部屋に帰るか、土産を見に行った。凛花が部屋で本を読むというので、花梨は1人で1階のロビーに下りた。そこのソファーで時間を過ごした。綾小路がやって来るはずなのだ。


「何してるの?」「花梨、何してる?」


 土産物を買った友達に尋ねられ、「ちょっと」と応じた。それがいつもと違ってそっけないので、彼らは首をひねってどこかへ行った。


 そこで2時間も待つことができたのは奇跡だった。


「オッチャン、電話くらいくれてもいいのに」


 愚痴ってから、自分の電話番号を教えていないことに気づいた。だからといって、自分から電話するのも催促するようで気が引けた。


 駅前のホテルでも、午後9時ごろになると、さすがに人の出入りがなくなった。ロビー横の喫茶コーナーと売店が閉まると宿泊客が下りてくることもない。


 ガラスドア越しに外を眺める。外もロビー内と同じように静けさに包まれていた。人間の時間が終わり、神や精霊の時間になったような気がする。陽気に解説していた綾小路の姿を思い出す。彼も、精霊だったのではないか?


 いやいや、それなら来てくれるだろう。……そう告げる自分の声は凛花のものだった。


 凛花が人を刺したのは悪いことだが、それだけで顔も会わせなくなるほど、親は娘を嫌いになるものだろうか?……それとも、今晩は用事があったのだろうか?……オッチャン、何をしているんだろう?


 あれこれ考えた。同じことを何度も考えた。消灯の時間が近づいていた。部屋に電話がある時間だ。それでも花梨は、綾小路を待ちたかった。


 ――コホン――


 フロントの従業員の咳払いがやけに大きく聞こえた。フロントマンは20代の凛々しい青年だ。彼と視線が合う。もう、限界だと思った。


「オッチャン、だめだったか……」


 失望を胸に、エレベーターに乗った。

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