第34話

 花梨は綾小路を真似てお辞儀をし、注連縄の内側に入った。少し坂を上る目の前が開け、大きな拝殿があった。


「普通、人間が拝んでいる建物は拝殿というもので神様そのものやない。神様は拝殿の後ろの社にいる。小さな神社では拝殿がないこともあるけどな。古い神社は山や大岩、大木なんかが神様で、その前に拝殿が造られているのや」


 5人は拝殿に向かって歩く。足元の小石がジャリジャリと音を立てた。


「拝む時は自分の名前と住所を神様に言わんとあかんで。出ないと、神様がどこの誰の願いか分からないからなぁ」


 綾小路が言うので、生徒たちは足を止めた。


「えぇー。オッチャン、今頃、遅いよ。春日大社も薬師寺も拝んできたのに」


 佐藤が口を尖らせた。


「そうよ。法隆寺だって、それから……」


 花梨は他に訪ねた場所の名称を思い出せなかった。


「聞かれなかったからなぁ」


 綾小路はとぼけていた。


「なら、何で今頃いうんだ?」


「そうよ、どうして……」


 抗議の声が大きくなる。凛花だけは何も言わなかった。


「せっかく奈良に来たのや。少しぐらいご利益がないと、可哀そうだと思ってなぁ」


 彼が、にんまりと嫌らしい笑みを浮かべた。からかっているのだ。


「今まで拝んだのは無駄だったの?」


 花梨は訊いた。


「いやぁ、そんな事はない。よく言うやろぉ。世の中には無駄なものはないのや」


「そうですか。僕は無駄なものってあると思います」


 森村が反発した。


「自分がそう思うなら、そうかもしれないなぁ」


 彼の今更のアドバイスにはイラッとしたが、とぼけた顔は可笑しみがあった。


「どっちなんですか?」「自分の言葉には責任を持ってください」「大人なんだから」


 花梨たちの追及は、彼をからかうものに変わっていた。


「うーん……」多勢に無勢、綾小路が頭を掻く。「……まずは参拝や」


 彼は上手く矛先をかわした。


 花梨は拝殿に向かった。……二礼三拝……頭の中で考えながら礼をして柏手を打つ。


 藍森町の秦野花梨です。ウワバミが来てママのお店が繁盛しますように。凛花さんが……。そこで思考が止まった。


 凛花さんが……、凛花さんが……。


 気が急く。頭の中で凛花の顔と凛花が刺した恋人の影がグルグル回っていた。


 ついに願った。


 凛花さんが家族と会えますように。……それが心からの願いだったのかどうか分からない。それしか言葉にならなかった。


 友達は参拝を済ませていて、綾小路のもとに集まっていた。


「オタク行為は無駄じゃないのか?」


 近づくとそう言う佐藤の声がした。


「わかんないよ」


 森村がさらりと応じた。どうやら参拝前に話していた、世の中には無駄なものがあるのか、ないのかを話しているらしい。


 仕方がないなといった風に綾小路が口を開いた。


「一つのことを突き詰めれば、どんなことでも身になると思う。そやけど、やったことが無駄か無駄じゃないのか、効率が良かったのか悪かったのか。それが分かるのは死ぬときやろなぁ。……しっかしオッチャンは、損得じゃなく、楽しい人生だったか、生きていて良かったかと考えて死にたいなぁ。まぁ、神様の前や。争いはよそう」


 彼はニコリと笑うと歩き始めた。


「そうかぁ」


「そうよね」


 佐藤と花梨が彼に続いた。




 参道を戻りながら、綾小路が神様に何を頼んだのかと訊いた。


「受験のことかな……」俊介が答えた。


「かなぁは、ないやろ。自分のことやで」


「俊介は珍しいフィギャアのことでも頼んだんだろ」


「一郎こそ、童貞どうてい卒業だろ」


 森村の声には余裕が見えた。


 まさか、言っちゃダメ!……花梨は念じた。


「俊介がそれを言うかぁ」


 佐藤が森村に抱き着くように襲いかかる。2人はじゃれあうように声をあげて笑った。


「ここは神社や。真面目におらんと、願いも届かないでぇ」


 綾小路に注意され、男子たちはピタリとふざけるのを止めた。


「仁王さんは、就職のことかなぁ?」


 綾小路が目を向けた。


「俺は農家を継ぐから、大学も就職も関係ない」


「そうかぁー。でも、納得してないように見えるなぁ」


「前はそう思っていたけど、今はそうでもない。……オッチャンの話を聞いていたら、農業は悪くない仕事だと思えた。サラリーマンにはできない楽しい人生だと思う」


「そっかぁ。それは良かったな。で、ボンはそんな彼が羨ましそうだ」


「親が一流大学にいけって、うるさいから。……勉強、好きじゃないけど」


「俊介、勉強できるじゃん」


 花梨は言った。


「出来るかどうかと、好き嫌いは別もんや。なぁ……。で、花梨ちゃんは、何を頼んだ?」


「商売繁盛!」


 ピョンと跳ねた。


「美川ちゃんは?」


 綾小路が振り返る。


「私は何も。……第一、おじさんに願い事を話す必要はないでしょ」


「それもそうやな」


 綾小路は表情を曇らせ、頭を掻いて小脇に抱えていた帽子をかぶった。

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