第33話

 カーブが多いために、綾小路は急加速したかと思うとしばしば急ブレーキを踏んだ。


「オッチャン、やっぱり運転下手や」


「ほっといてや」


 佐藤が指摘すると綾小路が言い返す。そんなことを繰り返しながら、綾小路のタクシーは、うねうねと伸びる灰色の道を北に向かっていた。6月の陽は長いが、それでも夕刻が近づいていて、谷のような飛鳥の景色はくすんで見えた。


 後部座席の生徒たちは、綾小路による歴史の講釈と移動による疲労のために口数が減った。ついさっきまで足踏みをして見せた綾小路も、佐藤の声掛けがなければ無口な運転手に変わるところだった。


 普段なら眠ってしまう花梨だけれど、そうはならなかった。凛花と森村に挟まれていて、どちらにも体重をかけ難い。左側の森村は窓側に体重をかけて寝息を立てていた。右側の凛花はわからない。横目で観察してみると、彼女は目を閉じているだけで、寝ているようではなかった。


 そんな彼女の横顔を見つめながら、モエの話を思い出していた。彼女は恋人のために身体を売った。そうしてとどのつまり、恋人を刺した。それは麻薬による精神錯乱のためだろうか? 刺したのは事実だろうか? 刺された恋人は死んだのだろうか?


 花梨は凛花の腕を見た。半そでのブラウスから伸びたほっそりした白い左腕に、注射の後はない。右腕は身体に隠れて見えなかった。


 恋人はヤクザ?……考えると身体が震えた。


「どうかした?」


 突然、凛花が言った。目を閉じているのに、見られていることに気づいたのだ。


 超能力者?……花梨は見ていたことを隠すために背筋を伸ばした。


「ううん。何でもない」


「今、震えたわよ。寒い?」


 彼女の視線が花梨に向く。


「ま、まさかぁ」


 車内は暑いくらいだ。凛花の視線が痛く、何かを話さずにはいられなかった。


「凛花さん、恋人はいる?」


 男子の耳に届かないように、低い声で尋ねた。


「いないわよ」


「そう……、良かった」


「え?」


「あ、勘違いしないで。私、レズじゃないから」


「ええ、よーく知っているわよ」


「そうだったね」


 モエの話は何かの間違いなのかもしれない、と思った。それから、刺したのだから別れたのに違いない、と考え直した。それとも、相手が死んでしまったのか……。


 車は混雑する国道に出た。そこはすでに飛鳥ではなかった。


「ここは?」


「桜井市や。疲れたか?」


 ルームミラーの中で花梨と綾小路の目が合う。


「はい。いろいろ教えてもらったから、頭の中がウニウニしてまーす」


 あえて元気な声を作った。


「そうかぁ。ウニウニか。でも、元気そうでよかったなぁ」


 ルームミラーの中の眼が優しい。


「修学旅行ですもん」


 その時花梨は、綾小路の質問を正しく理解していなかった。


「もう直、大神神社おおみわじんじゃや。日本一古い神社やから、覗いていこうな。こっちの仁王さんは寝とるけど」


 さっきまで綾小路の運転が下手だと繰り返していた佐藤の身体は前傾し、頭がダッシュボードについていた。


「あれですね」


 右側の窓に大きな鳥居が見えた。


「大きな鳥居ですね」


 目覚めた森村が声を上げた。


「そやろ。高さは32、2メートルもある」


 綾小路は国道を右に折れ、一の鳥居の横を通りすぎると、二の鳥居側の駐車場に車を停めた。


「一郎。起きろ!」


 森村が揺さぶり起こし、車から降ろした。


「大きな神の神社と書いてオオミワジンジャと読むのや。どうしてそう読まれるようになったのか、定説はない。ただ、神社という形はここが一番古いというのが定説や。ご神体はあの三輪山……」


 綾小路が、参道の先の森の、ずっと後ろにそびえる三角形の山を指した。


「山には神様が下りる磐座いわくらがあって、昔、供えられた宝物が発掘されているそうや」


 参道は神の森に入る。花梨は、どことなく霊的なものを感じた。


 手水舎てみずしゃの蛇の口は文字通り、蛇の形をしていた。そこから流れる水をすくって口を漱いだ。


「ここは何かと蛇に縁のある神社や。箸墓古墳に祭られているのは倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめのみことやけど、その夫がこの神社の主の蛇だ」


「倭迹迹日百襲姫命って、言いにくいなぁ。キャリーパピュパピュみたいだ」


 佐藤が間違って言ったのを、花梨は正してやる。


「言えてないよ。キャリーパミュパミュよ」


「正式な名前はキャロラインチャロンプロップキャリーパミュパミュだよ」


 花梨の言葉を、更に森村が修正した。


「さっすが引きこもりオタクー」


「それは尊敬か? 侮蔑か?」


「んー、好きなように解釈して」


「それで倭迹迹日百襲姫命の話は?」


 凛花が話をもどした。


「日本書紀には倭迹迹日百襲姫命が大物主おおものぬし神、……あぁ、大物主というのがここの神様だ。倭迹迹日百襲姫命はその妻と為るわけだ。……然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来す、とある。つまり、夜だけ嫁さんのところに通ってきたということや」


「今も昔も、男は女とすることばかり考えているのね」


 花梨は佐藤の肩を小突いた。


「そんなことないぞ」


 彼の反論は虚しく聞こえた。


「それで?」


 凛花が話を促す。もう社は目の前だ。


「姫が男の姿を見たいというので、男は仕方なく朝までいた。朝、姫が見たのは美しい蛇だった。姫がヒメィを上げて……、笑う所やで」


 綾小路が主張するも、生徒たちは笑わなかった。彼は仕方なく、コホンと小さく咳をして話を続けた。


「……姫が悲鳴を上げたので、男は、恥をかかされた。お前にも恥をかかせてやると言って、三輪山に帰ってしまった。姫はヒメィを上げたことを後悔してうっかり座り込んだ。そこに箸があって、ホト、……つまりなんや、女性の大切な部分に刺さって死んでしまったのや。ホトホト運のない姫や」


 花梨は、そうした話を居酒屋アキコでよく聞いていた。


「ありがちな猥談みたいでビミョー」


「恥をかかされたから、恥をかかせてやるなんて、小さい男ね」と凛花。


 綾小路は苦笑し、説明を加える。


小蛇こおろちで着物の紐ぐらいの長さというから、1メートルくらいしかなかったのかもしれないなぁ」


「小さいと言ったのは、身体じゃなくて、心の方です」


 凛花が彼の誤解を訂正した。


「あ、そうやろなぁ。わかっとるわい」


 彼は取り繕うように話を続けた。


「というわけで、蛇はオロチやから、酒の神でもあるのや。知っとるやろ。素戔嗚尊すさのおのみことのヤマタノオロチ退治」


「知らなーい」


 花梨が軽く応じると、森村が言った。


「花梨の家は居酒屋だから、ちゃんと拝んでいくといいよ。客にウワバミがいればもうかるんだから」


 ウワバミ?……花梨は首をひねった。


「凛花ちゃんちのお母さんはまだ綺麗なんやろなぁ」


「まだ?」


 凛花が疑惑の目を向けた。


「ん?」


 綾小路はとぼけ、2本の柱の間に張ってある注連縄を指した。


「これが鳥居の原型と言われている。この先は神域や」


 彼は一礼し、神妙な顔で注連縄をくぐった。

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