第30話
「せっかくここまで来たのや。
綾小路が嘘臭い関西弁で言いながら、東院の北側を回り込むようにして生徒たちを中宮寺に誘った。
「如意輪観音は、
「オッチャン、顔がエロくなってる」
花梨がからかうと、綾小路は「そうかぁ」と顔を両手で隠した。
中宮寺の弥勒菩薩は眉の線が美しく慈愛に満ちた表情の仏様で花梨も気に入った。何よりも髪型が可愛い。
両手を合わせ、私たちにも明るい未来がありますように、と拝んだ。
「一度見たことがあったけど、すっかり忘れていたわ。美しい顔よね」
凛花が言うと、「そやろ。美川ちゃん。似てるでぇ」とオッチャンが喜んだ。
「オッチャン、美川さんを口説いているのか?」
佐藤が耳元でささやいた。
「まさか……」
花梨は息をのんだ。
「ほな、いくでぇ」
綾小路の声を合図に歩き出す。彼は「寄り道が過ぎたなぁ」と言いながらせかせか歩いた。
車が国道を左に折れると緑豊かな田園風景が広がっていた。点在する建物の中に三重塔があった。
「法隆寺と同じ伽藍配置の法輪寺や、左右が逆の法起寺も聖徳太子ゆかりの寺や。これが法輪寺……」
車は法輪寺の前でスピードを落とし、緩いカーブを曲がった。
「正面に見えてきたのが法起寺や。第2夫人の刀自古郎女が住んでいた岡本の宮を寺にしたのだろうという人もいる」
「厩戸皇子にまつわるものが多いのですね。奈良に住んでいても知らなかった」
凛花が景色を見据えていた。
「若い人にとっては歴史も仏教も縁遠いものなのやろな。……聖徳太子、いや厩戸皇子は不思議な存在や。伝説も多いが、遺構も少なくない」
綾小路がアクセルを踏んだ。
「寄らないんですか?」
「時間がない。これから飛鳥や」
彼は予定表を手にしてひらひらさせた。
信号が赤に変わっていたが、車はそのまま十字路を走り抜けていた。
「アッ!」
佐藤が声を上げた。
「オッチャン、危ないよ」
「すまん、すまん。見落とした」
綾小路がアハハと笑った。
「笑い事じゃないよ。運転下手だなぁ。タクシードライバーやって、なん年?」
「半年や」
「まだ新人なんだな。でも、観光案内はうまいよ。何でも知ってるし」
「奈良生まれやからな」
「江戸っ子だろ?」
「アハハ、奈良生まれは、別れた嫁さんだ」
「奥さんに教わったの?」
花梨は訊いた。
「そういうのもあるなぁ」
「関西弁も教わった?」
「妻はね、東京に住んでいてもずっと関西弁を使い続けた」
「そういう人、多いわよね」
「どうして離婚したの?」
「それは秘密や」
花梨と綾小路の視線がルームミラーで交錯した。
「奥さんに未練があって奈良に?」
「嫁さんに未練はないなぁ」
「子共でしょ?」
後部座席から身を乗り出した。といってもシートベルトが邪魔で、ほんの少しだけ。
「そういうことだ。って、なにをオッチャンのプライバシーを探っとるのや。おまけにタメ口やし」
「お客様は神様や」
佐藤が関西弁で応えた。とても自然だった。
「親しき仲にも礼儀ありというのや。君らがお客様でも神様でも、年上の人には丁寧語程度の敬語は使うものや。それが日本人の美徳であり、善性を養ってきたものなんや」
佐藤は綾小路の説教でシュンとなったが花梨は違う。
「愛しているからこそオッチャンのことを知りたいし、ついついタメ口になったのよ」
「そっか。嬉しいなぁー」
言い過ぎたと感じたのだろう。綾小路が微笑んだ。
「ねぇー、一郎」
「おいおい。愛してくれたのは仁王さんかいな。オッチャンは男やで」
「あっ」
佐藤が声を上げた。車が、また赤信号を無視して十字路を通り過ぎた。
「びっくりしたなぁー」
言ったのは綾小路だ。
「驚いたのはこっちだよ」
みんなが笑った。
しばらくしてから彼が訊いた。
「藍森町はどんなところなんだい?」
「田舎よ。ここよりももっと狭い山間部」
「だなぁ。山ばかりで何もないですよ」
「そうかぁー。何もないから、君たちはノビノビと育っているのやな。オッチャンも、一度行ってみたいなぁ」
「来てくださいよ。歓迎します」
「ほな、花梨ちゃん
「うち、狭いですよ。1階は店だから」
「花梨のベッドでいいんじゃないか」
「こら、一郎。それはセクハラよ」
花梨は後ろから、彼の頭を旅行のしおりで叩いた。
「君らは、仲がいいなぁ」
それから綾小路は、「あれが蘇我一族が住んだ
「向こうに見えるのが、厩戸皇子が産まれたと言い伝えられる
「そこに馬小屋があったのね」
「当時は用明天皇の別荘のようなところやったらしいから、馬小屋もあったやろなぁ」
話しているうちに石舞台に着いた。
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