第29話

 講堂の邪鬼に寂し気な顔を見せた綾小路は、さっさと金堂に向かった。


「金堂の釈迦三尊像は聖徳太子がモデルと言われている。形式的には金堂よりも古い飛鳥時代のものらしい。若草伽藍にあったものではないか、と言われている。焼けた寺の物が何故ここにあるのか?……それがまたオッチャンの推理心を駆り立てる」


「火事の前に運び出したからでしょう」


 凛花がさらりと応じた。


「まいったな」


「当たっているのか?」と佐藤。


「オッチャンはそう考えておるけど、証拠はないのや」


「もしそうなら、計画的に寺が焼かれた可能性があるものね」


「よっ。美川ちゃん、賢いなぁ」


「山背大兄王を死に追いやった何者かが、証拠を消すために寺に火を放った。でも、仏像を燃やして罰が当たったら嫌だから、先に持ち出しておいた」


「そやそや、美川ちゃんとは、気があいそうやなぁ」


「私、おじさんに関心はありません」


 凛花がきっぱり応じると、「痛いなぁー」と綾小路は頭を抱えた。


 花梨も金堂内の薬師如来、釈迦三尊、阿弥陀如来と手を合わせたが、それらの内のどれが古いものなのかなどどうでも良かった。ただ願い事が叶えばいいと思っている。


 それからもう一つ、気になることがあった。言葉数が増えた凛花のことだ。彼女が綾小路に心を許し、明るくなったような気がする。


「聖徳太子は、いや、厩戸皇子は、芹摘姫が亡くなった翌日に死んだのや」


 金堂を出ると綾小路が言った。


「ミステリーですね」と凛花。


「そやなぁ。それまで芹摘姫が病に伏した厩戸皇子の看病をしていたのに、先に芹摘姫が逝った。そして翌日、厩戸皇子が逝った。尋常じんじょうではないなぁ」


「介護疲れじゃないの」


 佐藤はあっけらかんとしていた。


「仁王さんは、さっぱりしていていいなぁ」


 綾小路が笑った。


「芹には、食べられる芹と、毒芹があるのよ」


 凛花が教えた。


「オッ、美川ちゃんは、読みが深いなぁ」


 綾小路が感心する。花梨にはその意味が分からない。ただ、厩戸皇子と芹摘姫は本当に愛し合っていたのだろうと思った。


「食べられる芹と毒芹があるのが、厩戸皇子の死と関係があるのかい?」


 森村が尋ねた。


「聖徳太子と芹摘姫がほぼ同時に亡くなったから、食中毒だったのではないかという研究者もいるし、毒殺されたという説もある。……芹摘み姫と毒芹……」


 綾小路が意味ありげな、深刻な表情を作った。


「そういうことかぁ」


 森村は気づいた。


「エッ、どういうこと?」


 花梨には見当もつかない。


「毒殺した誰かが、膳部郎女かしわでのいらつめに芹摘め姫という名前を与えて、厩戸皇子の死の責任を負わせたのかもしれないということよ」


 凛花の声は深い憂いを帯びていた。それを聞いてもなお、花梨には理解できなかった。


「厩戸皇子を毒殺した犯人は別にいる、ということだな」


「ボン、その通りや」


 綾小路は満足そうにうなづくと歩き始めた。




 一行は、正岡子規の句碑の前を通ると中ノ門とも呼ばれる東側の東大門とうだいもんに向かう。


「これが東大門や。通ったからといって、賢くなるわけやないでぇ」


 それは東京大学と絡めた、東大寺を訪れたときにも使ったダジャレで生徒たちは誰も笑わなかった。


 ほどなく夢殿ゆめどののある東院があった。


「この辺りが厩戸皇子が住んでいた斑鳩の宮があった所や。八角堂の救世くぜ観音像は創建以来秘仏で、布でぐるぐる巻きにされていて、ここの僧たちさえ直接見ることは出来なかったのや。それがフェノロサの要請で公開された」


「凍れる音楽のフェノロサね」


 凛花が言った。


「またフェノロサかぁ。秘仏を公開させたなんて、すごい人ですね」


 花梨はフェノロサのほうに興味を覚えていた。


「ちゃうちゃう。すごいのはフェノロサでなく明治政府や。それまで日本の神さんと仏さんは神仏習合と言って、家族のように当たり前に一つのものとして拝まれてきたのや。昔は神社に仁王さんのいる門があることもあったし、寺の中に神の社があるのは普通やった。八幡大菩薩なんていうのも、神様と仏様を一つに捉えたものや。日本人一流のいいとこ取りや。それが明治維新という風は、神仏を引き裂いた……」


 綾小路は話を続けた。


「……廃仏毀釈はいぶつきしゃくというのを習ったかな?……神様は国家神道としてあがめられ、仏はどこか隅っこに追いやられた。ひどい時には打ち壊された。……首のないお地蔵さんが道端にあったりするのを見たことないか?……オッチャンは、たくさん知っとる。多くは、その頃に打ち壊されたのや。仏教界にとっては過酷な時代が明治維新や。そのために秘仏とされ、僧たちさえ見たことのなかった救世観音が国家権力によって白日の下にさらされた……」


「大人の世界は大変なんですね」


 凛花が表情を曇らせた。


「大人だけやあらへんでぇ。時代の風は、気づかぬうちに暴風雨に変わる。……原理原則に戻す、日本の精神文化を取り戻すと言えば聞こえはいいが、結局は時代を逆行させることや。……若者こそ、自分たちの未来がかかっているのや。気をつけなぁ、あかん」


 彼は嚙みふくめるように語った。


 久世観音が公開されるのは春と秋の2回だけで、その日は公開されていなかった。


「見られなくて残念やな。しかし、あの魂の輝きを見るだけでも価値がある」


 綾小路は、八角形の夢殿の屋根に輝く宝珠を見上げた。

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