第25話

 薬師寺金堂、本尊の正面に綾小路が立っていた。


「真ん中に座っているのが薬師如来。もともと天皇の病気平癒を願って建てたものだから、薬師を本尊に選んだのやろなぁ。時代時代の流行もあったのかもしれない。……脇侍が日光にっこう菩薩と月光がっこう菩薩や。腰のくねり具合がなまめかしくて、命を持っているように見えへんか?」


「艶めかしいのが私に似ているって言うんですか?」


 凛花が綾小路を睨んだ。


「べ、べつにスケベ心やあらへんでぇ」


 綾小路は胸の前で両手を広げてあとずさり、花梨の後ろに隠れた。


「まぁー、似てると言えば、似てるかなぁ。ナイス・プロポーションだもの。うらやましいわぁ」


「そやろ」


 花梨の声に力を得て、彼が前に出た。


「でも、上半身裸だよ」と佐藤。


「そ、そうか……。仕方がないな、仏様だからなぁ」


「どうして仕方がないの?」


「物欲を捨てるからや。人間より欲のない菩薩は裸に近くなるけど、それでも髪や身体には飾りをまとっている。まだ修行中ということや。菩薩より悟りを開いている如来様は、それらの飾りも捨てているというわけや」


「ほうほう。知らなかったぁ」


 花梨は両手を合わせ、凛花がみんなと仲良くなれますように、と願った。




「オッチャン。腹減ったよ」


 金堂を出ると佐藤が訴えた。


「その調子じゃ、仏に願ったのも、腹いっぱいになりますようにということやろなぁ」


 綾小路が笑うと「違うよ」と彼がいう。


「僕は分かるよ」


 森村が言った。


「なんや?」


「やりたい、と願ったのでしょ?」


 凛花がいつものように切り捨てるように言った。綾小路が目を点にする。


「ち、違うぞ!」


 佐藤が凛花を睨んで声を荒げた。


 ヤバイ!……花梨は慌てた。喧嘩になるかもしれない。


「そうかぁ。仁王様も悩みを抱えているのやなぁ。恋の悩みでないとしたら、進学や就職かなぁ。どっちにしても貴重な悩み事や」


 綾小路が割って入る。花梨はほっと胸を撫でおろした。


「んなら、旨い素麺を食いに行くかぁ。この奥に美しい聖観音しょうかんのんもおるけど、食いもんにはかなわんな。時間もないし、ちょうどいいか」


 綾小路が笑いながら、自分より頭半分も高い佐藤の腰をポンとたたいた。


「肉が食いたい」


 佐藤が調子に乗って言った。


「ここは寺だ。肉が食いたいなど言うんやぁない」


「そっかぁー」


 それは子供のように無邪気な声だった。


「凛花さん。行こう」


 花梨は凛花に声をかけて歩き始めた。



 綾小路が花梨たちを連れて行ったのは、法隆寺に近い国道沿いの新しいレストランだった。昼食の時間帯はとうに過ぎていて、店内は空いていた。


「ここは老舗じゃないけど美味いぞ。味音痴のオッチャンが言うんだから間違いない」


「味音痴じゃダメじゃん」


 花梨はつっこみを入れた。


 皆、素麺とかやくご飯のセットを頼んだが、佐藤だけは素麺を大盛りにし、鳥天を追加で頼んだ。


「ずいぶん歩いたわよね」


 花梨は地図を広げ、それまで回ったルートをたどった。凛花が作った計画書なら1日分の移動距離だ。


「ずっと車やないか」


 綾小路が笑う。


「まぁ、そうだけど……」


厩戸皇子うまやどのおうじは法隆寺に住んでいたのですよね?」


 森村が尋ねると、綾小路は一拍おいて答えた。


「今は厩戸と教えるのやなぁ。オッチャンのころは聖徳太子しょうとくたいしとしか呼ばなかった。他には豊聡耳とよさとみみとか、上宮王かみつみやおうとかいう記録があるようや。学者さんは厩戸皇子としたが、キリストさんみたいでどうもなぁ。……厩が動物の馬小屋でなく、蘇我馬子そがのうまこの家のことなら分からないでもないが……。それなら聖徳太子は、生まれながら、名前からして馬子に牛耳られていたような気もする。ここから飛鳥まで馬で通ったというのやから、ご苦労なことや」


「どのくらいの時間、かかるものですか?」


「オッチャンは、馬に乗らんからなぁ。分からん」


 彼はゆっくりと首を振った。


「どうして、そんなに遠い場所に住んだんだ?」


 佐藤がキッチンの方を気にしながら訊いた。


「当時は妻の実家の力を頼ることが多かったらしい。外戚がいせきやな」


「奥さんが、この辺りの出身だったんだ……」


 花梨は窓の外に眼をやる。国道を、ひっきりなしに車が走っていた。


「それもどうかと思うのや。聖徳太子には4人の妻がいた。きさき菟道貝蛸皇女うじのかいだこのひめみこで敏達天皇と推古天皇の娘、2番目の刀自古郎女とじこのいらつめは蘇我馬子の娘や。馬子はもちろん飛鳥に住んでいて、推古天皇も飛鳥の豊浦宮とゆらのみや小墾田宮おはりだのみやにいたから、この辺りに法隆寺を建てたのには別な理由があるのやろなぁ」


「ふーん」花梨はただ理解したふりをした。


「オッチャンの意見は? 何かあるんだろ」


 森村が言うと、綾小路はにんまり笑った。


「3番目の妻の膳部菩岐々美郎女かしわでのほききみのいらつめ芹摘姫せりつみひめと呼ばれ、聖徳太子が一番愛した妻らしい。その膳部かしわで氏の勢力範囲がこのあたりだという説もある。が、妻の実家の力を頼るというなら推古天皇や馬子の力の方が、遥かに強かったはずや。……聖徳太子は国際感覚に優れた男や。飛鳥に引きこもっていては、大和朝廷に未来がないと考えたのではないかなあ」


「ふむふむ」


 佐藤がうなずいたとき、「おまちどおさま」と膳が運ばれてきた。


「そら。食事や」


「話が途中だよ」


「それは車の中でもできることや。衣食足りて礼節を知る。とにかく食べろ」


「腹が減っては戦が出来ない。いただきます」


 佐藤が真っ先に箸をつけた。

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