第22話

 興福寺の国宝館には俊介が楽しみにしていた阿修羅あしゅら像がある。そのうれいを秘めた青年像は若い女性に人気で、その日も像の前には沢山の人がいた。


「阿修羅道の主だ。そこは常に戦いの世界」


 森村が阿修羅像の前で足を止めた。


「さすが班長さんや。よう知っとる」


「そんなこと、俺だって知ってる」


 佐藤が見栄を張った。


「そうかぁ。みんな賢いなぁ」


「あ、……ゲームの世界に、よく出るキャラクターなんです」


 森村が少し恥ずかしそうに説明した。


「何から知ってもかまへん。ようは、戦いに明け暮れる阿修羅から、何を学ぶかが大事や」


「どうして、手が沢山あるの?」


 花梨の素朴な疑問だった。


「顔が三つあるやろ。3人分や」


「足は2本よ」


「足が6本あったら、歩きにくいやろ」


「本当は知らないのでしょ?」


 凛花が突っ込んだ。


「美川ちゃんには、嫌われたみたいや」


 綾小路が花梨にささやいた。


「そんなことないですよ。凛花さん、クールなんです」


「もしかして、ツンデレかいなぁ」


「私もよく分からないの」


 すると彼はコホンと大きめの咳払いをした。


「阿修羅はなぁ、元々は天上界に住んでいた太陽神で正義の神なのや。ところがインドラの神に娘をさらわれて戦いになった。それは正義のための戦いだ。力は拮抗きっこうしていて永遠ともいえる戦いが続くと、阿修羅の顔は常に憤怒の顔になる。その時の戦いの理由はなんやろう。ただの怒りだ。感情の爆発だ……」


 彼は声を押し殺し、されど情熱的に語った。


 花梨たちは物語の続きを待った。


「……仏像なら顔の多いのは喜怒哀楽など人の心の様を象徴して作られ、手の数が多いのは、より多くの人を救うためと相場が決まっている。ところが阿修羅は仏教に取り込まれる前から多面多臂ためんたひとして描かれている。その顔の多くは、インドラ神と戦う憤怒の顔で、ここの阿修羅みたいに大人しいのは少ない。この阿修羅像の三つの顔の有力な説は、反抗心の残る左顔、過ちに気づいた右顔、苦悩の中に希望を見出そうという中央の顔というものや。君たちのようや」


 彼は生徒たち、とりわけ凛花の顔を見つめ、彼女が目をそむけると先に進んだ。ただ、背中を向けながら「正義とは、何なのやろなぁ」と静かに語った。




「こんなん急いで歩いたのは久しぶりや」


 綾小路は駐車場近くの店の前で足を止めると汗を拭き、ソフトクリームを5個注文した。


「ほら、食べ」


 最初に出来上がったのを花梨に差し出す。


「えっ」


「オッチャンのおごりや」


「オッチャン、おおきに」


 花梨は素直に受け取り、覚えたての関西弁で礼を言った。


「ほれ……」


 二つ目は凛花に差し出した。


「私は大丈夫です」


 彼女が遠慮すると、彼は目を怒らせた。


「オッチャンのソフトは食えないっちゅうんか?」


 高齢者らしい図々しさで酔っ払いの理屈を展開、彼女の目の前にソフトクリームを突き付けた。


「……どうも」


 凛花が仕方なく受け取ると、綾小路が相好を崩す。それから佐藤、森村の順にソフトクリームを配り、最後のを自分がペロリと舐めた。


「うまい」


 舐めながら歩きはじめる。


「良かったんですか? お金、払いますよ」


 森村がもぞもぞ言うと綾小路が笑った。


「施しや。こうやってぞろぞろ歩いているところを見ると、花梨ちゃんと鹿みたいやろぅ」


「オッチャンも、餓鬼道に落ちますよ」


 花梨はチャンスとばかりに仕返しを言った。彼女のソフトクリームは凛花と変わらない速さで減っている。


「こりゃ、まいった。一本取られた」


 わいわいと歩いているうちに駐車場のタクシーに着いた。


「綾小路さんは何でも知っているんですね。すごいわぁ」


 平城宮跡に向かう車の中で、花梨は思いっきり彼を持ち上げた。実際、そう思っているから、持ち上げることにやましさもなければ不自然になることもない。


「感心してもらえるのは案内人冥利みょうりに尽きるけど、何でも知っているというのは間違いや。世の中は広い。宇宙は大きく、その歴史は長い。そこに詰まっているものと比べたら、オッチャンが知っていることなど、ちりあくたにすぎんのや」


「そりゃ、宇宙と比べたらそうだけど、私と比べたら……」


「まぁーなぁ。オッチャンは君らの倍以上生きとるしなぁー。比べたら知識が多いのは当然のことや。そやけど、それで偉くなったような気持ちでおったら傲慢というものや。知識なんか、辞書やインターネットでも得られるものやからなぁ。大切なのは、知ったものをどう使うかということや」


「オッチャンは、案内に使っている」


「上手いこと言うやないか。そういうこっちゃ」


 彼がカラカラ笑った。

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