第21話
「春日大社は東大寺と共に奈良の都の
境内を速足で歩きながら、オッチャンが教師のように語った。
「どういうことですか?」
森村が尋ねた。
「ここは高台で奈良を一望できる。ここに藤原氏が軍を置いたら、攻めるのも守るのも容易いということや」
「あぁ、なるほど、そうですね」
「歴史は過去のおとぎ話とちゃう。その時代の人間が知恵をめぐらし、力を蓄え、振るい、生き残りをかけて戦った政治の結果や。それを学ぶために修学旅行に来たのやろ?」
「綾小路さんって、先生みたいですね」
凛花が珍しく口を利いた。
そういわれてみれば。……凛花の言葉が花梨の胸に刺さった。オッチャンとは、どこかで会ったことがあるような気がする。自分の行動範囲を考えれば学校の可能性が高いけれど、これほど面白く、いい加減な教師や職員に心当たりがない。
「……そやろ。奈良公園の鹿は、
「私、知りません」
綾小路が話を振ると凛花は、汚いものでもあるかのように拒絶した。
「オッチャン、女子高生に向かっておねえちゃんは失礼ですよ」
花梨は注意した。
「あー、しもた。こっちでは若い女性を呼ぶとき、普通におねえちゃんと使うのや。東京や東北じゃ、それはないわな。ゆるしてな、美川さん」
彼は髪の薄い頭を
ぺこりと頭を下げて南門をくぐる。正面に拝殿があり、石畳が伸びる左側には青々とした藤棚があった。
「ここの藤の花は地面に届くというので砂ずりの藤というのや。見ごろはゴールデンウイーク。まぁ、若いもんは藤の花などに興味ないやろなぁ。藤は藤原家の藤で、生命力の象徴みたいなもんや。ここの
「あ、葵の紋ならわかります」
花梨はそれが分かるだけで少しうれしかった。
「それは良かった……」綾小路の目尻が下がる。「……その神紋が下がり藤というデザインや。まぁ、オッチャンの言うことはテストには出んから、忘れてなぁ。ほな、お参りし。二礼二拍手一礼やで」
彼の言う通り、花梨は
「お待たせしました」
参拝を済ませると、回廊がつくる日陰でぼんやりしている綾小路のもとに走った。
「さあて。次は
綾小路と花梨たちは木陰の坂を走るように下る。
興福寺にも鹿が沢山いて、花梨はシカせんべいを買うのに沢山小遣いを使った。鹿せんべいを上げながら歩くものだから、鹿の長い列ができた。
「花梨ちゃん。よう、
綾小路は花梨が鹿を引き連れて歩く姿を見て感心しきりだ。
「施しって、良いことですか?」
森村が訊いた。
「どうやろなぁ。仏教では欲を捨てるという意味があって良いことや。格言でも、情けは人のためならずというからなぁ。鹿に施しをすれば、いつか鹿の神様がご利益を与えてくれるかもしれないなぁ」
「花梨の場合は、シカのためならず。ですかね」
「おもろいこと言うなぁ。……施しも過分で、小遣いの使い方が贅沢だと解釈されたら、
「餓鬼かぁ。花梨のまんまだな」
佐藤が笑った。
「なに、なに、なに……」
鹿にせんべいを食べ尽くされた花梨は、綾小路のもとに走った。
「花梨が餓鬼道に落ちるって話をしていたんだ」
「えぇー?」
綾小路は生徒たちの話にのらず、巨大な五重塔の前で足を止めた。
「着いたでぇ。ここが興福寺や。立派な塔やろ」
「あそこに餓鬼道があるの?」
「凛花ちゃん、餓鬼道があんのは地獄の近くや」
彼は苦笑し、地面を指した。
「餓鬼は、飢えた鬼や。食べ物や金がなくて飢えるのも餓鬼だが、贅沢をしても満足できない者も餓鬼や」
「私、贅沢なんかしてないですよ」
花梨は綾小路に抗議する。
「シカせんべいを贅沢に買いすぎるって、話していたんだよ」
森村が綾小路をフォローした。
「えぇー。だって可愛いんだもん」
自分の小遣いを何に使おうと勝手ではないか!……花梨は口を尖らせた。
「生き物に接するのは、愛情が大切や。しかし、それだけではいけないのや。愛と同じだけの厳しさがなければ、生き物は甘えて弱くなる。自立できない生物ほど可愛そうなものはない。そう思わないかね?」
「自立ですか?」
「そや。子供が教育を受けるのも、自立するためとちゃうか?」
「うぁ。オッチャン、やっぱり先生みたい」
花梨が声をあげると、綾小路はにんまり笑みを浮かべた。
「オッチャン、五重塔って、どんな意味があるんだ?」
「おっ。仁王さん、やっと修学旅行生らしい質問をしたね」
綾小路は真面目な顔をして「塔には、三重塔、五重塔、七重塔などがあるが、どれも仏陀の墓の象徴や。あのてっぺん……」
綾小路が五重塔の上の方を指す。花梨たちは、彼が指すものを見上げた。
「……屋根の上にある金属でできているのが
「へー」
花梨は理解できなかったが、すごいことを教えられたのはわかった。
「七重塔なんて見たこと無いけど」
森村がつっこんだ。
「たぶん、現存するのはないなぁ。この塔も室町時代に再建されたものや。男らしく力強いデザインが京都の東寺の五重塔とよく似ている。東大寺の塔は七重だったらしいで。ガイドブックにあるやろ」
花梨は慌ててガイドブックを開いた。東大寺には東塔、西塔のふたつの七重塔があり、その高さは96メートルほどと推測されるとあった。
「ホントだ」
「まぁ、そんなのもテストには出んわなぁ。……でも、憶えておきや。自分が関心を持っていたら、身近なところに情報はあるのや。それを調べずに人に訊くのは、恥ずかしいことや」
すると、凛花が口を開いた。
「私の父は、聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥と言います」
花梨は驚いた。凛花が家族のことを話したのは初めてではないだろうか?
「それは、自分で努力して調べても分からなかった時の話しとちゃうかな。まぁ、昔はまともな本もインターネットもなかった。調べることは訊くことしかなかったのかもしれないな。……オッチャンは、難しいことは分からん」
綾小路はとぼけた顔をつくって歩き始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます