第3章 修学旅行

第13話

 藍森高校2年の総勢47名は、1台のバスにひしめくように乗り込んで空港に向かう。引率する教師は教頭と1組担任の津久井静佳、2組の友永の計3名。彼らは通路の補助席に座った。バスは山中をうねる道を、高速道路を目指した。


 ほとんどの生徒にとって飛行機に乗るのは初めての経験で、空を飛ぶことに希望の夢を膨らませる者と、不安で胸をいっぱいにする者とに分かれていた。


「なんだかドキドキするわ。おかげで夕べは眠れなかった」


 花梨は遠足の日の小学生と同じだった。


 隣の窓際の席は凛花。だれと座るのかは自由だったが、花梨はあえて凛花の隣に座った。その凛花はうかれてはしゃぐ花梨に冷たい視線を送ってよこすだけだった。


「凛花さんは、乗ったんでしょ、飛行機?」


 奈良県から転校してきたなら飛行機で来るのが当然だと考えた。


「ええ、なんどか」


 凛花は難しい顔をしているが、話すことを嫌っているようには見えなかった。


「何回も乗ったの。うらやましいなぁ」


「別にたいした事はないわよ」


「そんなことない。すごいことよ。関西国際空港って、どんなとこ?」


「どんな?……」凛花が小首を傾げる。「……来るときは伊丹いたみで、関空かんくうじゃなかったな」


「痛み? どこが痛むの?」


 顔色はよさそうだけれど。……彼女のことが心配になった。


「違う。伊丹空港よ。大阪には、関空の他に伊丹市と八尾市にも空港があるの」


「大阪って、すごいのね!」


 空港の数が多いより、凛花が応えてくれたことが嬉しくて声が大きくなった。すると、彼女が困ったように窓側に顔を向けた。


 コツンと花梨の頭を後ろの座席からたたく者がいる。


「何がすごいんだよ」


 2組の荒神だった。シートの上から覗き込むようにしていた。


「大阪には、空港が3つもあるんだって」


 花梨は身体をよじって後ろを見上げた。


「へー、東京より人が少ないのに?」


「東京にはいくつあるの?」


「羽田だけだろ?」


「調布にもあるよ。アメリカ軍の横田飛行場や、自衛隊の立川飛行場を入れたら四つだ。諸島部のローカル空港やグライダー用の飛行場も入れたら、いくつあるかわからないよ。それに、伊丹空港がある伊丹市は兵庫県だから、厳密には大阪の飛行場じゃない」


 荒神の隣にいた町田が言った。


「へぇー、そうなの?」「そうなのかぁ」


 花梨と荒神の声が重なった。


「そういえば、甲子園球場も大阪じゃなく兵庫県だな」


 荒神がダメ押しのように言った。


 凛花は窓の外に広がる景色を追っていて、振り返ろうとさえしなかった。それが面白くないのだろう。荒神が声を荒げた。


「まったく、……少しぐらい反応しやがれ」


 それでも凛花は反応しなかった。はしゃぐ同級生を拒絶するように、流れる景色に目を凝らしていた。バスは高速道路に乗り、スピードを上げた。


「花梨……」


 荒神が、また花梨のつむじをコツンと叩いた。


「なあに?」


 彼が背もたれの上から身を乗り出し、花梨だけに聞こえるように言う。


「今晩、みんなが寝静まったらデートしようぜ」


「いやよ。そんなつもりはないわ」


「ゴムなら持ってる」


「関係ない」


「なんでだよ」


「私にだって、相手を選ぶ権利があるでしょ」


「俺を怒らせるなよ」


 荒神がすごんだ。


「脅かしたら、女の子がやらしてくれると思ってんのぉ」


 花梨は振り返って笑う。嫌味のない笑みだ。


「まったく、調子狂うなぁ」


 荒神は諦めてシートに腰を下ろした。


「まったく、男ってやることしか頭にないのね」


 花梨は凛花の背中に話しかけた。


「秦野さんだって、好きなのでしょ。セックス?」


 凛花は微動だにせず、窓の外を見ながら言った。果てしなく広がる田畑は、同じ緑でも、藍森町の景色とはずいぶん違っていた。


「えっ……」


 予想外の話に、頭が白くなる。


「みんな話しているわよ。秦野さんはヤリマンだって」


 花梨は返事ができなかった。彼女のストレートな物言いにも驚いたし、彼女が誰かと自分の噂話をしているのにも驚いた。


 学校では友人がいるような様子がないのに、いつの間に噂話をする友人ができたのだろう?……寮生の顔が次々と浮かんでは消える。どの顔も、凛花と重なるものではなかった。


 高速道路を下りたバスが料金所で止まった。その拍子に、花梨は我に返った。


「誰が言ったの。私が、……その」


「ヤリマン?」


「うん、それ」


 彼女の頭が動いた。大きな瞳が花梨の視線をとらえた。


「ナイショ」


 彼女が薄く笑った。




 飛行機の座席は出発前に決められていて、花梨と凛花は隣り合わせだった。席を決める時には、花梨は積極的に凛花の隣を選んだ。窓側の席には凛花が座る。他人を避けたがる凛花に良かれと思ってそうした。


 ところがまさか、バスの中であんな話になるなんて。まさに想定外。青天の霹靂へきれき!……花梨は楽しみにしていた空の旅を、彼女の隣で石像のようになって過ごした。弧を描く地平線も、うかぶ白雲も目に入らず、機長や客室乗務員の言葉も耳に入らない。出されたオニオンスープの味もわからなかった。


 通路をはさんだ席のモエが、時折声をかけてきた。エンジン音がうるさいわけでもないのに、何を話しているのか分からない。


「別にセックスすることを非難しているわけじゃないのよ」


 突然、凛花が言った。何故か、その声はよく耳に届いた。まるで稲妻が頭を貫いたようだ。


「エッ……」そうよ。セックスは人間関係の潤滑剤だもの。花梨は応じたが、声にはならなかった。代わりに母の声がした。――セックスは人間関係の潤滑剤よ。汚いものではないの。花梨も大きくなったら分かるわ――


 東京に住んでいたことがあった。夜中、母は見知らぬ男性を連れてきて、ひとつの布団に入った。花梨は子供だったけれど、母がその男性とをしていると理解していた。


 母を抱いた男性は、翌朝、機嫌よく帰っていく。母は何事もなかったような顔をして「花梨がいい子だって、おじさんがめてくれたわよ」と抱きしめてくれた。そうやって母娘は生きてきたのだ。それは誰にも否定されたくなかった。


 そうした生き方を、小学校の同級生たちは否定した。という形で。


 頼るものがない花梨は、いじめっ子の言うことに従うしかなかった。裸になれと言われれば裸になり、犬の真似をしろと言われれば犬の真似をした。遺書を書けと言われたから遺書を書いた。……花梨はブルブルと頭を振って過去を吹き飛ばした。


「セックスぐらい、中学生だってやるもの……」


 意外にも、凛花は否定しなかった。


 彼女の話には続きがあるものだと待っていたが、それから飛行機が着陸するまで、彼女は口を利かなかった。


「関西の空気は苦いわぁ」


 それが、飛行機を降りた凛花の第一声だった。

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