第11話

 森村俊介が抑圧していた欲望を吐き出し尽くすと部屋の空気がにごった。時折、開けっぱなしの窓から乾いた風が流れ込んで空気を浄化した。


「3次元も悪くないでしょ」


 花梨は天井を見ていた。森村と視線を合わせて、自分が彼を愛していると誤解されたくなかった。1、2、3、……話しながら天井板の節穴の数を数えた。何度もこの部屋を訪ねたことがあったけれど、それに気づいたのは初めてだった。今までだって見ていたのだ。でも、気づかなかった。


「あぁ。……すごく良かった」


 彼は照れていた。


 子供なんだから。……森村が喜んでいることに満足を覚えた。


「だから、修学旅行に行くのよ。そのほうが、おばさんも喜ぶと思うわ」


「ん、母さんのため……、なのか?」


「そう。だから、よ」


「なんだかな……」


 彼が深いため息をついた。


「私は好きよ。俊介君のお母さん」


 彼は口をつぐんだ。嫌いと言わないのは、好きだというのと同じだ。


「2次元、……いや、ネットに大阪の友達がいる」


 そう話す彼の息が花梨の耳をくすぐる。顔を寄せてきたのだ。


「うん。それが、どうしたの?」


「大阪に来たら、会いたいと言われた」


 なに? 自慢?……オタクの考えは読めなかった。いや、情報が足りない。


「女の子?……会えばいいじゃない。奈良と京都の夜なら面会時間もあるわ」


「やだよ」


 彼の手が胸に触れた。遠慮がちに……。まだ3次元の自分に確信が持てないのだろう。


「どうして?」


 まさかだけど、私に惚れた?……花梨はうぬぼれる。


「ネカマかもしれない」


 あぁ、そっち。……アハハと心の中で笑った。


「ネカマなら、会おうとは言わないでしょ」


「だね……。そいつ、美川とつるんでいた仲間かもしれない」


「えっ」


 思わず首をひねると、間近で視線がぶつかった。彼の瞳はキラキラしていて何かを探しているように見えた。


「どうしてその人が凛花さんの仲間だと思うの?」


「そいつが言うには、奈良から来ていた女子高校生がヤクザを刺したらしい」


 彼は数日前に入手した情報を淡々と説明した。事件があったのは春休みで、その女子高校生は姿を消したそうだ。


「……怖い」


 花梨は、凛花の過去を暴く森村の口元から目が離せなかった。


「だろ」


 彼がペロリと凛花の鼻を舐めた。


「やだぁー……」


 変な奴。……そんなことをされたのは初めてだった。鼻をゴシゴシふいた。


「……どうしてヤクザを?」


「売春と麻薬が絡んでいるって話だった」


 彼が胸を揉んだ。


 そんな気分になれない。……彼の手を押しのけた。


 彼の顔が曇った。


「それって、本当に凛花さんのことなの?」


「名前は聞いてない」


「どうして確認しないのよ?」


「分かったら怖いだろう」


「今度はちゃんと聞くのよ」


「母親みたいなことを言うなよ」


 責める口調の花梨から離れようとしたのだろう。彼が上半身を起こした。


「怖いけど間違いかもしれないじゃない。あの凛花さんが売春したり、人を刺したりすると思う?」


 花梨も身体を起こした。頭の中では、凛とした凛花が教師に戦いを挑んでいた。


「ならどうして美川は、いつもあんな質問をするんだ。どうして人を殺してはいけないんだ、なんて……」


「友永先生は、大人を試しているんだろうって言っていたわ。きっと、先生たちを困らせようとしているのよ」


「何のために困らせる?」


「楽しんでいるのかも……」


 花梨は答えを見つけられなくて、そう言った。


「美川は、そんな人間じゃないと思うぞ。もっと重い何かを抱え込んでいる」


 森村の言葉には抵抗しがたいものがあった。花梨自身、同じことを感じている。だからといって、彼女が人を刺すような人間には思えない。


「どうして人を殺してはいけないのですか?」


 彼女の言い方を真似てみる。ヤクザを刺したという情報が、漠然とした不安から事実に変わった瞬間だった。


「ヤクザなら、殺しても良い?」


「……それはないだろう」


 森村がベッドを降りた。凛花に背を向けてパンツをはいた。


 凛花とどのように関わっていけば良いのだろう? どうして先生は凛花と過ごすとためになると言ったのだろう?……友永の言葉は、不安を消してはくれなかった。


 天を仰ぐ。暗くて天井板の節穴が見えない。


「あ……」


 花梨はベッドを飛び出した。


「どうした?」


「外が真っ暗」


 山間部の夜は早い。陽はとっくに山陰に沈んでいて、窓の外には街灯の灯があった。


 大きなモニターの明かりで脱ぎ散らかした衣類を探し、身支度を整える。


「明日は学校に来てよ」


 階段を駆け下り、玄関を飛び出した。その時、ちょうど職場から帰ってきた森村の母親とかち合わせた。


「あら、花梨ちゃん、どうかしたの?」


「あ、おばさん。俊介君が学校を休んだので、様子を見に来ました。元気だったので、安心しました」


「俊介、また学校をさぼったのかい……」


 彼女が俊介の部屋を見上げた。窓には明かりがついていた。花梨はほっと胸をなでおろす。


「明日は休まないように、おばさんからも話してください。修学旅行にも、ちゃんと来るように言ってください」


「そうね。分ったわよ。すまなかったね」


「いいえ。それじゃ、さようなら」


 花梨は自転車にまたがるとペダルを踏んだ。


 巨木の陰から昇った月が、道を照らしていた。

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