第8話

 間もなく夜9時という時、〝居酒屋アキコ〟に顔を見せたのは友永だった。藍森寮で食事を済ませた後、酒を呑むためだけにわざわざやって来るのだ。


「いらっしゃい」


 晶子あきこと花梨の声がはずんだ。花梨は母親の晶子と2人暮らし。居酒屋の2階が住まいで、勉強はしないけれど、母親の手伝いはよくした。


「よっ、先生いらっしゃい」


 カウンターの客も手を挙げる。商店街の年寄りたちだ。カウンターに並ぶのは、晶子と話すのが目当ての常連客だ。彼らに下心があるかのかどうか、花梨は知らない。


「こんばんは」


 友永はカウンターに並んだ顔なじみにぺこりと頭を下げてから、花梨に視線を向けた。


「花梨もいたんだ」


 彼がからかった。


「私はいつもいるでしょ」


 教師のボケに付き合ってやった。


「だったな。ちょっと付き合え」


 友永はよく呑みに来るが、花梨を誘ったことはかつてなかった。


「私?」


「おお、そうだ」


 友永は靴を脱ぎ、小上がりに上がった。


「先生、私に惚れた?」


 今度は花梨がからかった。そうした対応は母親から学んだ。


「バカを言え」


 彼が苦笑する。その顔は意外とシブイ、と花梨は思う。


「花梨、これ、お願い!」


 花梨が腰を下ろすより早く晶子が呼んだ。徳利とっくりとお通しをのせた盆を手にしている。酒呑みを待たせてはいけないというのが、母親の信条の一つだった。


「はーい」


 盆を受け取り、友永の席に運ぶ。


「先生、生徒と付き合うのは淫行ですよ」


 冗談を言いながら、彼の前に徳利とお猪口、お通しと箸を並べた。


「俺がしょんべん臭い生徒を相手にすると思うのか?」


 また、彼が苦笑する。アキコで彼は、苦笑ばかりするのだ。


「うわっ、下品。そんなことを言うから奥さんに逃げられるんですよ。少しは反省してください」


 花梨は小上がりのかまちに腰を下ろし、彼に向かって上体をひねった。


「分かってるよ。って、なんで俺が花梨に説教されなきゃならないんだ。……まぁ、いい。花梨も何か飲み物もってこい。金は払うから」


「ありがとうございます。それじゃ、ドンペリ、いいですかぁ?」


「いつからここが高級キャバクラになったんだ」


 花梨はアハハと笑いながら冷蔵庫に走り、コーラのびんを取って友永の席に戻った。


「キャバクラ・アキコへようこそ」


 花梨は小上がりに上がり、掘り炬燵に足を入れると友永の足に触れた。慌てて足をひいた。


「笑えない冗談はよせよ」


「そうお?」


 友永の真面目な顔に、流し目を送る。それも母から学んだ。


「ふむ……」友永が困惑を顔に浮かべて口を開いた。「……今日、修学旅行の話があっただろう?」


「はい。どうして旅行先が関西なんですか? 今どきの高校は、海外に行くのが多いのに。シンガポールとかマカオ、ラスベガス……」


「バカ、カジノ旅行か」


「先生だって一攫千金いっかくせんきんが夢でしょ?」


「俺は、ギャンブルは嫌いだ」


「そっか、離婚したものね」


「結婚はギャンブルじゃないぞ」


「やっぱり貧乏だからですよね?」


「……」友永が眼をしばたたかせた。


「奈良、京都観光なんて、ダサイですぅ」


「観光じゃない。学習に行くんだ」


「藍森高校の修学旅行が奈良、京都なのは、学校が貧乏だからですよね?」


「学校が貧乏だからじゃないぞ。PTAが、海外に行くような金を出さないからだ」


「先生たちは、可愛い子供を海外に出せって、親を説得しないの。グローバル化の時代なんだから、子供を海外にやって、見聞を広げさせろとかなんとか、理由はいくらでもあるじゃないですかぁ」


「勉強はできないのに、理屈だけは一人前だな。なんで教師の言うことを聞かないお前たちのために、俺たち教師が親を説得しなければならないんだ?」


 友永が酒をあおった。


「教師だもの、生徒のために頑張るのは当然ですよ」


「ろくに勉強もせず、白紙答案を認めさせようとする生徒のために頑張れるか」


「あぁー。津久井先生に聞いたんですね」


「面白いホームルームだったみたいだな」


 彼が口角を上げる。


「んもう、最悪ですよ」


 花梨は口をとがらせた。


 そこに晶子が煮魚と豆腐田楽を運んできて「花梨が迷惑をかけていませんか?」と微笑んだ。


「いや、大きな問題はありません」


「小さな問題はあるんですね?」


「止めてよ、おかあさん」


「小さな問題は生徒全員が抱えていますから、ご心配なく」


「ふつつかな娘ですが、よろしくお願いします」


 晶子は、いつもと同じことを言ってカウンターに戻った。


「あ、いや……」


 友永の目が彼女の背中を追った。その視線を引き戻すべく、花梨は尋ねた。


「凛花さんは、どうして人を殺してはいけないのかって聞くんですか?」


「ん、……彼女は先生たちを試しているのだ。いや、大人を、かな……」


「どうして?」


「それは、本人しか分からない。直接、訊いてみたらどうだ」


「怖いですよ」


「花梨にも怖いものがあるのか?」


「それはありますよ。蛇でしょ、お化けでしょ。それにミミズとゴキブリ」


「美川もゴキブリ並みというのか?」


「んー、それほどではないけど……。それが、修学旅行。同じ班なんですよ。私と凛花さんと、俊介と一郎。どう思います?」


「まぁ、班のメンバーが誰になるかは、花梨の好きなギャンブルみたいなものだ」


「そうですか?」


「スロットマシンみたいだろう? 教師がカラカラ回す。同じ模様がそろうことがあれば、別々な模様が並んで意味を作ることもある」


「よりによって、一郎が凛花さんの質問をちゃかして機嫌を損ねているんですよ。憂鬱だなー」


「そうか……」


 友永が首を傾げた。


「そうですよ」


「美川に、機嫌なんてものがあるのかな?」


「そりゃ無表情だけど、絶対ありますよ」


 コーラを口に運び、ぐっと飲んだ。炭酸がチリチリとのどを焼くようだ。


「津久井先生もひどいわ。あんなメンバーにするなんて」


「そう言うな」


「ギャンブルだからですか?」


「花梨の班に美川を入れるように提案したのは俺なんだ」


「えぇー、ひどい!」


 花梨が大声を上げた。


「どうしたんだ、花梨ちゃん?」「先生、変なことするなよ」「ワシが赦さんゾ」


 カウンター席から常連客の声がする。


「何でもないよー」


 花梨が老人たちに向かって手を振った。


「何かあったら相談しろよ。友永なんゾ、ぎゃふんと言わせてやる」「クビじゃ、クビ!」


「勘弁してくださいよ」


 友永が応じると、老人たちがアハハと笑った。その向こうで晶子が、不安げな表情を見せている。


「2人のためなんだよ」


 友永がカウンターに目をやり、声のトーンを落として言った。


「えー、どういうこと?」


「あぁ、今は分からないだろう。でも、花梨にとっても美川とごすことはためになるはずだ。修学旅行中、仲よくしてやってくれ」


「仲よくしたら、生物の成績、上げてもらえます? 私、理科系が苦手で」


「んー、……前向きに検討しておくよ」


「ああ、それって、政治家が断る時に使うセリフだ」


「お前、本当につまらないことだけは知っているんだな」


 友永が声を上げて笑った。

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