第7話

ホームルームでのこと、凛花が挙手した。担任の静佳が翌月の修学旅行の話をしようとした時のことだ。


「その前にいいですか?」


 彼女はいつものように凛としていた。


 生徒たちはこれから始まることが想像できたから、仲間同士で視線を合わせ「あれだ」とコミュニケーションを取った。ほとんどの者は声を押し殺して笑ったが、うんざりした顔をつくる者もいた。メッセージアプリの中では凛花をシリアルキラー扱いしても、実際は人殺しだと思ってなどいないから、彼女の行為は小さな見世物に過ぎなかった。


 やるなぁー。……花梨は、その日3度目の凛花の行為に半ば感動していた。残りの半分はうざいと思った。彼女が同級生の視線を集めるのに、ジェラシーを覚えていた。以前ならその視線は自分が集めていたのだから……。


「なあに、凜子さん」


 静佳のおっとりとした声が教室のざわつきにのまれた。


「どうして人を殺してはいけないのでしょうか!」


 大声を上げたのは一郎だった。彼は時々ふざけて、クラスの関心を引こうとするのだ。


 教室にどっと笑いが湧く。


「頑張れ!」「僕を殺さないで」


 男子生徒たちがはやした。


 花梨は笑わなかった。凛花が泣くかもしれないと思った。


 凛花の背筋がほんの一瞬、僅かに反り返った。


 怒ったか?……花梨は、彼女が一郎に向かっていくのではないかと思った。彼に目を向け、「一郎、黙れ」と押し殺した声を投げた。


 ところが凛花は、一郎に視線を向けることさえしなかった。背筋をピンと伸ばすと、琴音や友永に質問した時と同じ姿勢に戻った。


 バレリーナみたいだ。……花梨はバレーを劇場で見たことはなかったが、テレビでは見たことがあった。ステージに上がったバレリーナが、あるいはオリンピックで新体操選手がポーズを取り、音楽が鳴りだすのを待つ一瞬の緊張感。それが凛花の姿勢には見られた。


 私なら一郎を殴るのに。……身体をよじると、満足そうな一郎の顔があった。拳を作り、ばか、と声に出さず言うと、彼は口笛を吹くように口を尖らして視線をそらした。


「静かにしてね」


 静佳が両手を上げて生徒たちを静まらせる。


「どうして人を殺してはいけないかという質問なのね?」


 静佳は琴音や友永に、凛花がそうした質問をしたことを聞いていたようだ。冷静に問い返した。


 凛花はゆっくりと首を縦に振った。


 静佳が一息置いて口を開く。


「どうして人を殺してはいけないか。答えは分かっているのに、説明できない難しい問題です。1+1=2を証明するのと似ていませんか?」


「違うと思います」


 生徒の幾人かが声を上げる。彼らは笑っていた。


「そう?」


 静佳が首を傾げた。


「私は社会科の教師だから社会の側面からしか話せないけど……。あ、美川さん。座って」


 話しが長くなるのだろう。……花梨はワクワクしていた。これで歴史の授業がつぶれるかもしれない。歓迎すべき事態だった。


 凛花が指示されたままに腰かけた。


「そうねぇ。人が人を簡単に殺していい時代は、人類が始まって以来なかったのよ。人間が殺されたのはその時代のルールを破って罪を問われた時か、部族と部族が土地や資源を奪い合い、戦争をした時。現代の日本は法治国家だから、法が認めた範囲でしか人は殺せない」


「殺せるんですか?」


 俊介が訊いた。


「日本には、まだ死刑制度があります。死刑がない国もあります。……どういった法律を作り執行するか。それが文化であり、制度であり、国民性だということができると思います。……つまり社会がそうさせるということ。それ以外には、欲望を押さえられない人間が、別の誰かを殺す時。それは許されない殺人ね。欲望を満たすために人を殺していいとなったら、あなたたちは友達と一緒にいられますか?……自分が持っているゲームが欲しい、携帯が欲しいと思われたら、友達が殺そうとするのよ」


「先生、携帯は古いです」


 モエが指摘する。


「そっか。スマホね」


「下剋上はだめなのか?」


 一郎が声を上げた。


「スポーツの世界の下剋上は、ルールの中の行為だからいいのよ。戦国時代の下剋上は、簡単なことじゃなかった。……命がけなのよ。上に立つ者に問題がなければ、反乱を起こす者に大義がなく、成功する確率はとても低い。……人は、世の中が硬直化するのも嫌いだけれど、乱れるのも嫌いなのよ。殺人は世の中を乱す究極の行為だから、社会は認めない。……当たり前のことだけど、だからこそ、説明しようと思うと難しいわね。……でも、難しいことを考えることは大切なのよ。簡単に答えを得るより、答えが見つからなくても考え続けることの方が大切だと先生は思うわ」


「考え続ければ、テストは白紙でもいいですか?」


 花梨が、ここぞとばかりに質問した。


「それは容認できない質問ね。テスト問題は、美川さんが考えている問題より、ずっと簡単なものなのよ。それに秦野さんがテストに答えられないということは、先生の教え方が悪いということだもの。私が困るわ」


 生徒たちが笑った。もちろん、花梨も。凛花だけが笑わなかった。


「なぜ人を殺してはいけないか。その問題は、これからも考えましょう。先生もうまく応えられないから考えます。いいかしら、凛花さん?」


「ハイ……」凛花がうなずいた。


「それじゃぁ、修学旅行の話です」


 静佳がプリントを配った。


「班分けは先生が決めました。バランスを考えて決めたつもりです。クレームは受け付けないので、そのつもりで。……今日は、その中で班長を決めてくださいね」


 花梨は自分の名前を捜した。


「あった……。えっ……」


 思わず静佳に目をむけた。静佳は花梨の反応を予想していたらしく、笑みをたたえながらも意見は許さないというように射すような視線を送ってくる。周囲を見回すと、友達の同情の眼差しがあった。


「それじゃあ移動して。……班ごとに集まって、ミーティング開始」


 号令のもと、生徒たちはだらだらと移動して班ごとに集まる。


 花梨は第5班で、粗野な佐藤一郎と引きこもりの森村俊介、そして凛花の4人だった。凛花がつんとしているのに対し、からかったばかりの佐藤は気まずい顔をしている。森村はプリントをぼーっと眺めていた。


 周囲の班はワイワイと楽しそうにしていたが、花梨の班の4人は顔を付きあわせたまま無言だった。見かねた静佳がやって来て「早く班長を決めないと、帰れないわよ」と脅かした。


「どうするよ」佐藤が口火を切った。


「私は馬鹿だから駄目」


 花梨は応じた。


「俺もだ」と佐藤。


「凛花さんは転校してきたばかりだから、俊介君が班長だね」


 花梨はさらりと言った。


「賛成」と佐藤。


 凛花が小さくうなずいた。


「待てよ。僕は2次元専門。3次元はだめだって」


 森村が抵抗した。


「はい。3対1で森村俊介君が班長に決まりました」


 花梨が宣言して拍手すると佐藤も手を打った。佐藤の拍手はとりわけ大きく教室内に響いた。


「僕、修学旅行にはいかないつもりなんだ」


 森村の突然の宣言に、花梨たちの口が丸く開いた。


「何よ、それ」


「パソコンのないところになんか、行けないよ」


「違うだろ。俺たちと一日中一緒にいるのが嫌なんだ」


 佐藤の指摘に俊介はむくれる。


「とにかく、班長は俊介だからね。ずる休みしたら、先生に言いつけるから」


「言いつけるって、ガキみたいなこと言うなよ」


「ガキはどっちよ。班長に決まったから行かないつもりだなんて」


「多数の暴力だな」


 森村が言った。


「何よ、それ?」


「多数決の名のもとに、少数派を圧迫することだよ。民主主義の欠点だ」


「難しいことを言って、馬鹿な私たちを煙に巻こうというのね」


 花梨はぷーっと膨れて見せる。小学生のころからの付き合いで、そうすると森村が諦めると知っていた。


「いや、花梨。分かっているだろう」


「多数決でなくても、このメンバーなら俊介がリーダーになるのは決まったようなものよ。ねぇ、凛花さん」


「私はクラスの誰のことも分からないから、任せるわ」


「なら、美川がやれよ」


 佐藤が乱暴に言った。


「さっき、採決が済んだでしょ。俊介が班長よ」


 花梨の決定はくつがえらなかった。

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