第6話

 音楽の授業が終わって2年1組の教室に移動する。その間、凛花の隣には誰も立たなかった。


「怖いわね……」ひそひそとささやく者がいる。言葉はモンシロチョウをむごたらしく殺した教師だけに向けられたのではなく、教師を怒らせた凛花にも向けられていた。同級生の声は凛花にも届いているはずだけれど、彼女はいつもの冷めた表情のままで相手にしない。瞬きひとつしないように見えた。


「どうしてあんな質問をしたのかな?」


 花梨は森村俊介もりむらしゅんすけに聞いた。半ば引きこもりで美少女ゲームが好きな森村なら、美少女の凛花の気持ちがわかるのではないかと思った。


「僕には3次元女子の気持ちは分からないよ」


 彼はノリが悪い。視線を下げたり上げたり、挙動不審。


「そっか……」


町田まちだに聞けばいい。都会育ちだし、雰囲気が似ているだろ」


「それこそ女の子の気持ちは分からないんじゃない?」


 教室に入ると、自分の席で文庫本を開いている町田に眼をやり、それから凛花の横顔に視線をうつした。彼女も新刊書の文字を追っている。その横顔はろう人形のようで、他人を寄せ付けないところは町田と似ている。森村の言う通りだ。


 その日は帰宅してみんなが寝てしまうまで、2年1組の生徒の間では音楽の授業の時の凛花と琴音のやり取りが話題になった。それでも【おやすみー】【またねー】とメッセージをやりとりした瞬間から、凛花の名前も、琴音の冷酷な行動も、殺されたモンシロチョウの悲劇も、みんな忘れてしまった。


 翌日には何事もなかったように、【おはよー】【モーニン】とメッセージが飛び交い、教室では「おはよう」と声が舞った。そこに凛花の声やメッセージがないのは、いつものことだった。


 2年1組の生徒が昨日のモンシロチョウを思い出したのは、生物の授業の時だった。


 教師の友永がホワイトボードに、階層性・多様性・共通性と書いたとき、「先生」と凛花が手を挙げたのだ。


「どうした、美川?」


「どうして人を殺してはいけないのでしょうか?」


 立ちあがった凛花の質問に、友永は、びっくりしたフクロウのような顔をした。花梨も他の同級生も同じ顔をした。


 驚いたのはそれだけではなかった。友永が「そんなことか」と応じたからだ。彼は少し微笑んでいた。


 お主やるな。……花梨は心の内で言いながら、余裕を見せる友永の答えに期待した。凛花を驚かせるような答えを期待した。


「生物が何のために生きているか知っているか?」


 友永がぐるりと生徒の顔を見まわし、返事がないのを確認してから話を続けた。


「種の保存だよ。自分が生きることは当然だが、自分の子孫、あるいは自分の種を残していくことが生物にとっては重要なんだ。だから、人間に限らず多くの生物は、仲間のために自分の命を犠牲にすることがある。弱い動物は群れをつくって生きるだろう? ムクドリが大きな群れを作ればワシやタカに見つかりやすい。イワシが群れを作ればイルカやサメに見つかりやすい。どうして彼らはバラバラになって物陰に隠れないのか。そのほうが自分は助かりやすいのに」


「大きな群れを作り、大きな個体に見せて身を守っていると聞いたことがありますが」


 教師に指されてもいないのに町田が発言した。珍しいことだ。


「そうだな。それも正しい。大きな相手だと勘違いして逃げるものもいるだろう。だけど、ワシにとってのムクドリ、イルカにとってのイワシは、いつもの食事だ。それが群れになったところで、喜ぶことはあっても逃げることはないんじゃないかな?」


「蟻がライオンを負かした話があります」


 佐藤モエが言った。


「イソップ物語かな。……モエがいうように、弱いものでも集まれば、強い敵を倒すことができる。アフリカのヌーという牛は円陣を作って子供たちを守り、ライオンを追い払うことも出来る。人間もそうだ。集まり、武器を取って猛獣と戦いながら生き残ってきた。ムクドリやイワシも、協力して戦う智恵があれば、捕食者を追い払うことができるのかもしれないな」


「あのう……」


 森村が手を挙げた。


「なんだ?」


「ムクドリたちがカラスを追っ払うのを見たことがあります」


「ほー、そうか……」


 友永が苦笑した。彼のストーリーが崩壊したようだ。


「ムクドリはともかく……」


 お、強引に戻したぞ。……花梨は笑った。


「……イワシがサメやイルカを追い払えないのは、何のために集まっているのか、という理由かもしれない。彼らは、誰かが食べられている間に誰かが生き残るという戦略を取っている。そして、群れて行動していた方が繁殖には有利だ。彼らにとって、種が残ればいいというのは本能なのだ。だから彼らは群れの中で仲間同士が殺し合ったりしない」


「人間は人間を殺します」


 凛花が毅然と言った。


「そうだね。生物として、同族を殺さないという本能は備わっているはずだが、時に殺してしまう。残念なことだ」


「先生。動物だって、共食いするぞ」


 農作業で日焼けした佐藤一郎さとういちろうの口元から白い歯がのぞいた。


「動物が共食いをするのは、他に餌が無くなった場合だ。弱い仲間を食って、強いものが生き残る。それは種の絶滅を防ぐということだ。……人間の場合も同じだ。共食いが生じるような状況に直面したなら、殺人が許されるかもしれない。……しかし、それを文明が変えた。今の人類が、少なくとも先進諸国では共食いを必要とするような飢餓に直面することはない。人間が人間を殺すことをとする状況にはないということだ。だから、殺人は悪だ。……いいかな、美川さん」


「……はい」


 凛花は腰を下ろしたが、その顔は納得しているようなものではなかった。


【美川、人殺しにこだわるな】【殺したいのか?】【殺したのかも!】【殺したら転校じゃ済まないだろう。少年院送りだ】【ネットで調べてみたんだ】【事件、あったのか?】【名前じゃ、ヒットしなかった】【それはそうだ。未成年だからな】【未成年だってさらされる】【だな】【なんだか怖い】【変わり者だよな】【今晩、美川がお前を殺しに行くぞ!】【やめてー】


 授業中、休憩時間を問わず、2年1組のメッセージは、凛花の話題で盛り上がった。そこに、生身の彼女がいないことは、全員が承知していた。


 すべて幻想だ。……凛花は流れるメッセージを見ながら思った。

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