第4話 永く、お側にて
バヤールに案内され、館に入る。
ジンハとトゥトゥだけが奥へとおされ、他の付き添いたちは、すこし入ったところにあった広間に導かれた。酒肴が用意されている。
ならわしにより、花嫁の介添人はこのあと夜通し、花婿の家でくつろぐことを許されているのである。満足したものから、めいめい、帰宅する。
長い廊下。
両側には竜の珠のちからによる灯火がいくつも灯され、落ち着いた色の上品な毛氈が敷き詰められている。
トゥトゥは商用でこの館に来たことはあるが、いわば出入りの業者の立場だったから、裏の質素な通用口しか知らなかった。あたりを見回したい欲求とたたかい、しずやかに歩を進める。
廊下を進み、いくつか曲がると、扉が開け放たれた部屋があった。なんにんかの侍女が頭を下げて控えている。バヤールに促され、部屋に入る。
侍女たちが手早くトゥトゥの髪と化粧を整える。トゥトゥの見知った顔ではなかったが、彼女の肌を知悉しているような手際だった。
侍女のひとりがうなづくと、バヤールはジンハを促し、部屋の隅へ下がった。
トゥトゥは別の侍女に手をひかれ、入り口とは反対側、別の扉の前に立った。
重々しく、扉がひらく。頭を下げる。
「ウォジェ家ご次男、セイラン・ウォジェさまです」
侍女の声に、顔をあげた。
あのときの、風。
上空の、
夫の顔を正面からみたときにトゥトゥがまず感じたのは、それだった。
セイラン・ウォジェは、身体にぴったりあった黒の装束に身を包み、儀礼用の外衣を揺らしながら、ゆっくりと彼女に近づいてきた。
上空でみたときより、肌の色がうすい、と感じた。
長い黒髪を、今日は艶やかに撫で付けて背に流している。
「……トゥトゥでございます。永く、お側にて」
目の前にたった夫に、決められた短い口上を述べる。
セイランは表情を変えない。
と、右手をあげた。
トゥトゥの頬に触れる。
びくっ、となった彼女に、セイランは太い眉をややひらき、苦笑のような表情をつくった。
「ほんとに、きたんだな」
小さな声で呟く。
トゥトゥは、言われた言葉の意味をやや考え、ひとつの感想を抱いた。
「は?」
思わず声に出てしまう。
侍女たちが、ひゅ、と息をのむ。
が、セイランは気にする様子もなく、部屋の隅で控えているジンハに礼をとった。
「ご息女、わが妻としてお迎え申し上げる。以後、わたしのことは息子とも思し召されよ」
ジンハも深く礼をとる。顔をあげ、トゥトゥの目をみて、すこしくちを引き結んでうなづく。しっかりやれよ、との意味だった。
それでトゥトゥも、いまが育ての親とのわかれのときだと思い至った。にわかに湧き起こる不安と寂しさに胸を塞がれる。
永遠の別れではない。夫の方針しだいではあるが、竜に関わるものたちの間では、実家との行き来は比較的、自由である。場合によっては明日にでもまた会える。
それでも、胸に去来するものをとめようもない。
自然と涙がうかんでくる。
ジンハは少し微笑んで、手をあげ、促すバヤールとともに部屋を出て行った。
と、涙ぐんでいるトゥトゥの腕を掴むものがある。
セイランだった。
ぐいと掴んで、引っ張る。
彼女の装束は裾の長い婚礼用のものだったから、思わずつまずきそうになる。
「ちょ、ちょっと」
思わず声を荒げた。それでもセイランは気にするそぶりもなく、そのままずんずんと歩を進める。先ほどの部屋を出て、セイランが現れたほうの部屋に移動する。彼の居室のひとつのようだった。先ほどのは、控えの間、というところなのだろう。
「疲れたろう。そこで座って休んでくれ」
セイランは部屋の真ん中でトゥトゥの手を離すと、近くの長椅子を顎でしめし、自分は少し離れた背高椅子にどかっと腰掛けた。足を乱暴に組む。
トゥトゥは背後で侍女が扉を閉めたのを確認してから、できるだけ抑えた声で、それでも早口で抗議した。
「なんなんですかっ、乱暴じゃないですか」
「痛かったか」
セイランは腹の前で指を組んで、不思議そうな表情を浮かべた。
「痛くはありませんが、言葉でいっていただければわかります。それにさっきのはいったい、どういう意味ですか」
「気に障ったならすまなかった。俺は気が短いんだ。行動で示した方が早いだろ。あと、なんだ? さっきの? ああ、ほんとに来たのか、ってやつだな。まあ、そのまんまだ」
「……どういう、ことですか」
トゥトゥの言葉に、セイランはふっと笑った。どこか自虐的な笑みだと感じた。
「まさかほんとに来るとは思わなかったんだ。あの日……君に助けられた日、ここに戻ってから竜使いたちは君のはなしで持ちきりだった。君のようなひと、竜の祝縁を受けた竜使いがこの家にいてくれれば、次の
「……」
「だが、飛演祭はその家の者でなければ参加できない。竜の世話もね。それで、俺が冗談まじりに言ったんだ。なら、嫁にでもとるか、って。そうしたら家令のリッセンが真に受けてね」
そういってくすくすと笑う。
「あれよあれよという間に手続きが進んでゆく。止めようかと思ったんだが、面白いから放っておいた」
「……それじゃ、ほんとは結婚する気はない、ってこと、ですか」
トゥトゥがセイランの黒い目をじっと覗き込む。セイランは手をひらひらと振って横を向いた。
「いやいや、俺は構わない。結婚してもいいんだ。だが、きっと君のほうが嫌になるだろう。俺のような、堕ちた英雄なんぞと、没落しかけた家で暮らすのは。俺がみんなにどう言われてるか、知ってるだろう?」
「……」
「まあ、我慢できなくなるまでここで過ごせばいい。部屋はあとで案内させる。必要なものはリッセンかバヤールに言いつけてくれ。ああ、実家にもいつでも」
たん、と、トゥトゥが床を踏み鳴らしたのでセイランは黙った。彼女の目を見る。あの日と同じ翠の瞳が、じっと彼をにらんでいた。
「承知しております。あなたさまのお噂。竜を、堕とすと」
いわれて、セイランはしかめつらをした。
「はっきりいうじゃないか」
「わたくしが今日、ここにいるのはそのためでもあります」
「ん?」
「竜たちが、かわいそうです。この家の竜はみな、ちからを弱めていると聞きました。なにか原因があるはず。たとえば、あなたのような方。乱暴な扱いをされてるとか」
う、と黙ったセイランに、トゥトゥはにっこりと微笑んだ。
「わたくしはあなたさまとだけ結婚したのではありません。この家が、竜たちが、ぜんぶの生き物たちが、わたくしの
そういって、ふんと背筋を伸ばし、くるっと向きを変えて、一度つまづきかけながら、別の扉に向かった。ばん、と開ける。外に控えていた侍女たちが仰天する。
「セイランさまはお疲れのため本日はもうお休みになるそうです。わたくしも休みます。お部屋、ご案内いただけますか」
「……えっ、あの、本日は、セイランさまの寝室にて……」
「お疲れ、との、ことです!」
「は、はい」
侍女たちは相談し、トゥトゥにこちらですと示した。
トゥトゥは一度振り返り、ふたたびにっこりと大きな笑顔をつくって、優雅な礼をとった。
「永く、お側にて。おやすみなさいませ、旦那さま」
そうしてつかつかと、侍女たちを追い抜く勢いで歩き去った。
侍女のひとりが戻り、扉が閉められる。
「……あの……よろしいので……」
呆然としているセイランに、侍女が恐る恐る話しかける。やがてセイランはくちを手のひらで覆い、やや俯いて、首をふった。
「……あれはほんとうに、この間の緑の竜の竜使い、なのか……?」
「あ、わ、わたくし分かりかねますが……たしかにあの方は、
「……そうか……」
どうしたことか、彼の浅黒い頬がわずかに赤みを帯びている。
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