祝縁の花嫁は竜の背に立つ

壱単位

第1部 堕ちた英雄

第1話 翠の竜、翠の娘


 ちる。


 トゥトゥは瞬時に、そう判断した。


 緑鱗號りょくりんごうの背を叩き、短い角の横にある耳元にくちを寄せ、ひとこと呟いてから、ぐいと手綱を引き寄せる。

 濃いみどりの鱗をもつ竜は、その小柄な体躯にふさわしい機敏な動作で、いちど天頂に向かって加速し、急速に転回した。


 高度は千五百モル、すなわち背丈の千五百倍。雲はない。眩しい陽光が彼女の色白の横顔と、騎乗する竜にも似た碧翠あおみどりの長い髪をなぞる。

 尾がふぉんと風を切って空に向けられる。頭は、下だ。


 「はぃやっ!」


 トゥトゥは緑鱗號の腹をかるく蹴り、鋭く叫んだ。


 竜は、周囲の重力場を制御することができる。その影響範囲は騎乗する人間のみならず、周囲の空間にまで及ぶ。だから、高速で移動したとしても、つよい風にあおられるようなことはない。

 ないはずなのだが、緑鱗號は放たれた矢のように鋭く、強く加速したから、トゥトゥの髪は大きく揺れた。

 目標は、前方やや左、八百モル。つまり、トゥトゥと地表の中間あたりに浮いていた。


 白銀の、竜。

 黒と金の騎竜衣きりゅういの男が騎乗している。


 が、竜は、ちからを失っていた。

 中空で腹を横にむけている。首と尾を震わせている。騎乗する男がなんとか立て直そうともがいているが、反応しない。徐々に降下しつつあり、その速度は、増している。


 トゥトゥは竜をはしらせながら、振り返って空を見た。

 ウォジェ家の空城そらじろが太陽とのあいだに浮いている。白銀の竜がさきほどそこから出てきたのを、トゥトゥは見ていた。そのとき何頭かの竜が見送りに出て、戻って行った。が、白銀の竜の状況に気付き、急ぎ回頭して向かってくる。

 しかし、遠い。間に合わないだろう。


 白銀の竜まで、百モル。

 耳を澄ます。かすかだが、捉えた。間違いない。


 さらに近づく。距離、五十モル。声が届く。

 すう、と息を吸い込み、トゥトゥは叫んだ。


 「そこのひと! 竜は呼吸しているか!」


 周囲の空気を竜が制御しているから、風切り音はちいさい。が、間にある大気に声が流される。それでも相手は、気づいた。トゥトゥのほうを振り返り、竜の背に手をあて、しばらくすると、手をあげた。おう、のしるしだ。


 「ヌガイちゅうを喰らった! 痺れがきてる! 左の胸、蹴って! 左の、胸!」


 ヌガイ虫はこの高度によく浮遊しているちいさな空虫そらむしで、ひとにはどうということもないが、竜が喰らうと麻痺をもたらすことがあった。そのうえ頑丈で、くちに入るとしばらく生きて、毒を吐き続ける。


 さきほどトゥトゥは、白銀の竜の声を聴いていた。

 のどのおく、ひだりのほう。ざわざわ、きもちわるい、ざわざわ……。

 なんとか、吐き出させないと。


 黒金こくきんの衣の男は、トゥトゥのいうとおりに左の足を竜の側面にうちつけた。が、白銀の竜はトゥトゥが騎乗する緑鱗號の倍ほどの体躯だ。男も小柄ではなかったが、効果が薄いようだった。


 と、白銀の竜が、背を激しくのけぞらせた。


 「……まずい!」


 竜は、意識を失った。同時に重力場の制御が消失する。これにより竜と、その背の男は自由落下を開始した。

 トゥトゥは手綱をたたみ、緑鱗號の首筋を二回、叩いた。即座に応じ、翠の竜は身体をくねらせ、加速した。瞬時に相手の横につける。

 男は必死に手綱を握り、体勢を立て直そうとする。が、竜は気絶しているのだ。反応するはずもない。それでも男は、もがいた。


 「だめ! 気を失ってる!」


 トゥトゥが叫ぶが、男はこちらを見ない。風圧をまともに受けるようになり、音が聞こえなくなっている。後ろで結んだ黒い長髪が風圧で激しくなびく。

 トゥトゥは唇を噛み、わずかな間、考えた。

 手綱をぐっとひく。緑鱗號が静止する。白銀の竜と男は、すぐに離れる。地表にむかって、まっすぐ、落ちてゆく。


 トゥトゥは緑鱗號の耳元にまた短く呟き、首筋を撫でて、きゅっと眉を逆立てた。


 「せい、やっ!」


 トゥトゥの裂帛れっぱくの気合いともに、緑鱗號は爆発的に加速した。瞬時に白銀の竜に迫る。男はまだ、竜の手綱を握っている。が、身体が固定できず、足が投げ出されるようにふわりと浮いてしまっている。


 その不安定な姿勢で、男の身体が進行方向のうしろ、つまり空を向いたとき。

 彼は、目を疑った。


 竜が迫る。

 そうして、その背に。

 竜の背に、ひとが、立っていた。

 両手を大きく広げ、ながい髪を激しくたなびかせて、太陽を背負い、眩しい光に縁取られながら。


 翠の竜がごうという音をたて、彼の横を通過する。

 次の瞬間、衝撃が彼を襲った。

 抱きしめられていた。


 翠の竜から跳んだ相手、トゥトゥは彼を抱き、そのまま、宙に身を踊らせた。

 トゥトゥの手が彼の頭を後ろから支える。足が、彼の腰を打つ。くるっと身体が回転する。姿勢を変えさせている。青い空と灰色の地表がめまぐるしく変わる視界。凄まじい風切り音。


 「……備えて!」


 トゥトゥは男の耳元で叫んだ。男は状況を理解しないまま、それでも、四肢のちからを抜き、肩で首を支えた。衝撃に備える姿勢は、竜の乗り手としては基本であり、身体の芯に染み込んでいる。

 と、視野に、竜が入った。白銀ではない。濃い翠の鱗。トゥトゥの騎乗する緑鱗號が、彼らの横についていた。落下する彼らと速度をあわせ、加速し、そうして彼らの下に入った。

 抱き合う姿勢の彼らは、緑鱗號の背に受け止められた。トゥトゥは背を、男は脇腹を打ち付けるかたちとなった。衝撃と痛みに、二人とも顔を歪める。ただ、竜が重力場を制御することで衝撃は最小限となっていた。


 トゥトゥは歯を食いしばり、すぐに身体を起こした。手綱を握る。男の腕をとり、彼女の背に身体をあずけるような姿勢にさせる。周囲を伺う。緑鱗號の様子を確認する。いずれも問題はない。

 眼下に目をやる。白銀の竜は、地表ぎりぎりで意識を戻したようだった。ゆらゆらと、ふらつくように、低い空を飛んでいる。

 おおきく息を吸い込み、ふうう、と吐いた。


 「……大丈夫ですか。お怪我は」


 前を向いたまま、背中の男に言葉をかける。

 男はしばらく息を整え、それからようやく、声を絞り出した。


 「……助かった。すまない」

 「あなたの竜、なんとか意識を取り戻したようです。地表に打ち付けられていたらただではすまなかった。運がよかった。でも、早めに手当したほうがいい」

 「……のちほど、様子を見に行かせる」


 その言い方から、トゥトゥはやはり相手はウォジェ家の関係者と確信した。横をむき、それとなく男の顔をたしかめる。

 浅黒い肌。やや張った頬骨と、濃い眉。黒い長髪を後ろで引き結んでいる。トゥトゥよりいくつか上、三十ほどというところか。

 トゥトゥの視線に気づいたか、男は髪色とおなじ黒い瞳を彼女の横顔に向けた。距離がちかい。トゥトゥは慌てて顔をそらした。


 そのとき、さきほどウォジェ家の空城の方から降りてきた竜たちが到着した。三頭の黒い竜。背中の男と同じ、黒地に金の刺繍の騎竜衣。緑鱗號を囲むように空中で静止する。


 「わかあっ! お怪我はありませんかあ!」


 うち一人、大柄で髭を蓄えた男が大声で呼びかける。


 「大事ない。こちらの方に、救けられた」


 わか、と呼ばれた背中の男も大声で返した。相手は大きく頷く。今度はわずかに視線をずらしてトゥトゥに呼びかける。


 「翠の竜の騎乗者どの、誠にあいすまなかった、本当にたすかった、礼は改めてさせていただきたいが、まずはそのまま空城まで若を……セイランさまをお連れいただけないか」


 トゥトゥは軽く頷いて、それから地表のほうに目をやった。


 「この方の竜は気を失い、墜ちました。息を吹き返したようですが、ヌガイ虫の毒です。手当が必要です」

 「承知した、かたじけない」


 髭面の男は下方を確認してから振り返り、なにか告げた。近くにいた竜使いが頷き、手綱をとって急降下していった。見送って、ふたたびこちらに向く。


 「しかし貴殿、先ほどはまこと見事な騎乗であった。竜の背に立つとは! 目を疑ったわ。加えて宙を飛び、竜に受け止めさせる。まるで竜と意思が通じているようだ。さぞや名のある竜使いでおられよう。失礼だが?」


 名を訊かれ、トゥトゥは照れながらも笑顔をつくり、ぴょこっと頭をさげた。


 「トゥトゥ・リンと申します。白薄荷しろはっかの宮で、竜の籠守かごもり、育て手をしています」


 髭面の男はおおきく驚いた顔をつくり、頷いてから破顔した。


 「おお、それでは、貴殿が! 竜の宮、白薄荷には、竜の祝縁しゅくえんを受けてその声を聴くことができるものあり、とかねてより聞いておった! なるほど、なるほど、あれが祝縁のちから……!」


 と、そのとき。


 「……竜の、声を、聴く……?」


 トゥトゥの背中の男、セイランが小さく呟いた。が、風切り音にかき消され、誰の耳にも入っていない。


 

 


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