第二十六話 先輩と不思議

「……先ほどは、ご迷惑をおかけして誠に申し訳ありませんでした」


 駅構内のバスロータリーにて。洋子さんは慇懃に頭を下げた。


「もう二度と、電車に飛び込むなんて真似はやめてください」


 手が震えている。

 あの時とっさに庇えたからよかったものの、百回あって何回成功できたシチュエーションだっただろうか。

 考えるだけで空恐ろしい。

 

「……えっと、最上、優斗さんは、私のお知り合いなんですか?」


 駅員に伝えた名前を聞いて、洋子さんは俺の名前を復唱した。

 着ていたカジュアルワンピースの裾をきつく握る。

 俺ははたと気づく。

 洋子さんの記憶が前よりも不透明になってる。しかも、記憶を探る作業をする素振りが無いことに。


「メモ帳はどうしたんですか?」


「……メモ帳、ですか?」


 洋子さんは肌身離さず持っていたメモ帳のことすら忘れていた。

 ただ、それでも、完全に消えてはなかったようだ。

 頭を振って、手に持っていた鞄を探る。


「それです」


 猫のイラストが描かれたノートを手に取ったときだ。

 洋子さんはしげしげとノートの中身を見つめる。


「何も書いてありません」


「は?」


 俺は素っ頓狂な声を上げた。


「何も書いてない?」


「ええ。まっさらです」

 

「少し中身を見てもいいですか?」


 俺は洋子さんからメモ帳を受け取る。

 ぱらぱらとページをめくり、気づく。

 

「嘘だろ?」


 メモ帳には何も書かれてなかった。

 不気味なほどに真っ白。ページをめくって擦れた跡も。消した跡すら残ってない。


「……鞄のほうも見ていいですか?」


「ええ構いません」

 

 新品のメモ帳かと思った俺は鞄を漁る。

 しかし、あったのはこの新品同様のメモ帳一冊のみ。

 仮に前のメモ帳を使い切ったとして、それを家に置いてくるなんてのはまずありえない。

 だって、洋子さんにとってメモ帳は思い返すためのものだ。


「消えてる」


 そう言う他にはなかった。

 書いていたはずの文字が消えている。


「消えるってあれか? 昔流行った時間が経つと消えるペンみたいなもんか?」


 スパイペン。幼い頃、そう呼んでいた。

 証拠を残さず、組織の仲間と隠れて文通をする。まさにスパイ。


「いや——これはそんな子供だましじゃない。本当に消えてるんだ」


 そもそも、洋子さんがそんなものを使うわけがない。


「そんなこと、ありえるのか?」


 漏れ出た声は酷く震えていた。

 手品の種を探すように考えを巡らせるが、納得が出来ない。

 ありのまま起こったことをいうのであれば。


「この世界から洋子さんの遺したものが消えてってるっていうのか」


 そんな超常的なもの、あるはずがないと叫びたいが、世の中わからないことだらけだ。

 ふと見渡せば、世の中にはたくさんの不思議が転がっている。これもその一つというだけなのだ。

 そういうものなんだと、受け入れるしかない。

 洋子さんに関するものが消えていく。だとするなら……洋子さんもいずれ泡のように、ぱんと弾けて……

 そこまで考え、俺は悪い考えを頭から追い出した。


「洋子さんはどこまで憶えてますか?」


 現状の把握。それが何よりも大切だ。


「……」


 洋子さんは言いずらそうにしていた。


「私は、もう自分が誰だかわからないんです」


 ようやく出てきた言葉は、絶望的なものだった。

 自分が誰かすらわからない。哲学的なものではなく、字面通りだ。

 氏名、住所、電話番号、親類、家族、友人、勤めていた会社、卒業した学校、取った資格……

 なにもかもを忘却の海に沈んでしまっていた。


「気づいたら、駅にいて。あの瞬間は体が勝手に動いたんです。頭で考えるより、先に……」


 記憶が完全に無くなる前の洋子さんの意思だろうか。

 

「私は……あなたとどのような間柄だったのでしょう?」


 洋子さんは俺が着ている制服に目をやる。


「高校生ですよね? まさか恋人ではあるまいでしょうし」


 洋子さんは上流階級の出なのだろうか。

 素に近づくほど言葉の端々から上品さが伺える。きっと体に染みついたものだ。


「恋人だったら、犯罪ですね」


「ええ。ですが、それでもいいと思ってる私がいます」


 どきりとした。

 高校生の娘を持つ洋子さんは年齢的に若くても三十代後半だろう。もう世間的には「おばさん」と呼ばれる年齢だ。しかしながら見た目だけで「この人、何歳に見える?」と聞かれると、「二十歳くらい?」と誰もが答える 


「えっと、本当の自分は年下がタイプだったとか?」


「……私のことを考えてくれるこれほど優しいお方が、近くにいてくれればと」


 ああ、そうか。そうだよな。不安だよな。

 これからどうすればいいかもわからないから、よりどころになってくれる人が欲しいんだ。


「ごめんなさい。変なことを口走ってしまって。あなたも嫌だったでしょう」


「いや、そんなことは……」


「――お母さん!」


 背後から大きな声がした。

 振り向くと、こちらに向かって髪をぶんぶん振り回して走ってくる人影が見えた。白い毛並み。間違いない、紫奈先輩だ。


「先輩」


「優斗っ!」


 実は駅のホームを出る前に紫奈先輩には連絡を入れておいたのだ。

 俺は紫奈先輩への連絡手段を持っていなかったから、洋子さんの携帯を使って。


「ありがとう! 優斗がいなかったら……」


 紫奈先輩は勢いそのままに、俺の体を包んだ。

 柔らかい感触がする。そして冷たかった。

 全力で走って、火照ってるはずなのに。

 ……いや、俺か。

 俺が、冷たいんだ。

 紫奈先輩は温かい。汗の匂いがする。でも嫌な臭いじゃない。


「お母さん心配したよ! お母さんの電話で、優斗から連絡があって……また事故になりかけたって……」

 

「っ」


 洋子さんは娘の存在に衝撃を受けていた。

 口に手を覆い、わなわなと肩を震わせる。

 

「洋子さんの娘です」


 もうわかってるだろうけど、念の為に告げた。


「、そんなことすらも」


 洋子さんは口惜し気に唇を噛む。

 よほど、娘を忘れてしまったことがショックだったらしい。


「紫奈先輩、お母さんのことですけど……」


「わかってる。もう忘れちゃってるんでしょ?」


「え?」


「お母さん、病院を抜けて出ちゃったの。優斗の電話を貰うまで近所を探してて」


「ああ」


 洋子さんはもともと行方がわからず、捜索中だったのか。

 紫奈先輩がこんなにも汗ばんでるのには理由があった。


「お母さん、帰ろう」


 紫奈先輩は未だに戸惑っている洋子さんの手をとった。

 二人の姿はまるで逆だ。洋子さんが迷子になった子供で、紫奈先輩はそれをみつけたお母さんだった。


「……先輩」


 俺は背中を向ける先輩を呼び止めた。


?」


 つい口から出た。

 洋子さんの健忘は、遺伝性のものじゃない。洋子さんの心の傷が生んだものだ。

 心の病気は遺伝しない。そんなの、わかりきってるはずなのに。

 俺は訊ねた。

 あれは……本当に心の病だろうか。

 オカルトに数えられるような現象だった。


「洋子さんのメモ帳の文字が消えてて……まるでその人が存在しなかったように……」


 言ってて怖かった。

 紫奈先輩はいつものような笑顔を浮かべる。

 けれども、いつもみたいに胸は満たされなかった。

 満たされない胸を不安が食いつぶしていく。


「優斗。じゃあね」


 紫奈先輩は帰り際、そう言って小さく手を振った。

 また明日とは言わなかった。

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