第二十五話 先輩と部活体験 ③


 時間が止まったかと錯覚した。

 時計の秒針の、かちこちと規則正しく動く音が、鼓膜に張りついた。


 オーブンから取り出したばかりの焼けたクッキーが、さっきより変に曲がっているように見えたのは、目の表面に溜まった涙のせいだ。

 視界がぼやける。声を出そうとすると、喉が強張って、胃の奥から嫌なものがこみ上げてくる。


「あまり事情は知らないが、引っ越すにしては急な話だな」


 隼也は、余分な折り目が一つもないきちっとした制服の襟を締めて、レンズの奥にある目を細めた。


「滋賀から東京への通学は現実的ではないし、学校を変えるということですか?」


「……まあ、そうなるね。私の体調を心配して、遠征はさせないだろうなあ」


 紫奈先輩は鼻をすすって言う。

 転校の二文字が頭で形となった。背筋が冷え込む。

 

「胡春先輩も引っ越すんですか?」


「ああそうか、二人は姉妹……なんだな。似てないが」


 隼也は苗字が同じ二人を交互に見て呟く。

 胡春先輩が紫奈先輩の妹だという話は二、三年生の間では常識らしいが、一年生の間ではまだ浸透していなかった。


「私とお父さんはこっちに残る。ついてっても意味ないどころか悪化するだけだし」


 洋子さんの「忘れる」原因に、新しい家族も関わってる疑いがある。

 ひとまずはこの不思議が起きる前に近い環境を作ってあげなければならない。


「紫奈先輩も残ればいいじゃないか」


 それがいい。そうしよう。

 紫奈先輩が引っ越したら、もう会える機会なんて……


「……会えないことはないでしょ?」


 俺の思考を読み取ったのか、胡春先輩が口を挟んだ。寒々しい空気を打ち破るように。


「東京から滋賀なんて、新幹線を利用すれば学生でもいける」


 日本の交通網は発展している。

 他県に引っ越してた友達に会いに行くのも、新幹線を利用すれば容易い。


「いかにも書記が言いそうな言葉だな。現実的に行けるかどうかの話じゃないだろ」


 隼也は同情的な視線を俺に向ける。

 胡春先輩も目を伏せた。


「いや……胡春先輩が正しい。会えないわけじゃない……はずなんだ」


 薄氷のようだった。口に出して空気に投げやっただけで、割れてしまいそうな言葉だ。


「優斗」


 紫奈先輩に会えない日のほうが多くなる。考えただけで胸が痛い。

 昼休み。白い毛並みの先輩とご飯を食べることができないと考えるだけで息が苦しかった。


「でも、先輩……俺は、」


 自分の気持ちに正直になる。

 そう決めたばかりだ。

 事情を知っていて、わがままを言う。これぐらい許してくれ。

 

「先輩には、この学校に居て欲しいです」


「私だって、この学校にいたいよ。せっかく……」


「屋上を私有化できるからですか?」


「優斗のいじわる」


 紫奈先輩は小さく舌を出した。

 俺は紫奈先輩節に固まった口角を少しだけ緩める。


「先輩と過ごす屋上の空間が好きでした」


 伸びやかに過ぎゆく時間に身を任せ、高所の風になびくのが心地よかった。

 なによりも、紫奈先輩が隣にいた。それだけで最高な空間だった。

 

「私も、屋上で優斗と出会ってからは楽しかった」


「だったら」


「でも―」


 紫奈先輩は続く言葉を遮断した。

 覚悟を決めた目をしている。


「私がいなかったら、お母さんはひとりぼっちになる」


「……っ」


「お母さん放っておけない。私が決めたことなの」


「そんなの、ずるいだろ」


 紫奈先輩は俺よりもずっとずるくて卑怯でいじわるだ。

 そんなこと言われたら、なにも言い返せなくなる。

 でも、ここで手を引いたら、先輩と俺を繋ぐ糸がぷちんと切れてしまいそうだった。


「……引越したら、先輩とはもう会えない気がするんです」

 

「……」


 紫奈先輩は否定せず、じっと俺の顔を見つめる。


「気のせいだよ、とは言ってくれないんですか?」


「ごめん」


 その短い言葉にすべてが詰まっていた。


「私は自分が思ってるよりも、ずっと、ずーっと優斗のことが好きだったみたい」


 矛盾しているとは言えなかった。

 俺もかつては同じことをした。……亜弥の為にと勝手に考え、亜弥から逃げていた。顔を合わせないように、家を出る時間や帰ってくる時間をずらした。


「優斗を悲しませたくない」


 わかる。その気持ちは痛いほどわかる。

 同時に、そんな自己満足な配慮をされた人の気持ちも痛いほどわかった。

 俺は亜弥に、こんな辛い思いをさせてたんだな。

 

「……クッキー」


 耐えかねた胡春先輩がそう言った。


「早く食べないと冷めちゃうよ。ほら、こういうのは焼き立てがいっちばん美味しいんだから!」


 俺たち二人の背中を押して、無理矢理にでも席に着かせようとする。

 俺は生まれたての子鹿みたいに足を引きずって席についた。精一杯の努力でなんとか楽しかった空気が戻るように促す。


「そうですね、冷めないうちに食べましょう。胡春先輩は持ち帰るんですよね?」


「うん」


 完全下校のチャイムが鳴る前に、俺たちはクッキーを食べて片づけをした。

 ほとんど作業みたいだった。一刻でも早く、この場を解散させたいがために、クッキーを無心で口に運んだ。

 味はわからなかった。



◇◇◇



 それからどんな経緯があって、帰路についたかはわからない。

 気づけば俺は夕暮れのホームに立っていた。

 最寄りにあるJRの駅は帰宅ラッシュの時間のせいで混雑していた。

 部活帰りの集団からぽつんと浮いた俺は、どんな顔で見られてるだろう。


「……先輩に伝えられなかったな」


 空気なんか読まずに、好きだと言えばよかったかも。

 そう後悔したが、こんな顔で告白はしたくないなと思い直す。


 ホームに流れるメロディが耳をつんざき、右目が眩い光に覆われる。

 顔を上げると、ホームの奥に見覚えのある顔があった。


「……洋子さん?」

 

 混雑した駅のホームの中でも、艶やかな髪と気品ある出たちは人目を惹く。


「っ」


 洋子さんの目は前に、線路の闇に注がれていた。

 一歩、また一歩、黄色の線を越え、ホームの淵に立つ。

 電車のヘッドライトに影が吸い込まれ……

 

「危ない!」


 俺は声を張り上げて、走った。

 金切り音を上げて、鉄の塊が目の前に迫る。

 咄嗟のことだった。あとコンマ数秒でも反応が遅れていたら、どっちも死んでいた。


 レールを削る音が響いた。電車が急停止する。幸いにも停車中の電車だったため、被害は最小限に済んだ。


 駅員が出てくる。まばらに賞賛の拍手が鳴った。もしこの事件が大きなものになれば、次の集会で学校から賞状を貰えることだろう。

 でも、そんなことはどうでもよかった。それよりも、


「なにしてるんだよっ!」


 怒りに震えていた。

 助けた手を潰さんばかりに握って、命の重みを伝える。

 命は一個だけだ。死んだらおしまいなんだ。


「あなたは……」


 洋子さんは俺を憶えていなかった。

 虚ろな顔で、ホームの黄色い線にぺたりと膝をつく。

 この時ばかりは顔を覚えられてなくてよかったと心底に思う。

 もし憶えていて、もし先に俺を見つけていたら、ここではない別の駅で……そうなると止められなかった。

 

「どうしてこんな真似をしたんだよ。あんたが死んだら紫奈先輩はどうなる。あんたなら、わかるはずだろ。自分だけが取り残される辛さを」


 堰を切ったように、俺は抜け殻みたいになっている洋子さんに言葉を浴びせた。

 空虚な俺の問いに、洋子さんはわななく唇を動かすばかりであった。

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