第二十二話 恋 ③
「またまた、兄さんが女の人を連れてる」
三回目ともなると、失望の念を隠そうともしなかった。
推薦説明会から解放された亜弥は、学生鞄を重そうに携え、渋い顔で二人を出迎えた。
学校から最寄りの駅で待ってると言われて急いで来たら、兄が友人を侍らすように連れているのだ。状況を理解できる人間であれば、誰だって非難の目を向けるだろう。
「今回のはなんの言い訳もできそうにないな」
「今回もじゃない? いっつも違う女をとっかえひっかえしてるじゃん」
その言葉を受けて、俺は困ったように視線を発車標に向けた。
次の電車まではあと五分ほど。それまでは、この空間に耐えなければならない。
「いつも違う女といるんですか? お兄さん」
「あ、いや……」
「二番目、三番目どころか、四番目すらいそうですねぇ。さっきはあんなにかっこいいこと言ってたのに、これじゃ示しがついてませんよー」
「いや、語弊があるぞ。亜弥が言ってるのはみんな友達だ」
「女友達ほど信用できる言葉はないんですよぉ」
俺は頬をかき、隣にいる聖良に視線をやった。
目尻を赤く腫れさせ、涙の跡でくしゃくしゃになった顔を晒していた聖良だったが、数分のお化粧直しで今はもう泣き顔の面影はない。
「ところで、二人とも。……なにか、あったの?」
もっとも、亜弥は気づいていたが。
亜弥は聖良の表情や声色だけで友人の異変を察して、なにがあったのかと訊ねる。
「なんにもないよ。ねーお兄さん」
「ああ」
聖良は亜弥の前で普段どおりの振る舞いをして見せる。
彼氏を奪った、奪われた関係にあった二人だが、今ではすっかり仲がいい。家で亜弥から学校の話を聞く機会があるが、聖良の名前はちょくちょく挙がる。嫌いな相手としてではなく、友人として。
「……女の子を泣かしといて、なにもないはないんじゃない?」
亜弥はすべてを悟っていた。
冷めた上目遣いで、俺を責める。
「亜弥ちゃん」
聖良は恥ずかしそうに亜弥の名前を呼んだ。
照れ隠しのつもりか、しきりに前髪をいじっている。
「聖良ちゃん、気づかないと思った?」
「……」
亜弥は鈍くはない。むしろ人間関係の機微には鋭い中学生だ。
妹だからだろうか。兄弟姉妹の一番下というのは、家族内の序列をよく見ているという話を聞いたことがある。兄妹の二人兄弟でもその傾向があらわれるのだろうか。
「実は、お兄さんにしっかりとフラれましてぇ。亜弥ちゃん慰めてー」
「はあ?」
ドスの効いた声。
亜弥は俺の足を強く踏んだ。
「兄さん、なんでそんな死体蹴りみたいなことするの? 聖良ちゃんがかわいそう」
「あ、それは私がもう一回、告白したからだよ」
間髪入れずに、聖良が答える。
亜弥はしばしの逡巡のあと、
「なんでまた……聖良はモテるのに、なんでコレにこだわるの?」
そう言って、俺の頬を突いた。
実の兄を『コレ』扱いとは、亜弥は将来きっと夫を尻に敷く女房に成長するだろう。
「そりゃあ、好きになっちゃいましたもん」
「そうなんだ」
亜弥はそれ以上はなにも言わなかった。
ただ、羨ましげに聖良の横顔を見つめるだけだった。
亜弥には恋人がいた。でも、恋をしていたようには見えなかった。今の俺ならそれがわかる。
「……まあ、二人が仲直りできたのなら、よかったけど」
「喧嘩別れしたわけじゃないからな」
「兄さんの嘘つき」
「嘘じゃない」
「そうだよぉ、亜弥ちゃん。『痴話』が足りないよ」
「痴話喧嘩って言うの?」
「いや、言わないと思う」
やりとりをしていると、発車標が切り替わった。
聖良はそれを見て、ホームに歩き出す。
「あ、私はこっちの電車だから。じゃあねー亜弥ちゃん」
「うん。じゃあね聖良ちゃん」
聖良とは駅の改札口で別れることになった。
ホームへ歩き去っていく聖良を見送って、俺たちも別のホームに足を運んだ。
「兄さん、すっきりした顔してる」
「腹に溜まってた一物を、全部水に流してきたからな」
「……汚い」
例え方があまりにも下品すぎて、亜弥はドン引きしていた。
並んでホームの黄色い線の手前に立つ。こうやって二人で並んで家に帰るのは、同じ中学に通っていた時ぶりだった。
「ちょっと背伸びたか?」
俺は亜弥にそう訊ねる。
たしか前に並んだときは、俺の肩に亜弥の頭がきていたような気がする。
「そうかな? 兄さんが縮んだんじゃない?」
「いや、この前測ったら二センチ伸びてた」
「あんまり伸びた感じないよ」
「亜弥も成長してるからな。最近になって下着のサイズも変わっただろ」
「なっ!」
「ただ、少しばかり身の丈にあってないな。大きい下着をつけても、形が崩れるだけで良いことはないぞ」
よく母親が息子の背を伸ばしたくて、大きめの服を買ったりするが、あんな迷信じみたものを亜弥は信じているようだった。
「……今度から洗濯物は別々にするから」
「それは勘弁してください」
洗濯の仕事が減って楽にはなるけど、それとは別に心の傷が。
ふと視線を感じて横を向くと、亜弥はこちらの顔をじっと見つめていた。
「……聖良ちゃんをフったんだよね?」
「ああ」
俺は短く首を縦に振った。
「紫奈さんが好きなんでしょ?」
「……ああ」
俺は深く頷いた。
好きだ。大好きだ。その感情を今まで押し込んできた。恋愛はトラウマだった。
ようやく俺は呪縛を解いた。二年近く苛まされ続けたそれは、足を一歩踏み出せば簡単に解ける、せいぜい固結びとしか言えないものだった。肩の荷が下りて、ようやく言える。俺は逃げてただけだったと。
難しい話じゃない。自分の気持ちに正直になればよかっただけだ。『好き』と『好きじゃない』を言うのに、何年も月日をかけ過ぎた。
「兄さん、ごめんなさい」
亜弥はぺこりと頭を下げた。
「私、兄さんに酷いこと言ったよね? 兄さんがいなければとか、もっと酷いことも……」
「あれは俺が悪かっただけだ。聖良にちゃんと向き合ってれば、聖良は引きずることなかったんだ」
それは今日の告白で確信した。
聖良は俺なんかよりずっと自分の気持ちと向き合うのが上手だった。
「俺は……人間関係を壊すのが怖かったんだ。亜弥の友人の告白を断れば、亜弥はどうなるかって考えて……でも、妹の友達をそういう対象には見れなくて……悩んでとった行動は最悪だった。亜弥の人間関係は崩れかけたし、告白の返事も曖昧になって……亜弥が怒るのも無理はない」
そう捲し立てると、亜弥は口を尖らせた。
「兄さんはズルいと思う」
「聖良も同じこと言ってたな」
俺はずるくて卑怯な人間だった。
相手が嫌がることばかりしていると、こんな浅ましい人間になるから気をつけた方がいい。
「……兄さん、もう無理してバイトしなくていいよ」
亜弥は俺の制服の袖を掴むと、互いの体温が伝わるところまで引っ張る。
肩同士がぶつかり、無意識に開いていた距離が埋まった。
「無理はしてないけどな。でも……」
アナウンスが鳴り、待ちわびた電車がホームに入ってくる。
「これからは、もう少し家にいることにしようかな」
「それがいいよ。そうしてほしい」
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