第二十一話 恋 ②
雨が止んだあと、渋谷駅で若菜と別れた俺は、亜弥が通う中学校に足を運んだ。
つい昨年まで、俺も通っていた母校でもある。
正門の前に立つと、懐かしいより、しっくりくる。三年間をこの校舎で過ごしたのだから当たり前か。
中学校は今通っている高校より古風だ。悪く言えばおんぼろ。
ただ、比較対象が悪いのであって、中学校も極端に汚いわけではない。築十数年の趣があるが、掃除は行き届いていている。
そんなふうに校舎を懐かしむように見て回ったのだが、今日の目的は校内見学ではない。ずっと先送りにしていた受験合格を報告しに来たのだ。
「最上、合格おめでとう。だが、ほとんどの生徒は三月か四月に報告に来たぞ。遅めの五月ボケか?」
三年生の時、担任だった先生は「俺のクラスじゃ、一番最後だ」と言っていた。でも、嬉しそうな顔をしていた。
担任と、顔見知りの先生に挨拶して回り、職員室をあとにしたところで後ろから声がかかった。
「あれぇ、お兄さんじゃないですかー?」
今はちょうど学校が終わって放課になる時間であり、見慣れない俺を不信がりながらも多くの生徒はその横を通り過ぎていく。そんな下校する学生の集団の中に、一人、俺を知っている女子がいた。
忘れもしない。亜弥の友人であり、亜弥から彼氏を奪った女だ。名前は
甘ったるい声色と、甘い顔。男子の庇護欲をそそる小柄な背丈で、一軍女子の中心人物だ。
中学三年になって化粧をするようになって色香が増した聖良は、もう子供には見えなかった。
高校生どころか、私服なら大学生と言われても信じてしまいそうだ。それぐらい化粧が肌に自然と馴染んでる。
「この人誰? 彼氏?」
取り巻きの女子がきゃあきゃあと声を挙げる。
通学路が途端に姦しくなった。一軍だけあって、揃いも揃って可愛い女子たちだが、まだ垢抜けない子供っぽさがある。そう思うと、聖良は頭ひとつ抜けて「美人」と言える。
「朝高の制服だ。高校生じゃん」
「大人っぽい。聖良ちゃんの彼氏?」
高校の制服を着ている俺は彼女らからすれば、大人に見えるようだ。
聖良は昔から変わらない馴れ馴れしさで俺に抱き着くと、
「私の大好きな人〜」
それでまた、女子がきゃあきゃあ鳴く。
「おい」
「って言うのは、ほんとなんだけどー。亜弥ちゃんのお兄さんだよ」
おどけた聖良が、今度は亜弥の名前を出すと、
「亜弥ちゃんの?」
「似てないー」
「目が似てるよ」
と様々な反応が返ってきた。
好き勝手に言われているが、俺は生まれてこのかた妹と似ていると一度だって言われたことがない。
一度、両親に「亜弥は本当に俺の妹か」と訊ねたことがあるくらいだ。俺は母さん似の面和らげな顔に、父さんの腰の低い性格を受け継いだ。
お世辞にも美男子とは言えないが、それなりに二人から受け継いだ特徴を愛してはいる。
だが、亜弥は両親のどこも受け継いだと言えない美人だ。なんなら、それで母が不倫を疑われたぐらいである。
「亜弥と俺は似てないと思うぞ。亜弥は美人さんだからな」
「えーお兄さんもかっこいいとですよぉ」
「あのな……」
「あーなるほどー、みんなの前では恥ずかしいんですね」
聖良はぎこちない俺の様子を、そう解釈したみたいだ。わざとらしく、聖良は俺の手を胸元にもっていき、意味深に言う。
「みんな、私はお兄さんと熱ーいひとときを過ごすから、今日はここでばいばい」
「きゃー! 聖良ちゃん!」
「ホテル行くの!?」
「大人ー!」
取り巻きの女子は一段と姦しい声を挙げて、逃げるように走り去っていった。
放課後の、木漏れ日が廊下を淡く輝かせている。しんと静まり返って、一言。
「さて、二人きりになりましたが、どうしましょうか」
「いや、『どうしましょうか』じゃないが」
とんでもない勘違いをされたとこだぞ。
これから俺たちは大人の階段を上がるのだと誤解されてしまった。亜弥の耳に入ったら、どうなることか。
「亜弥ちゃんのこと、考えてます?」
「どうしてわかった?」
「お兄さんが考えることなんか、少なすぎてわかっちゃいます」
「そうかな」
俺ってそんなわかりやすいか?
「お兄さん、亜弥ちゃんなら今日は推薦の説明会で遅くなりますよ」
「知ってる。亜弥のことで知らないことはない」
「うわーシスコンだ。シスコンがここにいまーす」
誰も居ない廊下で助かった。
中学校で変態シスコンが出没とか、下手をすれば警察沙汰だ。
「ねーお兄さん。説明会はまだ終わりませんし、それまでデートしませんか?」
「ああ、いいよ」
「……へ、ほんとにいいんですか? 私のこと嫌いなんじゃないの?」
「お前のことは昔から嫌いじゃない」
「お兄さんってば、だから大好きなんですよ。もう」
聖良は調子づいて言う。
俺に嫌悪感がないと知ってからはこんな甘えた仕草を見せてくる。初見なら俺も甘い顔をしたのだろうが、彼女の本性は知っている。
「お前、ほんとにそういうとこだぞ」
「前みたいに聖良って呼んでくださいよ」
「それとこれとは別だ。折り合いはつけたが、まだ忘れたわけじゃない」
俺は固く目を瞑る。
思い出すのは、泣きじゃくる妹の顔。
―兄さんなんかいなくなれ! 何度も言われた。酷いときには死んじゃえとも言われた。
俺と、亜弥が今のように兄弟をやれているのは、割と最近になってからの話。それまでは一切口を聞いてもらえなかった。
そのことを思い出し、きつく唇を結んだ。
◇◇◇
九条聖良としたのは、軽いショッピングだった。
渋谷のセンター街にあるブティックで、流行の新作ファッションを見て回ることになった。
「お兄さんは、どの服が似合ってると思いますか?」
試着室で代わる代わる服を着てみて、俺に訊ねてくる。
一回の試着で上下二十枚は試しただろうか。記憶力がいいと自負する俺も最後から五着くらいしか覚えてない。というか、ほとんどの服が似たような雰囲気で記憶に残らなかった。
「上はさっきのオフショルがあざといが一番好みだった。下はロングスカートがいいな」
俺には服のセンスが皆無だ。
だが、聖良は生粋の今どき女子だ。そんな聖良が選んだ服ならどうせなんでも似合ってるだろう。
聖良は俺が好みだと言ったファッションを着こなして、あざとい笑顔を浮かべる。
「どうですかーお兄さん? 私、将来性抜群じゃないですか?」
「おう。太ももの肉も順調に育ってるな。前より太い」
「太ももは大きくないです。これが平均です」
聖良はそう弁解しつつも、ハーフジーンズから露出している太ももをさっと手で覆い隠した。
「そうか? 甘いもんばっか食べて肉がそっちいったんじゃないか?」
「む、ちゃんと運動してますー」
「体重計に乗ったらわかるぞ」
「サイテー。女の子に言っていいことの下から二番目にサイアク」
下から二番目なのに、最悪なのか。矛盾してないか、それ。あと、どこかで聞いたことあるぞ。
「一番目は臭いか?」
「当たり前」
どうやら女子の共通認識らしい。
「聖良は買ったばかりの服のいい匂いするから、そっちは問題ないな」
「私自身もいい匂いですけどー。ほら、嗅いでくださいよ」
「女子中学生の匂いだ」
「その感想はキモいです。お兄さん」
聖良は俺から逃げるように更衣室のカーテンをしゃっとしめる。
それから顔だけをカーテンからすっぽりと出し、
「ようやく聖良って呼んでくれましたね」
「いいから、制服に着替えろ」
「あー、肩にブラの線がないの気になりますー?」
聖良はオフショルの服を着たときのような、剥き出しの肩を見せびらかしてくすくすと笑う。
男を手玉に取るような振る舞いだ。
「実は、カーテンの向こうでは裸でーす」
「っぶ」
俺は思わず、噴き出した。
慌てて目を塞ぐ。
「あっはは! お兄さん! わっかりやすい!」
「高校生をからかうのはやめろ!」
「だって、お兄さんってば面白いんだもん」
買い物を終えたあと、聖良はフードコートでSNSの更新をしたいと言った。
小一時間歩き回って疲れたので、この休憩時間はありがたい。俺は紙コップに水を汲んできて、一気に飲み干した。
「今日は彼ぴとデート、可愛い服いっぱい買っちゃった。彼ぴも沢山褒めてくれた」
「虚言がすぎる。デートはいいとして、あと服も問題ないが、俺は聖良の彼氏になった覚えはない」
「彼氏はちょおっと脚色かもしれませんね。今はまだ」
聖良は意味ありげにそう言って、携帯に視線を落とす。
なにやら緊張しているようだった。何度か呼吸を整えている様子が垣間見える。
「お兄さん」
「ん?」
「私と付き合ってください」
突然の告白。
しかも、公衆の目がある中で。
大胆すぎる女子中学生の行動に、思わず固まってしまった。
「やっぱり、私はお兄さんがいいんです。他の男じゃこれっぽっちも満足しませんでした」
聖良は、あの日から一度たりとも諦めてはいなかった。最初に話した時から、底知れぬ執念深さを感じていたが、男に対してもそうなのか。
「お兄さんがこの性格嫌いって言うなら直します。もう、男をとっかえひっかえするような真似はしませんし、お兄さんのために初めてはとってあります。ちゅーもまだです」
聖良は意外にも純情であった。
真摯な言葉遣いは、それが真実であると裏付けているようだ。少なくとも俺は嘘に聞こえなかった。
「亜弥ちゃんのことは反省してます。まだ謝り足りないって言うなら、お兄さんの前でしっかり謝ります」
「何度も言うが、亜弥が許してるんだ。俺がとやかく言う筋合いはない」
「その言い方、大人げないです。ズルいと思いますー」
そうだな。この言い方は大人げない。
俺が許すと言わないかぎり、聖良の内にあるもやもやは晴れることはないだろう。
それを知ってのこの言い方は、意地が悪い。
「俺も、もうあのことは気にしてない」
俺は自分の口で、そう告げた。
そして、
「そのうえで言わせてもらう。俺は好きな人がいるんだ」
息を呑む声が聞こえた。それが俺だったのか聖良だったのかはっきりしなかった。
言えることはただ一つだけ、聖良の目の色が変わった。
なんで、どうして、と瞳が訴えかけている。唇が固く結んで、呼吸を吐くたびに、柔らかくほどける。
今日の俺は先送りしてばっかな自分の負債を返しに来た。
高校の合格報告。そして、あの日は出せなかった答え。
……俺には、好きな人がいる。そう、恋をしてる相手だ。
口に出すと、驚くほどその言葉は自然に胸の中に溶け込んでいった。
パズルのピースが埋まったみたいな充足感と、高揚感。胸の内側を爪で掻き立てられてるみたいな痛み。
充足感に満ち、胸が高鳴る痛み。これが恋の正体だった。
「前回の告白ははぐらかして悪かった。ちゃんと言うよ。俺は、お前とは付き合えない」
聖良とは付き合えない。俺はずっと避けていた過去に答えを出した。
俺は、聖良が好きじゃない。……というと語弊がある。日本語は不自由だ。
俺は、聖良に恋愛してない。これがしっくりくる。
そして俺は、紫奈先輩が好きだ。恋愛してる。
紫奈先輩と、ずっと一緒にいたい。何年後も、何十年後も。そう思っている。
今、芽生えた感情ではない。もっと、ずっと前からあって、今日気づいた感情だ。
「……その女の名前、教えてください」
聖良はおどけた口調ではなく、
聖良からしたら全くの他人なので、言うべきか迷っていると、痺れを切らした聖良が再び訊ねる。
「いないんじゃないですか」
「いる。名前は」
「いないって、言ってくださいよ!」
悲痛な叫びに、フードコートが静まり返った。
石を投げた後の湖面みたいに、声が反響して、揺れる。
「聖良、泣いてるのか?」
聖良の頬は濡れていた。
自分でも気づいていなかったみたいで、聖良は頬を軽く撫でて、自分が泣いているとようやく気づいたみたいだ。
気づいてからの反応は、顕著なものだった。
「ひっぐ……だってぇ、人生で男からフラれたのなんか……はじめてでぇ」
しゃくりあげるような声で、訴える。
公衆の面前で可愛い女の子が大泣きするものだから、周囲の責め立てるような視線が俺に行く。
「え、あ、いや……」
途端に俺が悪者になった。
「人生で初めての本気だったのにぃ」
目に涙を湛え、零れ落ちる。
ぐしぐしと目を擦り、赤ちゃんみたいに拳を硬く結んで引く。
「ごめっ、あの、俺も真剣に悩んだんだ。本当だ」
もし、あの時にデートしていれば、また違った答えを出していたのかもしれない。
でも、今の俺は紫奈先輩が好きだ。その気持ちに嘘はつけない。
「昔から聖良は妹の友達で、後輩だ」
「後輩扱いでも、いいです。いつか絶対に振り向かせるし」
「それは恋じゃないんだ。そう教えて貰った」
「なんですかそれ」
聖良は鼻を啜って、赤らんだ目を向ける。
涙は止んでいた。だけど、まだ納得はしていない様子だ。
「お兄さんは、その人と付き合える自信があるんですか?」
「付き合えるかどうかで言うなら、可能性は低いかもな」
「だったら、玉砕したら、私と付き合ってくれませんか?」
「それは聖良に失礼だ」
「失礼でも、なんでもいいですよ。一番の代わりの、二番目でも、なんなら三番目でも。私」
「そう思ってくれるのは嬉しいけど、これは俺のけじめだ。二番も三番もいない。そして俺の一番は……もういるんだ」
決意は変わらない。
たとえ、惨めに玉砕しようと、俺の「恋愛してる」は変わらない。
「私のほうがきっと可愛いですよ」
「……たしかに聖良も俺にはもったいない美人だ」
「後悔しても、遅いですよ」
「その時になったら、俺を散々に笑ってくれ。惨めになるくらい」
「わかりました。お兄さんが、そう言うなら」
聖良は納得したのか、立ち上がった。
見切りをつけるたのかと思いきや、頑な態度でこう宣言する。
「でも、私、絶対に諦めませんから」
聖良は鼻をずずっと啜って、失恋から早くも立ち直っていた。
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