第二十話 恋 ①

 五月二十二日。月曜日。


 朝の天気予報では、大型の低気圧が発達し、この一週間は雨模様になるとのことだった。

 今日から高校生になって初めての定期試験が始まる。試験は五日にかけて行われ、その五日は午前で完全下校となる。


 そのため、屋上は使えない。紫奈先輩とは五日間会えないことになる。

 ……だから、どうしたのだ。たったの五日間だ。五月のゴールデンウイークの時だって、紫奈先輩とは会えなかったじゃないか。それと何が違うと言うのだ。


 一緒にお泊まりしたから? 風邪の看病をしたから? 家の事情に、踏み込んでしまったから?

 不安がふつふつと弱火にあてられ、沸騰していくみたいだった。


 ―もしかしたら……今日で最後になるかもしれないし。


 その言葉がずっと頭で反芻している。

 生暖かい曇り空が、まるで嵐の前の静けさみたいで、おどろおどろしい。

 玄関も、廊下も、普段は騒がしい教室内も、今日は静かだった。

 聞こえてくる声は参考書を捲る音か、カリカリとシャープペンシルをノートに打ち付ける音。まだ試験開始の時間じゃないのに、お腹が痛くなってきた。


「浮かない顔だな」


 隼也は一心不乱な他の生徒と違って、堂に入っていた。

 試験を放棄したのかと言えば、そうではなさそうだ。レンズ越しに見える目の奥には自信が宿ってる。


「昨日はあんまり寝れなくて……」


「勉強か? 最後はもう自分を信じて寝たらいいぞ」


「あーまあ、試験もそうだけど……」


 俺は歯切れを悪くし、目を横に流す。

 昨日は試験勉強で夜の遅くまで起きていたのは事実だが、眠れないもどかしさを紛らわせるためであった。


「試験以外のことを考えるなんて余裕だな」


「余裕じゃないから、困ってるんだよ」


 俺は熱っぽい溜息を漏らす。試験が始まる直前だが、ラストスパートをかける気にもならない。


「恋でもしたか?」


「……なんだよ。藪から棒だな」


 俺のため息を聞いて、隼也は眼鏡をクイと上げ、邪推を入れた。

 堅物の隼也から恋なんて浮ついた単語が出てくるなんて。


「優斗が考えることなんて、どうせ白川先輩のことだろ」


「今回ばっかりは図星なんで否定できないな」


 聞いてみるべきか、悩む。


 他人と俺とで、もしかしたら紫奈先輩の見え方が違ってるんじゃないか。


 そんなことを素面で言ったら茶化されるか、真剣に眼科を勧められる。

 でも、隼也なら大丈夫か。俺はわずかに逡巡して、そう結論を出した。


「……先輩のことだけど、隼也から見てどんな印象だ?」


「美人だけど、付き合いたい美人ではないな」


 返ってきたのは、やはり隼也らしい筋が通った真っ直ぐな答え。

 客観的な評価と自分の意思をしっかりと一つの文脈にまとめてある。女子からモテる物言いだ。


「趣味が合わないとかか」


「観賞用の生花みたいなもんだろ。ガラスケースの中に飾って見てるぶんにはいいが、自分の手元に置くとなると持て余す」


「観賞用の生け花みたいなもんか」


 例えとしては非常に明快であった。

 美しいと思えど、花に恋はしないと。


「まさか、僕が横恋慕してるとでも言いたいのか? それは心外だぞ」


「いや……違くて、他人から先輩がどう見えるか気になっただけだよ。先輩は色んな人から好意を受けてる反面、女子とか一部の生徒からは嫌われてるんでしょ?」


 胡春先輩も紫奈先輩に苦手意識があったみたいだ。あれは紫奈先輩に対する逆恨みな気はするけど。


「ああ、そっちか。てっきり、お前が僕を恋敵だと思って、探り入れてるんじゃないかと思ったぞ」


「飛躍しすぎじゃね? いくら好きでも、そんな浅ましいことするか?」


「わかんないぞ。恋は盲目って言うしな」


 そもそも恋してないと言おうとしたが、本筋から外れそうなのでやめておいた。


「で、その噂なんだけど、自分が傷つかないための処世術なんじゃないかって思ったんだ」


「ほう」


 隼也は肯定も否定もせず、あごの下を摩る。


「上級生から聞いたんだが、先輩は体が弱くて、学校に来ない日だって多いらしい。それでも頭良いから授業とかは問題ないらしいけど、班活動とか、グループ活動みたいなのはあんまりついていけてないらしい。ようするに教室からハブかれてる」


 中学も、高校も、学校は変わんない。狭い箱の中に窮屈なほどの人間関係があって、ルールがある。

 紫奈先輩は生まれつき体が弱いせいで、そういう「特別扱い」みたいな風潮があったのかも。

 

「だから、やけになって人間関係リセット症候群にでもなったって優斗は言いたいのか?」


「……怖いんじゃないかな。誰かから忘れられるのが。だから、人と踏み込んで繋がれない。誰かと深く関わるのを忌避してるんだ」


 紫奈先輩は、誰よりも忘れられる恐ろしさを知っている。

 中学のとき、入院明けに学校に行ったら、自分の居場所がなくなってたらしい。

 健忘症候群になったお母さんからは、日記を開かないと名前すら呼んで貰えないそうだ。

 紫奈先輩は忘れられてばかりで、それがもう嫌になったんじゃないのか。


「あのな」


 隼也は頬杖をついて、呆れた声で言う。


「そんな好きなら、もう告白しろよ。僕の見立てじゃ、たぶんOK貰える」


「いや、好きとかそういうんじゃ……というか、俺と先輩が付き合ってるのなんか根も葉もないデマだよ」


「根も葉もないわけないだろ。ただのお気に入りなら、白川先輩の彼氏とか騒がれねーよ。『今回は最長記録更新だな』ってなるだけだ」


 隼也は理解してない俺にそう説明する。

 おかげで、俺は根本的に考え方が間違っていたことに気づきはじめた。


「お前が白川先輩と仲良くしてた期間もまだ一か月くらいだろ? しかも、お前らが話してるところを目撃されてるのは、昼休みの屋上だけだ」


「信じられないくらい長かったから、疑われたんじゃないの?」


「……まったくもって見当違いだ。優斗は観察眼あるくせに自分のこととなると途端に疎いな」


 隼也は俺の見当違いだった考えをバッサリと切り捨てた。


「上級性も、僕たち下級生も、みんなこぞって白川先輩にお前との関係を訊ねて、それで付き合ってるって確信したんだよ」


「どないして?」


 謎に方言を使って、俺は訊ねる。

 隼也は深く、それはもう、深く溜息をついた。

 なんでこいつはわかんないんだよと言いたげに。


「無自覚なやつらだな。ちなみに、お前と白川先輩のどっちもに言ってる」


 隼也はそう言って、自分の席に戻る。

 気づけば、試験が始まる五分前だった。

 俺はいったん、自分の胸で燻るものの正体を探るのをやめた。



◇◇◇



「最上さん、試験の出来栄えが悪かったんですか?」


 若菜が訊ねる。

 四日目までの試験が終わり、学校帰りの「銘露」。俺は最終日の試験に備え、生物の教科書を開いていた。

 ちなみに今日もバイトは休みだ。テスト期間中はバイト禁止という校則があるため、俺たちは普通にお客さんとして店にお邪魔している。


「そんな悪い点取りそうに見える?」


 マスター手製のコーヒーを啜って、俺は溜息と共にそう訊ねる。


「燃えカスになった線香みたいです」


 若菜は俺の真正面に座り、こちらはカフェオレをくぴくぴ飲んでいる。

 

「試験そのものは万事問題ないはずだ。回答欄が一個ズレてたとかないかぎりな。最初の中間試験なだけあって、ほぼ基礎の問題ばっかだ」


 中間試験の出来はというと、我ながらかなり自信がある。

 普段は基礎だけできて、文章題で躓くのがオチなのだが、今回はその文章題が小学生レベルの読解力しか必要とせず、苦手な国語すら七十点は取れてるはず。たぶん。


「だったら、もっと嬉しそうにしてください。こっちのカフェオレまでまずくなります」


「俺のコーヒーは美味いぞ。一口飲むか?」


「砂糖とミルクを入れていいなら」


「じゃあ、ダメだ。若菜はいつも砂糖だまりが底にできるくらい一杯入れるだろ」


「じゃないと苦くて飲めませんよっ! コーヒーなんか」


「飲めるだろ。むしろ、甘ったるいほうが気持ち悪いし」


「最上さんはパンケーキをそのまま食べてればいいです!」


 なんでそう、極端な話になる。

 ちなみにパンケーキにはメープルシロップとバターがマストだ。


「試験のことだが……」


 俺はコーヒーに砂糖をそれぐらい入れるか論争を一旦やめ、試験の話に戻る。


「若菜こそ、俺がいなくて大丈夫だったか?」


「こっちは一週間前に終わって、もうテスト返しが始まってます」


「どうだった?」


「どの教科も平均くらいです。はい」


「中学の時みたいに0点とらなくてよかったな」


「ちゅ、中学の話は忘れてください!」


 俺は深々と椅子の背もたれに背中を預け、窓の外を見た。

 ぽつぽつと小雨が降って、雨音がかすかな音色を奏でている。店内のクラシックと溶け合い、意識を緩慢にさせる。欠伸が漏れた。

 しばらくは外に出れないな。次第に水煙が立ち込める外の景色を見て思った。


「先輩、昼なに食べてるんだろうな」


 俺はこの四日間、放課後になるとそのことばかり考えている。今頃、紫奈先輩は何をしてるのだろうな、と。

 テストが終わったのだから、当然、学校は出ているはずだ。完全下校なので、どんな理由があっても校内には残れない。

 校舎の横に併設された図書室か、或いは俺と同じように喫茶店で勉強しているのだろうか。


「せめて、ジャンクフードとか冷凍食品じゃなくて温かいものを食べてればいいんだが」


 俺はガラス窓に投げかける。息がかかり、窓は白く曇った。


「最上さんは」


「若菜、今日はバイトが休みだ」


 俺は「最上さん」呼びを訂正をさせる。

 あくまでバイト中の先輩後輩の関係だ。

 まあ家に来たときも、若菜は「最上さん」と言っていたのだが、あの時は注意するほどの元気がなかったからノーカウントだ。


「優斗君は、高校に入学してから変です。具体的には……」


 若菜は言いずらそうに体をもじもじと揺らす。

 幼馴染の間柄でも、口に出すのは憚る無粋なことらしい。


「恋してるみたいです」


「恋ねえ」


 信じられなかった。だが、信じられないの一点張りは現実逃避でしかない。信じるに足る人物二人を軽んじてるとも言う。


「……俺は、恋をしているのか」


 俺にとって恋は忌々しい苦い味だ。ここのコーヒーよりずっと。


「俺は、恋愛がトラウマだ。それで一度、大きな失敗をしている」


「亜弥ちゃんのことは、優斗君はなにも悪くないです」


 中学が同じ若菜は、言わなくとも俺がなんのことを指して言っているか気づいたみたいだ。口をへの字に曲げ、眉を寄せる。


「いっそのこと、付き合ってればよかったとは思ってる。可愛かったし」


「そんなの恋じゃないです」


「じゃあ、なにが恋なんだ?」


「今の優斗君が一番わかってるはずです。わからないんですか?」


 この気持ちが恋心なのか、恋をしたことのない俺には、わからなかった。

 恋をするってなんだろうか。そもそも恋とはなんぞや。


 人を好きになることはある。でも、ライクとラブは決定的に違うらしい。俺は亜弥も若菜も好きだが、恋愛感情とはまた別のものだ。そもそも幼馴染の若菜はともかく、亜弥は犯罪だ。


 まだ胡春先輩の方がラブに近いだろうか。

 ただ、あの人に対する感情はそれこそ隼也が紫奈先輩に抱いていた感情と同じだ。

 美人だし、スタイルも良くて、エッチなことはしたいと思う。そういう妄想はベッドの中でいくらでもした。

 けれど、恋とは違うと思う。胡春先輩と話してても胸がドキドキしない。


「……俺は自分の気持ちすら、わかんなかったんだな」


 そりゃあ、紫奈先輩のことなんかわかるはずがない。

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