第十九話 不穏な幕間

 部外者の俺は事の顛末を翌日に知らされた。

 洋子さんが無事で安心したが、また別の問題が浮上してしまったみたいで、他人事ながら頭を抱えたくなる。


「とにかく、まずは洋子さんが無事でよかったです」


 俺は形ながらの総評をした。


「事故で病院って聞いて、危篤状態かと思いましたよ」


 無事でよかった。

 俺は昨日から気が気でならなかった。ずっと洋子さんを案じていた。

 ひとまずは命が助かったことを喜ぼう。

 しかし、家庭内の問題はなにも解決してない。それどころか悪化している。

 最悪の結果を避けた代償として残ったのは、ずたずたに引き裂かれた家族の関係だった。


「お医者さんも絆創膏一つで十分って言ってたから、それはよかったんだけど……」


「家庭のほうが心配ですか?」


「うん」


「……胡春先輩もお母さんの大変さに理解を示してくれればいいんですが」


 思春期真っただ中の高校生は、なかなか素直になれない。

 胡春先輩だって、本当は怒鳴りたかったわけじゃないだろう。

 心配してたはずだ。それを言葉にして伝えることができなくて、あんな態度をとったんだと思う。


「……胡春ちゃんの気持ちも、わかるんだ」


 紫奈先輩は屋上のペントハウスに背中を預けて、トンカツとキャベツの千切りを挟んだトーストを齧りながら呟く。今日はいつもより紫奈先輩の食べるペースが遅かった。


「そりゃ怒りたくもなるよ。だってさ、お母さんが自分のことを忘れるんだよ?」


「想像できません。したくありません」 


「……うん。実際、当人だから言えるけど、悲しいし、やるせない。しかも病気って言うんだから尚更だよ。なにに怒ればいいかわかんなくなる」


 ただ物忘れが激しいだけなら、文句はいくらでも言える。

 でも、努力でどうにかなるのを超越したのが病なのだ。どんな人間も寿命と病気には勝てない。


「神様に怒りますね。俺なら」


「神様に向かって、『コラーっ! なんでそんな意地悪すんの!?』 って言えればいいんだけどね。神様は目に見えないからね。空気を殴るみたいなもんだよ」


「虚しいですね」


「むなしい」


 手ごたえがないものを殴るのは、きっとなにをするより虚しいものだ。


「先輩は、お母さんのアルツハイマー……いや健忘症候群は離婚の原因だったと言ってましたよね?」


「うん。どうかした?」


「それ、解釈の余地があるんじゃないですか?」


 洋子さんの病気がアルツハイマーでなかったのなら、前提条件も見直してみるべきだ。


「解釈の違いっていうと?」


「おそらく順序が違うんじゃないですか? 健忘症候群は離婚のきっかけに過ぎなかった。もともと健忘症候群を発症するくらい夫婦仲には問題があった、とか」


 そっちのほうがしっくりくる。

 胡春先輩が指摘したらしい、『離婚』が原因だという説を発展させたものだ。

 俺はプチトマトのへたをくるくる指で捏ねつつ、推理を披露した。


「ほとんど正解を言ってるようなもんだよ」


 紫奈先輩は残ったサンドを一口で頬張る。

 ゆっくり時間をかけて、咀嚼した。


「……お父さんに浮気されてたんだ」


「それは忘れたくもなりますね」


「うん、まあね」


 紫奈先輩は微妙な顔をする。

 

「お父さんが浮気してるのを知ったのも死ぬほど悲しかったはず。……でも、きっとそこじゃない」


「そこじゃない?」


 俺は再度、紫奈先輩に訊ねた。

 紫奈先輩は答えず、沈黙が続いた。

 俺は居心地が悪くなって、屋上の転落防止策を眺める。緑のラインが、空と灰色の床に境界を作っていた。

 俺たち人間は空を飛べない。当たり前だ。

 でも、たまに空を飛ぼうとする人がいるらしい。


「あ、そうだ。部活の件はどう?」


 紫奈先輩は話題を露骨に切り替える。

 あまりに露骨すぎて、ぎこちなさが際立ったが、それでも渡りに船だった。


「部員の一人は確保しました。あと一人もあてがあります」


「え、ほんと!?」


 紫奈先輩は顔を上げて、喜色を露わにする。


「クラスメイトの一人がフリーで……もう一人はまだ確定ではないですけど、たぶん前向きに検討してくれるとは思います」


「超ツイてるじゃん! 神社にでも行ったの?」


「……幸運を呼ぶ猫が近くにいるので、そのせいかと」


「いいなー! 私も見たい!」


「鏡でも見たらどうですか?」


「え?」


 紫奈先輩はきょとんとした顔で言う。その猫が自分だと気づいてなかった。


「白川紫奈は幸運を呼ぶ」


「あー! ……って、優斗は私を猫扱いしすぎ」


 紫奈先輩は不満げに俺の頬を抓る。


「いふぁいれす」


「ちょっとは反省した?」


「ふぁい」


「よろしい」


 ようやく手を離してくれた。

 じくじく痛む頬を押さえる俺をよそに、紫奈先輩は小さく、それこそ神社でお参りするときのように。


「……よかった。部活はなんとか作れそう」


「そんなに屋上を自分のものにしたいんですか?」


 そう言うと、先輩は拗ねた。


「優斗と形に残る思い出を作りたいの」


 紫奈先輩は男を惑わすような台詞をごく自然に言ってのけたので、思わず頬が紅潮する。

 ただ次の言葉で、俺は心臓が止まりかけた。


「……もう会えなくなるし」


「え?」


「ほら、明日からは試験でしょ? 試験の日は午前で学校終わるじゃん」


「あ、ああ……そうですね」 


 首肯しつつも、俺は拭えない違和感を抱いた。まるで、最後のお別れみたいな。

 それからは明るい話に切り替えられてしまったせいで、問いただす機会を失ってしまった。

 釈然としないまま、その日の昼休みは終わりを告げた。



◇◇◇



 紫奈先輩とはいつも通り屋上で別れて、俺は教室に戻る。

 校内もだいたい把握した。移動教室があっても『ここってどの教室だっけ?』と迷い、他の人についていくことが無くなった。

 教室に入ると、ほとんどの生徒が試験に向けて勉強していた。

 課題が終わってないのか、答えを見ながら必死にシャーペンをノートに走らせている人もいる。

 俺は欠伸をして、教科書を何気なく開いた。

 すると、


「ねえ」


 机の前に立って、誰かが俺を呼ぶ。

 顔を上げると、形のい鼻と、煽情的な唇。そして猛禽類のような目があった。

 息がかかる距離に胡春先輩は立っていて、焦っていた。授業がもう始まるから、早く二年生棟に戻らないといけないからだろう。


「あんた、紫奈さんの彼氏なんでしょ?」


「……違います」


 教室の目が一斉にこちらに向いたのがわかった。

 上級生が下級生の教室を訪れることは滅多にない。ましてや相手は生徒会の書記だ。

 また「紫奈さんの彼氏」発言も大問題であった。まことしやかに囁かれていた白川紫奈が一年男子と付き合っているという噂に信憑性を与えることになる。


「はあ? 付き合ってもないのに、家に来てたの?」

 

 こちらを伺う目が『興味』から『殺意に変わった』。

 俺はがたんと椅子をお尻で突き飛ばし、立ち上がった。

 花の茎のような胡春先輩の手を引いて、廊下に出る。


「ちょ、どこ行くの?」


「ついてきてください」


「五限目もうなんだけど!」


「先に話しかけてきたのは胡春先輩です!」


 下を覗けば一階のホールが見える吹きさらしの廊下を歩き、階段を降りる。

 非常用扉の前で止まり、俺は胡春先輩に向き直った。


「教室内であんなこと言わないでください」


「なんで?」


「クラスの男子に、目線だけで殺されそうでした」


「大袈裟じゃない?」


「そんくらい、危ない状況だったんですよ」


「ごめん」


 弱気な胡春先輩。

 昨日のことで、よほど気落ちしているようだ。

 前までは恐ろしいほどに型に嵌まっていた生徒会、書記も今では頼りなく見える。

 生徒会だけが身につけられる腕章も今はみすぼらしい。


「いったい何の用ですか?」


「用ってわけじゃない。ただ彼氏なのか聞いただけ」


「わざわざ、昼休みが終わるギリギリに教室に来てですか?」


「だって、教室行ったけどいなかったし」


「昼休みは屋上にいるんです。探してください」


「なんで私がそんな手間かけないといけないの?」


「用があるなら、出向くのが常識じゃないですか?」


「私は先輩」


 先輩は会社で言う上司とはまた違うんですよ。

 ただ年齢を一つ重ねただけだ。俺と同じ学生。

 

「胡春先輩」


「なに」


「洋子さんに謝るなら早いほうがいいですよ」


「うざ」


 見透かされた胡春先輩は、返事の代わりに悪態をついた。


「できたら苦労してないし」


「ふつーに謝ればいいじゃん」


「できたら苦労しないし。そんなのもわからないの?」


「同じ家に住んでるのに、できないんですか?」


 俺はわからないふりをして、もう一度訊ねた。

 今度は蹴りが飛んできた。脛に。一番痛い。


「距離の問題じゃない」


 胡春先輩はカフェテラスのガラスとにらめっこして、ふくれ面を見せる。


「心の距離の問題」


「距離じゃん」


「うっさい」


 もう一度、脛を蹴られた。

 さっきは右足だったが、今度は左足。利き足じゃないほうだからか、さっきより痛い。


「とにかく、最上にも手伝って欲しい」


「俺にできることなんてないですよ」


 一家族の問題に、関係ない人間がしゃしゃり出る隙間などない。

 親と子の問題は双方のみでしか解決できない問題だ。

 それこそ、俺にできることがあるとすれば……


「料理作ったじゃん。あれ、やりたい」


 胡春先輩は俺が誘導したかった落としどころに、自分から進み出てくれた。


「体験入部を開こうかなって思ってたので、ちょうどよかったです」


「ちょっと待った。その屋上部とかいうわけのわからない部活に入る気はないんだけど」


「じゃあ、一人で頑張ってください」


「……計算高いのね。こうなるとわかってたの?」


「押せばいけるかな、とは」


「そんなに安い女じゃないし」


 じゅうぶん安いと思う。

 割高な購買のパンよりは、少なくとも。

 俺は購買のパンを伸ばす手は渋ったのだ。でも胡春先輩に手を差し伸べている。

 胡春先輩は口を尖らせ、非常用扉の近くにあった火災報知器の赤いランプを見つめた。


「……中間テスト最終日。ギリギリ、間に合うかな」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る