第十八話 胡春の葛藤
病院で医師から告げられたのは、ドラマであるような絶望的な状況ではなく、拍子抜けするような現実だった。
「ただの接触事故です。命に別状はありません。ご安心ください」
医師は机に置かれたパソコンと睨めっこし、カルテを作っている。
病院に運ばれてから警察の事情聴取なども込みで、およそ一時間半。診察室に呼ばれ、重い腰を上げた。
長い気苦労と、仰々しいまでの検査、聴取の先にまっていたのは、「かすり傷」というあっけない報告だった。
「よかったあ」
隣で紫奈さんは息を吐く。
私は吐息を漏らし、背骨を丸める。
「それよりも、記憶障害の方を懸念すべきでしょう。今回の事故も車道でぼうっとしていたところを車に轢かれたとのことですから」
医師はレントゲン写真に目を向けて言う。
「事故で頭を損傷してないかの検査を含めMRI検査をしてみたのですが……」
こういう写真は専門家でないと、どこがどう悪いのか全くわからない。異常はないように見える。そして偶然にも私の投げやりな推察は当たっていた。
「やはり、白川洋子さんの脳に萎縮の傾向は見られませんでした。白川さんが初めてこの病院を受診なされてからの検査入院と経過観察を経て、その観点から言わせて貰うと」
医師はもったいにもったいぶって結論づける。
「……外的な原因ではないと言っていいです。しかし健忘症候群と診て間違いはないでしょう」
「では?」
私は遠回しで事務的な医師の言を急かす。
心の隅に、黒い種が芽生えた。その黒いもやもやした感情はどんどん大きくなっていく。
外的な、怪我とか病気じゃないなら、あれはなんなの?
「薬などの影響でないのはこれまでの診察ではっきりとしていますし、心的な要因であるのだと思います」
「心的な要因ですか?」
そう訊ねたのは紫奈さんだ。
「例えば環境の変化が一番わかりやすいでしょうか。周囲が目まぐるしく変わると、心身に大きな負荷がかかります。その過程で物事が忘れやすくなったり」
そこで医師はコホンと言いずらそうに咳き込んだ。
「……この場合ですと、見たくないもの、忘れてしまいたいことを意識の外に追いやったりする防衛反応などが挙げられます」
「つまり、記憶に残したくない嫌なものから忘れると?」
私は拳を強く、爪で表面の皮膚が剝がれるくらい強く握った。血がじわっと滲んでる。
勝手に再婚して、その家が、私たちが気に入らないっていうの?
感情が今にも爆発しそうだった。
「あくまで一般例です。白川洋子さんがそうであると断定するにはまだ早いかと」
医師は断言こそしなかったものの、それで否定もしなかった。
私たちは診察室を出て脳神経科を後にした。
◇◇◇
診察室を後にした私たちは病棟を歩いて、警察の取り調べから解放された洋子さんと待合室で合流した。
事故検分に努めた警察は、洋子さんの不明瞭な記憶をもの痒しそうにしていたが、事故としてはありきたりで、問い詰めようもなかったようだ。
「洋子さん! もう何度心配をかければ気が済むんですか!?」
私はキツイ態度で洋子さんに言い寄った。
隣にいた警察官すら一歩下がるほどの剣幕で、周りの患者さんもどうしたことかとこっちを窺っている。
「じ、自分はこれで……」
目で邪魔だと訴えかけて、私は警察官を帰らせた。
男性の警察官は、まだ若く、二十代後半くらいの年齢で、ちょっと頼りなかった。けど、頑固おやじよりはよっぽどいい。
今は私の機嫌が最悪に悪い。もしかしたら手を出して、捕まってたかも。
「ごめんなさい……」
洋子さんは虚ろげな瞳をワックスがけされた床に落とす。
「ま、まあ、無事ならいいじゃん」
紫奈さんは洋子さんを庇うように立つ。
それが、無性に苛立った。この人と埋まりかけていた溝が、急激に広がっていった気がした。
「お医者様はなんて言っていたのかしら?」
洋子さんは紫奈さんに訊ねる。
答えたのは、私だった。
「特に問題はないらしいって。ただ、記憶障害は内的な要因らしい」
「そう」
洋子さんは困ったように首を傾げる。
埒があかないと思った私はさらに踏み込んだことを訊ねた。
「……再婚が原因なんじゃないの?」
「ちょ、胡春ちゃん」
「紫奈さんは黙っててよ!」
甘い紫奈さんを黙らせると、私は洋子さんに詰め寄った。
もう私は私をコントロールできなくなっていた。子供みたいに、頭に浮かんだ言葉を吐き出す。
「さっき、医者が洋子さんの記憶障害は内的な要因である可能性が高いって聞いた」
心的なストレスは、環境の変化によるものが挙げられるという。
これしかないと思う。洋子さんの記憶は、ストレスの暴力でぷちぷちと潰されてっているんだ。
「なら、考えうる原因は再婚しかないでしょ。もっと言うなら再婚に繋がるなにか……そう、離婚とか」
私が核心に迫ると、紫奈さんの目の色が変わった。
隠すような瞳。真実を奥にしまうように、後ろで手をまごまご動かす。
ほんと、この人は分かりやすい。
「……前の夫のことは、何も覚えてません。思い出したくないとすら思っています」
洋子さんの瞳には明確な拒絶の意思があった。真実から目を逸らそうとしている。
「でも、紫奈が夫を悪く言わないということは、私が悪かったのでしょう」
そんなあやふやで、短絡的な結論を出してしまうほど、過去に触れるのを嫌がってる。
「じゃあ、なんで……紫奈さんは前の夫じゃなく、洋子さんについてったのよ」
「それは……たぶん、紫奈ならきっと理由があるのでしょう。私にはわからない思慮深い理由がきっと」
「思慮深い理由があるからって……あんたの娘でしょ!?」
私はさらに語気を荒げてしまった。
紫奈さんが母親を選んだ思慮深い理由なんかあるわけない。もっと単純に、好きだったから、助けたいと思ったからその手を取ったんだ。
そんなことすらもわからないなんて……母親失格だ。
「私、知ってるもん! あんたは、お父さんが入り浸っていたバーの人でしょ!?」
私は打ちひしがれる洋子さんに掴みかかる勢いで捲し立てた。
「ほんとは家族のことなんかどうでもいいんでしょ!? 私なんかいらないんでしょ!?」
もうとめどなく溢れてくる言葉の波は止められなかった。
文脈も文法も途中でおかしくなっていた。訳もわからず不満をぶちまけ続けた。
不満を沢山吐き出し、自分はなんでこの人に怒ってるんだろう。そんなことすら考えはじめていた。自分で、自分がわからなくなっていた。
「振り回される私の身にもなってよ! なのに、なんであんたばっかり、被害者面して!」
「胡春」
ふと声が掛かった。
私は大きく息を吐いて、後ろを振り返る。
「お父さん……」
そこに立っていたのはお父さんだった。
慌ててきたのか、ネクタイが緩みきっていて、シャツの襟がよれてだらしない。毎朝ワックスで整えている髪も額に張り付いて、海苔みたいになっている。
「あまり、お母さんをいじめないであげて」
「お父さんっ」
気づけば、私の味方は誰一人いなくなっていた。
「……私、一人で帰るから。三人でご飯でも食べてきなよ」
私は、そう絞り出すのがやっとだった。
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