第十七話 先輩の看病 ②
俺はスーパーの袋を掲げてリビングに赴いたのだったが、この家にはまだ住人がいることを忘れていた。そして、向こうも俺が家にいることを意識してなかったのだろう。
「あ」
「……な、」
リビングには学校から帰ってきて寛いでいる胡春先輩がいた。
制服の襟を開き、スカートのホックを外し、素足をほっぽり出してソファの上で寝そべっているだらしない姿を晒していた。床には脱いだ靴下とネクタイ、着苦しかったのかブラジャーも落ちていた。
おそらく、紫奈先輩のお母さんが外出したのと入れ違いになって帰ってきたのだろう。俺が家にお邪魔しているという話は聞いてなかったみたいだ。
「強盗から覗き魔にジョブチェンジしたの? この変態」
胡春先輩は平静を取り繕いつつも、無防備な姿を見られた羞恥心はあったようだ。ソファから飛び起きるとシャツを寄せて胸元を隠し、ずるりと落ちるスカートのホックを止めた。
「いや、俺は強盗でもないし、覗き魔でもないですよ。朝川高校一年の最上優斗です」
俺は遅くながら自己紹介をする。
まだ胡春先輩にはちゃんと名前を伝えてなかった。
「洗濯物はちゃんと畳んで出しといてください」
「あんたは私の母親かなにか?」
胡春先輩は俺と目が合って不機嫌そうな顔をする。まず一番見られたくないであろうブラジャーを隠し、次に靴下、ネクタイを回収した。
それを洗濯ネットに詰め込んで、投げ捨てる。つい感嘆してしまうほど、今の動作にはまるで淀みがなかった。何百、何千、何万と繰り返されてきた流れ作業。
「学校ではお淑やかなのに、家ではだらしないんですね」
鉛筆のように鋭いと比喩した最初のイメージとは、あまりにもかけ離れている。
「男子にかぎらず、女子なんてみんなこんなもん。家でブラなんかわざわざつけないし、基本的にパンツ丸出し」
「亜弥……ウチの妹はしっかりしてますよ」
「そりゃ、男のあんたがいるからでしょ。女所帯だと下着とかナプキンとか普通に見える場所に置いとくし、家の中を裸でうろついたりする」
「偏見じゃないんですか?」
「少なくとも私が知ってる女子はみんなこう」
「類友ってやつですね」
「あ?」
胡春先輩は喉の奥から低い唸り声を出す。
だけど、先ほどの痴態が目に焼きついているせいで、まったく怖くなかった。レッサーパンダの威嚇みたいに愛らしいとすら思う。
「そんなことよりも、なんであんたが私の家にいるわけ?」
「風邪ひいてる紫奈先輩に生姜湯と卵粥を作りにきました」
「……昨日から気になってたんだけど、あんたって紫奈さんのなに?」
「今日はよく聞かれます。それ」
「そりゃそうでしょ。紫奈さんと付き合える男ってこの世にいたんだってみんな思う」
「付き合ってはないです」
「料理作ってあげるって付き合ってるようなもんじゃん」
「だとしたら、俺は最初から紫奈先輩と付き合ってることになりますよ」
胡春先輩の恋愛脳にそう返す。
しかし、実際相手の家に行って料理を作るのはたしかに恋人……いやもう夫婦のような。
「あと、
俺の思考を遮るように、胡春先輩は訊ねる。
「洋子?」
「……お義母さん」
胡春先輩は強張った口をなんとか動かす。
まだ胡春先輩の中では紫奈先輩のお母さんを、自分の母であると認める折り合いがついていないみたいだ。
「紫奈先輩のお母さんならさっき出て行きましたよ。途中で会いませんでした?」
「会ってない。でもわかった。またあの人は病院ってわけね」
「そんなに悪いんですか?」
「紫奈さんから聞いてない?」
「若年性アルツハイマーなんですよね?」
「うん、まあ私も詳しくは知らない」
胡春先輩は微妙は反応をする。
病気のことは聞きづらいし、仕方ない。
「紫奈先輩のお母さんですが」
「なに?」
「忘れっぽいところはあったけど、ちゃんと娘のことは覚えてたし、通院するほどではなさそうに見えますけど」
紫奈先輩の話では、娘の存在すら忘れかけている末期手前の症状だった。
しかし、俺が喋った時はちゃんと受け答えができていたし、娘のこともしっかり覚えていた。それに娘が話していたからと、俺についてもある程度は知っていたみたいだ。
「事あるたびに日記をつけて回ってる。それでもああなの」
「なんか素っ気ない言い方ですね」
「……私は、あの人のこと好きじゃない」
胡春先輩は視線を落とす。
嫌いとは言い切れないところに、胡春先輩の性格がにじみ出ていた。
「男に取り入ることばっかって言ってましたもんね」
「……屋上でのやりとり聞いてたの?」
「ええ。ファザコンだなーって思いながら……いてて」
「うるさい。二度と喋らないで」
胡春先輩は俺の頬に手をもっていき、思い切って抓った。伸びた爪が頬に食い込んで痛い痛い。
「今は微妙な距離感で半分喧嘩みたいな状態になってても、これから仲良くしてけばいいんじゃないですか?」
俺はキッチンに立ってコンロに火をつける。俺の家はIHタイプのコンロだが、紫奈先輩の家はガスコンロだった。ぼうっと火が燃えるのを見て、温度を調節する。
「てなわけで、料理作るの手伝ってください」
「はあ? なんで私が手伝わないといけないわけ?」
「胡春先輩も手伝ってくれたと知ったら、紫奈先輩はきっと喜びます」
「だから、なんなの?」
「胡春先輩だって本当は紫奈先輩と仲良くしたいんですよね?」
「っ、うっさい。あんたには関係ないでしょ」
胡春先輩は図星を突かれたみたいで、狼狽する。
俺はさらに畳みかけた。
「紫奈先輩が家出したの、胡春先輩が関係してるんじゃないですか?」
「っああ、もう!」
胡春先輩はうざったらしそうに息を吐いて、台所にあった包丁を握った。……包丁の先を俺に向けないで欲しいんだが。
「私はなにすりゃいいの!?」
「お湯を沸かしている間に生姜を切ってください。俺はネギを刻んでおくので」
俺はまな板を二つ置き、ネギと生姜を並べる。
胡春先輩は生姜をまじまじと見て、困惑したように首を捻る。
「切り方知らないんだけど、これって表面の皮? を剥けばいいの?」
「あ、はい。表面を削るみたいな感じでお願いします。参考程度に少しだけ一緒にやりますか?」
「やり方わかんないし、お願い」
「わかりました」
俺は後ろから胡春先輩の手を握る。
「ちょっと、変なとこ触らないでよ」
「触ってません。危ないので包丁持った手をむやみに動かさないでください」
俺は包丁を持っている手をゆっくりと丁寧に動かしていく。
「こうやって、この汚れた部分を削いでって……あ、上手ですね」
指導しはじめてすぐに胡春先輩はコツを掴んだ。
切りにくいでこぼこした形状の生姜を上手く回していた。
「まあ、りんごの皮剥きとかよくやるし」
「皮剥きのセンスありますよ。将来はその仕事についたらどうですか?」
「バカにしすぎ」
実際、胡春先輩は料理に関して全くの素人では無さそうだったようで、俺がねぎを切り終わるころには、胡春先輩も生姜を切り終えていた。
お湯が沸騰する音が聞こえたので火を止める。
二人が普段使ってるコップにお湯を注ぎ、材料を入れていく。
「先輩は生姜が苦手だから生姜は少なめで、あとはちみつは」
「あんた、いちいちそんなことまで考えてんの?」
「紫奈先輩は好みにうるさいですし、料理する人なら誰でもこれくらいは考えますよ」
「そんなもん?」
「そんなもんです」
胡春先輩は納得がいかないようだったが、湯気が立つコップに目が行き、引き下がった。
「じゃあ、冷めないうちに持っていこ」
俺たちは完成した料理をお盆に乗せると、リビングを出た。
生姜湯と卵粥が乗ったお盆を運んで、紫奈先輩の部屋に入ると、紫奈先輩は目を輝かせ、ベッドの上で飛び跳ねた。
「お粥! あと生姜湯だ!」
「病人がはしゃがないでくださいよ」
「だって、何年ぶりかの優斗のご飯だよ!」
「一日ぶりです。精神と時の部屋なんですか? ここ」
いつものように戯ける紫奈先輩。
まだ本調子というわけにはいかないだろうが、かなり元気になったみたいだ。
「あと今日は俺だけじゃありません。胡春先輩と二人で作りました」
俺は部屋に入るか入らないかで躊躇している胡春先輩の背中を押す。
「……っ、最上のやつがどうしてもって言うから仕方なく。私は生姜切っただけだし。卵粥は優斗に任せっきりだったし」
胡春先輩は紫奈先輩から隠れるように俺の背中に逃げ、もごもごと口を動かす。
よっぽど恥ずかしかったみたいだ。呂律もほとんど回ってなかった。
「二人きりで、かぁ……」
紫奈先輩は含みがある言い方をする。
胡春さんは耐えられなくなって、俺の袖を引いた。
「ほら最上、だから言ったじゃん。一人で作った方がいいって。私あんまり料理とかしないし」
「いやあ、うん、胡春ちゃんの料理がどうとかじゃなくて……」
卑屈になる胡春先輩に紫奈先輩はそう訂正を入れた。そして風邪がぶり返したような熱を帯びた顔をする。
「優斗と、胡春ちゃんが二人きりで一緒なのは……なんか嫌」
「それって……」
「さあー食べよう! よし食べよう!」
紫奈先輩は俺の言葉に被せて、意気揚々と食べ始める。
生姜湯を一気に飲んで、卵粥を口いっぱいに頬張る。紫奈先輩の額にはたちまち玉の汗が浮かび上がってくる。
「美味しいよ。うん、美味しい」
咀嚼して飲み込むと、満足げに何度も唸る。
どうやらお気に召してくれたみたいだ。
「それは良かったです。ね、胡春先輩?」
「う、うん」
胡春先輩は遠慮がちに頷く。
「ありがとうね。優斗、それに……」
紫奈先輩は部屋の隅で縮こまっている胡春先輩の頭を撫でた。
背骨がスライムになったみたいに、胡春先輩の体から力が抜けていく。
「胡春ちゃん」
「っ」
「私さ、お母さんの病気のことばっかり心配してた。白川さんのことも、胡春ちゃんのことも、どこか他人だと線を引いてた」
紫奈先輩は自分の中にあって、悶々としていたものを吐き出す。
「私、人と関わるのが苦手で距離感とか掴むの苦手なんだ」
その言葉には頑張っても空回りするやるせなさみたいなものが込められていた。
「ごめん。姉失格だよね。にへへ」
紫奈先輩はぺこりと頭を下げて、笑う。
「わ、私も……」
胡春先輩も紫奈先輩に負けじと口を開いた。
まったくの他人から姉妹への第一歩を踏み出しかけた二人。そんな祝福の門出を打ち破ったのは、紫奈先輩の携帯から鳴り響いた着信音だった。
「電話? 誰からだろ?」
紫奈先輩は不審がりながらも応答する。
「もしもし……白川です。はい」
紫奈先輩は神妙な声で話す。
電話口の相手は友達ではなく、公的な人なのか珍しくかしこまった口調だ。
紫奈先輩は事務的なやり取りを続けたのち、ひゅっと息を呑む。
「——お母さんが、交通事故に遭った?」
氷のように張りついた声色が、部屋に響き渡った。
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