第十四話 先輩と風邪 ②
白川家を後にした俺は、山手線を利用して渋谷駅に向かった。
渋谷駅のハチ公口を出て、徒歩五分。スペイン坂を少し歩くと喫茶店「銘露」が見えてくる。
見つけにくい場所にはあるが、入り口には観葉植物が並べてあって、ちょっとした植物館みたいになってるから目にはつく。
裏口からスタッフルームに入って、支給された制服に着替えた。
「最上さん、ちょっといいですか?」
「よう、若菜」
スタッフルームを出たところで、若菜と会った。
気の抜けた声で挨拶する俺だったが、若菜は神妙な顔つきで近づいてくる。
「熱っぽいですね」
ぴとり。おでこ同士をくっつけて若菜は言う。
若菜のおでこは冷たくて、俺の体が熱っていたことを客観的に知らされた。
「そうか?」
「体感、37.5℃ですね。風邪の引き始めかもしれません。気をつけた方がいいもです」
「いや、俺は元気なんだが——へくしっ」
くしゃみが出る。
言われたそばから体調不良がにじみよってくる気配を感じとった。
病は気からなのか、風邪と伝えられた途端にぶるりと悪寒に身を震わせる。
「ね、言ったとおりでしょ?」
若菜は満足げに胸を張る。
実は俺の身近な人間で一番巨乳なのは若菜かもしれない。制服の生地が悲鳴を上げるように張り詰めていた。
若菜は二つに束ねた髪と胸を揺らし、注文を受けに行く。この揺れる姿が見たいため、男性客はわざわざ若菜に注文の声をかける。
「私は最上さんより最上さんに詳しいです!」
その様はまさに忠犬。
注文を受け取って返ってきた若菜はしたり顔で言う。
「参った。降参だ。今日は店長に言って早めに上がらせて貰うよ」
「それがいいですね。病はなる前に直すのが一番です。バイトが終わったら最上さんの家にお邪魔して、生姜湯を作りましょうか?」
「はちみつ多めで頼む」
「カットレモンも入れてあげます」
「随分と豪勢だな。まだ風邪ひいたかわかんないのに」
「ひき始めに徹底看病するのが一番ですよ」
「たしかにな」
苦笑して、俺は仕事モードに切り替える。
店内には重げなクラシック音楽が流れ、暗めなライトアップがなされている。大人な雰囲気。だけど排他的ではなく、受け入れてくれる優しさも内包している。まるでマスターの人柄の良さを形にしたようだった。
この店はコーヒー豆の匂いと観葉植物の匂いで溢れている。学校の上履きと制汗スプレーの匂いと違って、こっちはずっと嗅いでたくなる匂いだ。マスターは店を出ても、コーヒーと植物の匂いがとれなくなったと言う。
注文のコーヒーを運ぶ俺も、いつしかコーヒーの匂いが染みつくのだろうか。
ぼーっとした頭でそんな感慨を抱いていると、喉が詰まって咳が出る。
「けほっけほっ」
カウンターに戻ってからでよかった。
お客さんの前で咳を出して、風邪を移しでもしたら大変だ。
「最上君、風邪かい?」
マスターは温和な細い目をこちらに向ける。
「うつされたみたいです」
「平日でお客さんも少ないし、今日は早めに上がってもいいよ」
「お気遣いありがとうございます」
鼻づまりした声が出た。ずびびと鼻をかんで業務に入る。
マスターが言うように、平日はコーヒーしか提供していないから仕事が少ない。
俺に与えられた仕事はフロアの仕事。と言っても、これも簡単なものばかりだ。
お客さんが声を掛けやすいように、店の中央に立って注文を受ける。
これもほぼ若菜が担当するので、俺のメインの仕事はというと、もっぱら注文を受けたコーヒーをお客さんの元に運ぶ仕事だ。
「今日は最上君の料理は食べられないの?」
ほんのりときつくならない程度に香水の匂いを漂わせる女性客が俺に訊ねる。
この人は何度か日曜日にお見かけしたから顔を覚えている。アパレルの仕事についているらしくて、よく連れ添った同僚と仕事話を繰り広げていた。
「ええ。休日限定です」
「そっか、残念ね」
「うちのコーヒーも美味しいですよ。丹精込めて作ってますから」
出来るかぎり、爽やかな笑顔を浮かべる。
接客業で陰険な態度だと店の風評にも関わる。こういう爽やかムーブは苦手なんだけど、精一杯それらしく見せた。
体調不良で張りついた笑顔だという自覚はある。それでもいい。何ごとも誠意を伝えることが大切だ。「この子、頑張ってるわね」と思わせる努力をすれば、きっと悪いようには言われない。
「っ、じゃあ本日の一杯を貰おうかしら」
「かしこまりました」
マスターに「本日の一杯が入りました」と告げる。こぽこぽと泡立つコーヒーメイカー。俺はこの水音が大好きだ。
「……なにが、とは言いませんが、最上さんはお上手ですね」
カウンターに戻ってきた俺を若菜は仏頂面で迎える。
「若菜には負ける」
仮にこの店の貢献度を順位づけするのなら、ぶっちぎりで若菜がトップだろう。
なにせ客単価が違う。若菜と話をしたくて、過剰に注文する客までいるくらいだ。
「男性のお客さんは任せたからな」
「最上さんは女性客をお願いします」
コーヒーに向き合っているマスターの代わりに俺たち二人が接客を担当する。これがいつもの仕事風景だった。
俺は軽食メニューを求めにやってきた女性客に「申し訳ありません」と謝って回り、そしてコーヒーを注文して貰う。
「いらっしゃいませ。空いてる席にどうぞ」
フロアの対応をしていると、見慣れない女性客が一人でやってきた。
年齢はわからないが美人だ。目の下にある泣きぼくろが妖艶さを醸し出していて、やや垂れさがった目が男の庇護欲をそそる。
男にモテまくる人生を歩んできたのは一目瞭然だった。
「あの、ちょっといいですか?」
その女性客が席についてしばらくすると、おずおずと手を挙げた。
「どうなさいましたか?」
「えっと、その、私、注文しましたっけ?」
俺は一瞬だけ呆けた顔をしてしまう。
この場合、「注文まだでしたっけ?」ならわかるが、「注文しましたっけ?」と聞かれたのは初めてのことだ。
「まだ注文はなされてませんよ。今伺います」
「あ、ではブルーマウンテンをお願いします」
「かしこまりました」
俺は注文を伝えにカウンターに戻った。
十分もしないうちに完成したブルーマウンテンを席に運ぶ。
「ブルーマウンテンになります。砂糖とミルクは」
「……」
「……お客様?」
つい訝しげに声をかける。
その女性客はどこか上の空で、こちらを見ているようで見ていない不思議な目をしていたからだ。
「あ、ごめんなさい。ついぼーっとしてて」
「いえ、こちらこそ不躾で申し訳ありません」
俺は探るような目を向けたことを謝罪する。
「ブルーマウンテンです。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとう。えっと注文は……これで全部よね?」
不安げに瞳を揺らす。
言われて注文票を確認する。何度見ても記載されているのはブルーマウンテンだけ。
記入ミスの可能性は低い。忙しい休日ならまだしも、のびやかな平日の夜に間違えることはないだろう。なによりも俺がしっかりと覚えている。
「ええ。全部だと思います」
「ありがとう。それなら大丈夫よ」
そのお客さんは意味ありげに言うと、視線をコーヒーに落とす。
俺は首を捻りつつ、再びカウンターに戻った。
「今のお客さん……様子が変でしたね」
カウンターで一連のやりとりを見ていた若菜は小声で言う。
「こら、失礼だぞ」
とはいえ、俺も気にはしていた。
最初の問いかけといい、今の確認といい、なんだか釈然としない。
若菜も俺と同じ感情を渦巻かせていた。
「あのお客さん、最上さんが休みの日に一回来たことあったんですけど、さっきのように何度も注文を伺いに来させるんです」
「まあ、おっちょこちょいなんだろ。……へくしっ!」
それよりも、今は茹だるような熱をなんとかしたい。
「最上さん、顔真っ赤ですよ!」
「まじ?」
「風邪です。完璧に」
「まじかあ」
俺は糸が切れた人形のようにカウンターの壁に背中を預けて、ずりずりと落ちていく。
「マスター、最上さんを送るので私も上がって大丈夫ですか?」
「ああうん。今日はもう大丈夫だよ。お客さんの入りも減ってきたし」
「すみません。迷惑かけます」
俺は申し訳なさを感じつつも、マスターのご好意に甘えることにした。
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