第十三話 先輩と風邪 ①
あれからどれぐらいの間、屋上に滞在していたのだろうか。
いつの間にか俺たちは、遊び疲れた子供のように惰眠を貪っていた。
弁解のために言っておくが、担任の先生には早退届を出してある。
こちらは部活の申請届と違って簡単だ。保健室に行って、保健室の先生に「早退します」と伝えるだけでいい。
熱が何度以上ないと早退できないというのは古い慣習だ。今はむしろ下手に学校の責任になるのは嫌なので、早退してくれた方が嬉しいらしい。
ゆっくりと時間が流れる午後の時間に身を委ねていると、何度目かのチャイムが鳴った。
俺は大きく欠伸をして、周囲を見渡す。隣には白い髪の美少女が眠りこけている。
「……は、はあ。……っふう」
なにやら煽情的な吐息を発しながら。
「先輩? エッチな夢でも見てるんですか?」
冗談めいた口調で訊ねる。
だけど浅い呼吸が返ってくるだけ。
紫奈先輩の顔を覗き込むと、すぐに原因はわかった。
額に汗の洪水。真っ赤な顔。
試しに額に手を当ててみると、火傷するくらい高温だった。
「すごい熱じゃないですか!?」
「……あえ? 優斗がぐにゃぐにゃになってる〜」
「すぐ保健室に」
「だめ。私たち……早退したことになってるでしょ」
「だったら、家まで送ります」
「そんな迷惑かけらんないよ」
「迷惑とか、そんなの気にしてる場合ですか」
「けど……」
「今ここでぶっ倒れる方が迷惑です。大人しく世話をかけてください」
俺は渋る紫奈先輩を半ば強引に抱え、屋上を出る。
どうやら今は授業中だったみたいで、朗々とした声が教室内から聞こえる。
廊下を通り過ぎる時に、授業を受けている生徒から奇妙な目で見られたりしたが、周りの目がどうとか気にしている場合ではなかった。
俺は人に見られるのも構わず、紫奈先輩をおぶって生徒玄関まで向かった。
「靴くらい自分で履くよ」
「……」
「こら、私を無視するな~」
とは言いつつも、俺が手伝ってない片方の靴はまったく履けていなかった。踵を履きつぶし、爪先が靴の中程で止まっている。
こんな体たらくな状態のまま歩いて帰らせるわけにもいかないので、連休をとっていた母に迎えの車を出してもらうことに。
母は「こんな可愛い彼女がいるなら紹介しなさいよ!」と面倒くさく絡んできたが、先輩の看病でそれどころではないよと言って躱し続けた。
母から提案された家で看病するプランも棄却し、それでも心配性の母は病院を提案したが、こちらは紫奈先輩が丁重にお断りした。
紫奈先輩の家は、朝川高校から車で五分もかからない住宅街の中にあるマンションだった。
「一人で歩けますか?」
車を降りて、マンションの入り口に立つ。
六階建てでエレベーター付きの比較的新しいマンションだ。
「だ、だいじょーぶだよ。こんくらいいつもの、おっとっと」
紫奈先輩の口は絶えず強がりを押し並べるものの、体は白旗を挙げていた。
マンションの出入り口にある小さな石の階段すら碌に上がれず、俺の肩に柔らかい二つの感触を押しつけるばかりだ。
酩酊したサラリーマンみたいに、自分の状況を理解していない紫奈先輩を抱えて、マンションのカードキーを認識機械に差し込む。
「先輩の部屋は何号室ですか?」
「にーまるよん」
「二階ですね」
エレベーターに乗って2の番号を押す。
二階に上がって左から三番目の部屋が204号室だった。
扉に備え付けられたインターホンを押して、家主の反応を伺う。
「……誰も出ないな」
数回、間隔を開けてインターホンを押したが反応はなし。
一刻も早く紫奈先輩をベッドに寝かせなければならないのに、思わぬ時間を浪費した。
「今日はお母さんは病院でいない……白川さんは仕事」
「それを早く言ってくださいよ。じゃあ、先輩の看病は」
と、ここまで言ったところで、この質問の無意味さに気づいて口をつぐんだ。
今、紫奈先輩を看病できる人間は一人しかいない。
「……ごめん……部屋まで運んでくれない?」
限界がきている声だった。
「わかりました」
俺は先輩から渡された鍵を使って部屋を開錠し、マンションの中に入った。
借りている部屋は四人家族が暮らせるぐらい広く、4LDKはありそうな空間。
「あー……そこそこ、右の部屋が私の……」
廊下を歩いて左にあるのが、紫奈先輩の部屋だった。
中は紫奈先輩の部屋は年頃の女子高生とは思えないほど、簡素なもので、俺は目をしばたたかせた。
引越したばかりかのように、シングルサイズのベッドと机、それとクローゼットがあるだけで、他はなにもない。
「とりあえず制服は寝苦しいでしょうから着替えましょう。手伝いますよ」
ベッドに先輩を横たわらせて、着替えのパジャマを探すことにした。
女っ気のない部屋だけど、それでもれっきとした女子の部屋だ。
迂闊に漁るわけにはいかないなと躊躇ってると、紫奈先輩が教えてくれる。
「パジャマは奥のクローゼットの下の収納ボックスに仕舞ってる」
「クローゼットの収納ボックスですね」
部屋の片隅にあったクローゼットを開く。
収納ボックスは全部で三つあり、片っ端から開けていく。一番右から順に下着と靴下、大小のタオル、パジャマの上下が収納されていた。
その中から水玉模様のパジャマとタオルを持って行く。
「脱がせるので、背中向けてください」
「ん、」
手早く着替えさせた。
紫奈先輩の肌はお風呂で見たばかりだし、看護のためだと思えば意識することはなかった。
タオルで汗を拭き、着替えたことで、先輩もいくぶんか気分がよくなったようだ。
「熱は……39℃か」
ピピピと音が鳴って体温計を取り出すと、体温計が示した数字に俺は驚愕する。
平熱が低い俺は37℃ですら大変な熱だ。
39℃の熱なんて小学三年生の時に罹ったインフルエンザ以来か。
「いつものこと……だから。だいじょーぶ、にへへ」
「どこが大丈夫なんですか。もう」
布団をかぶせて、ぽんぽんと叩く。
「ゆっくり寝ててください。明日は無理して学校きちゃダメですからね」
「……もう少し、一緒にいて」
「わかりました。先輩が寝付くまで一緒にいます」
「ありがとね」
それから俺は紫奈先輩が寝つくまで傍にいた。
十分くらい経って、俺は先輩の顔を覗き込む。
「……そろそろ寝ましたか?」
「すぅ……すぅ……」
紫奈先輩はすっきりした寝顔で寝息を立てている。
その頃には体調もだいぶ回復傾向にあった。
「寝たみたいですね……っと」
もう心配はいらないだろうと思って立ち上がったが、紫奈先輩は弱弱しく俺の手を握って、
「いっちゃ、やだ」
そう寝言を口にした。
「……はあ、仕方ないですね。今日だけ特別ですから」
俺はもう少し紫奈先輩の寝顔を眺めてから帰ることにした。
そうして紫奈先輩の寝顔を眺めていると、気づけば時刻はもう夕方六時をとっくに回っていた。
これからバイトもあるし、お腹を空かせた妹の晩御飯を作らなくてはならない。名残惜しいが、時間が差し迫っていた。
俺は後ろ髪を引かれる思いで、部屋を後にする。
「……」
「……」
扉を開けたところで、俺は見覚えのある女子生徒と見つめ合っていた。
どうやら学校が終わって返ってきた妹の胡春さんと、ばったり遭遇してしまったようだ。
「あんた、なんで」
「強盗じゃないので通報しないでください」
「人の家に勝手に入って強盗じゃないって言うなら、なんなの?」
「紫奈先輩が風邪で倒れたから看病に」
胡春先輩は紫奈先輩と仲が悪い。
俺は邪険に扱われるんじゃないかとたかをくくっていたが、返ってきたのは意外な反応だった。
「そっか。ありがと」
「え?」
「なに? 私がお礼を言うのはそんなに変?」
「めっちゃ変ですよ。マジで」
と言ったら「先輩に失礼すぎ」と言われて頭を叩かれた。
なにはともあれ、
「じゃあ、俺はもう帰るんで先輩をよろしくお願いします」
胡春先輩が来たのなら、後のことはもう彼女に任せていいだろう。
俺は玄関で靴を履き、マンションを後にした。
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