第十一話 先輩と朝
翌朝、目覚ましに叩き起こされてリビングまで降りると、紫奈先輩は帰り支度を始めていた。
時刻はまだ五時。朝を知らせるすずめの鳴き声すら聞こえないような時間だ。
俺は今から弁当を作るために起きたのだが、普通の学生はまだ寝ている。
眠気がまだ残る頭で紫奈先輩がどうしてこんな早起きして学校に行く準備をしているのかを考える。いや、もしかしたら俺が寝ぼけているから目の前に紫奈先輩がいると錯覚しているのかもしれない。
「おはよ」
こちらに気づいた紫奈先輩が挨拶してきたので、ひとまず幻覚の線は霧散した。
「……もう帰るんですか?」
「うん。長居するのは悪いしね」
「もう今さらだと思いますけど」
「まーそうなんだけどね。朝はお母さんを病院まで送らなきゃなんないんだ」
紫奈先輩の母親はアルツハイマーらしい。
日常生活がままならないほどではないほどではないということは、まだ治る見込みはあるのだろう。
だけど、母親を病院に連れていく予定を話す紫奈先輩の背中は寂し気なものだった。
母親に認知されないってどれぐらい辛いのか俺にはわからない。
俺の両親は家になかなか帰ってこないが、帰ってきてからはやっぱりそれなりには話すし、家族で出かけたりもする。
「……大変ですね」
「慣れっこ。病院も私が通ってたとこの脳神経科だし」
「先輩は昔入院してたんでしたっけ?」
「うん。ご飯がすっごく味うすでね。もー大変だった!」
「大変なのそこなんですか」
何十年か経てば、俺の両親も紫奈先輩の母親みたく、俺や亜弥がわからなくなるのだろうか。
そうなったら、俺は両親とどう接すればいいのだろうか。背中からぶわっと脂汗が噴き出した。
「じゃ、また学校でね」
紫奈先輩は元気よく手を振って玄関を閉めた。
俺はしばらく紫奈先輩がまた戻ってくるんじゃないかと鍵をかけずに玄関に立ち尽くしていたが、その気配も感じられなくなったので鍵を閉めた。
「……ほんと、猫だな」
ずけずけと人の家に上がり込んで、勝手にどこかに行ってしまう。
どこまでも身勝手で、自由で、奔放で、だからこそ、多くの人が彼女に惹かれるのだろう。
実際に俺自身も紫奈先輩を見て、その在り方を羨んだし憧れた。
ありありと生きる。言うは易いが実行するのは果てしなく難しい。誰しも他人から見た自分を気にするものだ。
「振り回されるこっちの身にもなってくださいよ。急にいなくなられたらなられたで寂しいですし」
紫奈先輩がいた痕跡は何一つ残っていなかった。
まるで最初から居なかったように。雪の日に残した足跡みたいに、いつの間にか消え去っていた。
「ま、学校に行けば会えるんだけどな」
わずかな感傷を捨て、俺は伸びをして身支度を始めた。
顔を洗って、歯を磨いて、紫奈先輩の下着を取り込んだ。なにもやましいことはない。ただ下着を返すために鞄に詰め込むだけだ。
「にいふぁん、おはよぅー」
三人分の弁当と、朝食を作っていると、二階から亜弥が降りてきた。
まだ寝起きなのか欠伸を噛み締めた声で、目を擦っている。
「にいさーん、だっこ」
「はいはい」
亜弥は軽い。りんご3個分くらいの体重しかない。
俺は正面から亜弥を抱きかかえる。
「あれ? 紫奈さんは?」
首元に亜弥の息がかかってくすぐったい。
「少し前に帰ったな。なにか用でもあったか?」
「ううん。紫奈さん、昨日ずっと元気に喋ってたのに早起きだね」
昨日、紫奈先輩は亜弥の部屋で寝泊まりした。
亜弥が言うには夜中ずっと喋っていたそうだ。
受験生の亜弥の邪魔になるから次があったら違う場所で寝て貰おう。
「だから亜弥はまだおねむさんなんだな。歯磨くの手伝ってやろうか?」
「私もうそんなに子供じゃないし」
「抱っこをせがんでる間は子供だ」
俺は亜弥と一緒に食卓を囲み、七時過ぎには家を出た。
朝の代わり映えのないひととき。
だけど、そこにはぽっかりと穴が開いていた。
◇◇◇
紫奈先輩と再び遭遇したのは、学校の正門だった。
朝川高校の制服を着た学生たちの群れの中に、一際目立った白い毛並みが映った。他の誰でもない紫奈先輩だ。
「お、優斗」
紫奈先輩もこちらに気づいたようで、駆け寄ってくる。
ふわり、さらさら、そんな擬音が聞こえてくるほど揺れ動く髪を目で追っていると、紫奈先輩は抱きつく勢いで飛び込んできた。
「先輩、おはようございます」
「ん、おはよう。なんか変な感じだね」
「ですね。なんというか……」
シャンプーの匂いが同じ、あと制服の洗剤の匂いも。
こうして異性が自分と同じ匂いを漂わせていると、ドキドキする。
「昨日は泊めてくれてありがと」
「ちょっ、先輩!」
「ん? どうしたの?」
紫奈先輩は隠すことなく、お泊まりの話を出してくる。
登校中の生徒がたくさんいる中での発言だ。俺は咄嗟に辺りを見渡した。
けど、朝の挨拶運動の声にかき消されたのか、聞いていた生徒はいなかった。
「その話はあまり人の多いところではしないほうが」
「なんで? お泊まり楽しいじゃん。楽しい話はみんな好きじゃん?」
「一部の人にとってはそうじゃないんですよ」
特に紫奈先輩に特別な想いを抱いている人にとっては。
「ふーん、じゃ、二人きりの秘密ね。オーケー」
「二人の秘密……」
「そ、内緒だよー」
そうやってすぐ二人きりの秘密とか作るから、勘違いする男子が増えるのだ。
「あ、そうだ。これ、泊めてくれたお礼」
手渡されたのは、大須栗りんの芋千本だった。
いやいや、大したものすぎる。お歳暮用の贈答品だぞ。一箱買うのに五千円札じゃ足りないほどの高級和菓子だ。
「こんな大そうなもの受け取れないですよ。先輩が買ったんですか?」
「あー……いや、お母さんに話したら、その人にお礼をしなさいって」
紫奈先輩は視線を流す。
母親によほど叱られたらしい。
「こっちも先輩で試食をお願いしてる立場なんで、お礼とかはいいんですけどね。今日もまた試作品の味見をお願いします」
「任せてよ! 私、舌には自信あるから!」
「そんなこと言って、先輩はいつも全肯定じゃないですか。辛口の意見があってもいいんですよ」
「優斗のご飯は本当にすっごく美味しいんだよ!」
「ありがとうございます。お世辞でも嬉しいです」
「お世辞じゃないってば!」
「なら、もっと嬉しいです」
紫奈先輩は玄関でローファーから内履きに履き替えた。
俺は別れる前に紫奈先輩に一言伝える。
「あ、そうだ。部活の件ですが、職員室で聞いてみます」
「ん、りょーかい。屋上の私物化は任せた!」
そんな無理難題を課せられ、俺は一年生棟にある第一職員室に向かう。
職員室は一年生棟と三年生棟にあり、それぞれ第一と第二と名付けられている。
生徒会を担当している先生は、この時間は第一職員室にいるはずだ。他にも教頭先生や学年主任の先生がいるのも第一職員室だ。そう聞くと、第一職員室の方が格上っぽいな。
逆に受験を担当する先生がいるのが第二職員室。
漫画に例えると、第一がいわゆる上層部オペレーター室で、第二が武闘派が集まる実行組織みたいな。
そんなことを考えているうちに、俺は第一職員室前まで来ていた。
俺は前に貼られた座席表を見てから職員室に入った。
「……部活を作りたいなら、先に生徒会に話を通してくれない?」
生徒会を担当する早川先生に部活を設立したい旨を話すと、困ったようにそう告げられた。
「生徒会、ですか」
一年生の俺には生徒会は馴染みがない。
秋になれば生徒会選挙があるのだが、今は五月。俺は生徒会選挙を経験していない。
それでいて上級生に話を聞きに行くというのは中々にハードルが高かった。
「うん。今だとたぶん2-Dに書記の子がいるから、その子に話をして欲しいな。そういうの書記の仕事だから」
早川先生はそう言って、俺を職員室から追い出した。
部員を揃えることが最初にして最大の難関だと思ってはいたが、部活設立は思ってた以上に面倒なものだった。
もう諦めてしまいたかったが、紫奈先輩の居場所はどうにか作ってあげたい。
というわけで、朝のホームルームが始まる前に2-Dの教室まで足を運んだ。
「すみません。このクラスに生徒会の書記はいますか?」
ちょうど教室から出てきた男子に話を聞くと、その男子は一年の俺をうろんげに見つつも答えてくれる。
「
胡春。その人が書記か。
その男子が指差した方を見ると、一人の女子が読書をしていた。
切れ長の目に全体的に細身な体。尖った鉛筆の芯みたい、というのは女子を表現するには不適切な言葉選びかもしれないが、俺の目にはそう映った。息を呑むような美人ではある。水彩画のような儚さを感じられた。
紫奈先輩と比べてしまうほどだ。
紫奈先輩は雲を食べたような真っ白な、というか色の無いと言うべき髪を持つ美少女であり、艶やかな容姿も相まって浮世離れした存在に思える。
彼女ほどの特別感はないが、しかし劣っているとは口が裂けても言えない美人だ。
その女子は俺の視線に気づくと、顔を上げた。
「なに?」
迷惑そうな顔で短く訊ねる。
「生徒会の胡春先輩ですか?」
「そうだけど。なんか用?」
生徒会は基本的に優しく、一般生徒には友好的だと思っていたが、胡春先輩は言葉の端々に棘があった。
「あの、部活を作りたいんですが……」
「部活? 部活勧誘の期間は終わったんだけど」
「部活勧誘期間は終わっても、部活自体は作れるんじゃないですか?」
「そうだけど、なんでもっと早く申請しなかったの?」
「つい昨日あたりに思いつきまして」
胡春先輩は俺を咎める。
悪いことは何にもしてないのに、罪人の気分を味わった。
「だったら、早川先生に聞いて」
どうやら面倒ごとは横へ流すのが生徒会の慣習らしい。
たらい回しにされた俺は先輩相手で恐縮だが、少しだけ語気を強めにする。
「生徒会の先生に話を伺ったところ、書記に許可を取れと言われました」
「はあー……」
ものすごい嫌そうにため息を吐いた。
「なら、生徒会室に申請届を持ってきて」
「申請届はどこに?」
「先生にでも聞いて。私は忙しいから」
胡春先輩は再び本の世界へと入っていった。これのどこか忙しいのだろうか。
もう俺が何を聞いてもうんともすんとも言わないだろう。
二年生の視線も痛いし、ホームルームの時間も迫っている。俺は大人しく教室に戻ることにした。
二年生棟の廊下を歩いている最中に生徒会室に差し掛かった。扉には今期の生徒会長、副会長、書記の名前が連なっている。
俺はさっき会った書記の名前に吸い寄せられた。
「書記……
俺は「白川」という名字に引っ掛かった。
そう、あの紫奈先輩の名字と同じだ。
「……偶然だよな」
白川という名字は珍しいには珍しいが、全国には何万人もいる。たまたま同じ学校に全く関係のない二人の白川がいても不自然ではない。
だけど、俺は知っている。紫奈先輩には再婚相手の妹がいることを。
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