第五話 先輩とファミレス

 紫奈先輩を連れてやってきたのは、渋谷駅からほど近いところにあるファミレスだった。


 三階建てのビルのテナントを居抜き物件として間借りしていて、一階はしゃぶしゃぶ。三階には焼肉屋がある。紫奈先輩は「しゃぶしゃぶか焼肉がいい!」とねだったが、そんなお金はない。


「ドリンクバーって、お店もお客も得する神システムじゃないかな」


 ドリンクバーでコーラをとってきた先輩は神妙な顔つきで言う。


「飲み物って原価は安いですけど、外で買うと高いですからね」


「そう! それだよ! 優斗君! 遊園地とかにある自販機で買うと一本でドリンクバー並みの値段するからね! でもこっちは飲み放題!」


 紫奈先輩は一気にコーラを飲み干して、またドリンクバーでジュースを取りに行く。今度はQooの白ブドウだ。


「だから私はファミレスが大好きなの!」


「さっきはしゃぶしゃぶと焼肉に浮気しかけてたじゃないですか」


「さっきはさっき、今は今。この瞬間の愛は本物だよ」


「たしか、しゃぶしゃぶの方には飲み放題があったような……しかも種類がここより豊富な」


「やっぱ時代はしゃぶしゃぶだよ! 茹で肉最高!」


「……先輩、将来は悪い男に捕まらないよう気をつけてくださいね」


「あれー? 嫉妬? 俺だけの紫奈が他の男に盗られちゃうーって」


「違います」


「顔真っ赤だぞー」


 紫奈先輩はニヤニヤと笑みを浮かべて、俺の頬を突く。

 ここでむきになって反論すれば先輩の思う壺だ。

 俺は短く否定して、逆に先輩に対して攻勢に出ることにした。


「先輩、俺に隠してることありませんか?」


「……なんのことかな?」


 紫奈先輩はあからさまに目を逸らした。

 コップの外側で結露してできた水滴が垂れ落ちる。


「体調が悪くなって途中で授業を抜けたんですよね?」


「名探偵くん、その証拠はいずこに?」


「証拠もなにも、顔色を見ればわかります」


 紫奈先輩は顔に出る。わかりやすいのが、紫奈先輩の良いところなんだ。


 その耽美な顔にも、あの時、たしかに疲れの色が浮かんでいたんだ。熱を帯びた頬は蒸気し、握る手は汗ばんでいた。それを隠すように、先輩は俺を先に更衣室へと押し出した。結構、ギリギリだったんだと思う。


「今はだいぶよくなってますけど、なにかあればすぐに言ってくださいね」


「……バレちゃったか」


 紫奈先輩は糸が切れたようにソファに体を預けて息を吐いた。そうして、困ったように笑う。紫奈先輩はよく笑うのも良いところだ。


「俺は先輩に過干渉したいわけじゃないです。屋上だけの付き合いで満ち足りていますし」


 紫奈先輩と同じように、俺も大多数の人と関わるのは苦手だ。

 今日の体育の授業後にクラスの男子に囲まれたりもしたが、やっぱり疲れる。


 気さくで良い人たちではあったけど、それはそれとして空気を読まなくてはならない。あらためて、紫奈先輩と過ごす屋上がどれほど居心地がよかったかを再認識した。


「ですが、その関係を続けるための気遣いはさせてください」


 どうしても切り出さずにはいられなかった。

 紫奈先輩はみんなの前で明るく振る舞うが、それは見え透いたから元気でしかない。

 ほつれた縫い目を切り裂き、飛び出た綿を押し込めているだけ。酷く不恰好だ。いつ限界が訪れてもおかしくない。


「……私ね、生まれつき体が弱いんだ」


 ちょうど注文した料理が運ばれてきたところで、紫奈先輩は訥々と語りはじめる。


「あ、でも運動は昔から得意なんだよ。小学生の時のマラソン大会じゃ男子を抜いて一位だったこともあるもんね」


 紫奈先輩が運動を得意としているのは、写真まで見せられたので知っている。

 ビワイチを軽々こなしていたのも嘘ではないようだ。


「引っ越したのもこっちにある病院で入院するためなの。入院してて学校に通えてなかったら、高校入学時には友達が誰もいなくなっちゃった。えへへ」


 紫奈先輩はにべもなく友達と疎遠になった事実を告げるが、きっとそんな軽く言っていい話じゃないはずだ。


「……」


 注文したアラビアータを頬張る。

 本来ならトマトの深いコクが広がるのに、味がしなかった。


 苦々しい事実を咀嚼して飲み込む。さっきまであった食欲も今やフォークを動かすことすら億劫になった。


 せめて「俺の前では本音を吐き出したっていいんですよ」と言えれば良かったが、世の中にはおいそれと首をつっこんではいけない話もある。

 なにも知らない俺だからこそ、先輩は安心できるのかもしれない。

 強張る喉から肝心の言葉は出てこなかった。


「はい、この話はもうおしまい。辛気臭い話ばっかりしてると料理がまずくなっちゃうよ! そんなの勿体ない!」


 紫奈先輩はぱんっと手を叩いた。

 とたんに夕方のファミレスのガヤガヤした喧騒とBGMが妙に耳に張りついた。


 俺たちは一番奥のボックス席に座っているため店内がよく見渡せるのだが、来た時には空いていた席がもう全部埋まっていて、入り口にある椅子では小さな女の子と男の子の兄妹が両親の膝に座って「まだかなー」としきりに店内の流れを伺っている。


「そのパスタ美味しそうだね。そっちにすればよかったかなあ? いやいや、でもこっちのカルボナーラも最高に美味しいんだよね!」


 紫奈先輩はカルボナーラに追いチーズ、追い飯という背徳感高めのアレンジを加えていた。

 卵とチーズのソースがご飯を黄色く染め上げ、洋風卵かけご飯みたいになっている。


「一口食べますか?」


 俺は血のように赤く滴るパスタをくるくる巻いたフォークを差し出す。


「食べる!」


 紫奈先輩は迷いなく俺が使っていたフォークにかぶりついた。


「んートマトソースのこの酸味! しかもちゃんと潰れたトマトも入ってる!」


 紫奈先輩は美味しそうに食レポする。

 口角をゆるめて、その光景を眺めていると、


「お返しに私のも」


 紫奈先輩は同じようにフォークを差し出した。

 俺も迷いなく飛びつく。


「どう?」


「先輩の味がします」


「っ」


 じっくり味わってそう言うと、紫奈先輩の顔がみるみると赤らんだ。


「あのね、優斗さ。そういう発言って、きもがられるからやめたほうがいいよ。私以外の女には」


「先輩がきもいと思わないんなら、それでいいです」


「いや、私もきもいとは思ってるよ」


 それから俺たちは会話を挟みつつ料理を楽しんだ。

 気づけば時間はあっという間に過ぎていき、会計を済ませたのは夜の八時を過ぎた頃だった。


「ふう」


 満腹になったお腹をさすりつつ、外へ出る。

 大型ビジョンに映る広告が目を引く渋谷駅ハチ公口前は、仕事帰りのサラリーマンでいっぱいだった。


「いやあ、満足満足。でも優斗のご飯を食べられなかったのだけは心残りかな?」


 きっとこういう言葉をかけられて、男はキャバクラにお金を落とすのだろうな。

 ……まあでも、先輩の餌係というなら悪くない。


「また明日、バイトの試作品を作ってきますよ。明日も明後日も、その次の日も。よろしくお願いしますね」


 そう言うと、紫奈先輩は満面の笑みを浮かべた。

 紫奈先輩の良いところは笑顔も最高に似合うところだろう。今日は紫奈先輩の良いとこを見つけてばかりだ。


「じゃーまたね! 今日は楽しかったよ!」


 紫奈先輩はこちらに手を振りながら雑踏の中に消えていった。

 夢現、幻のように、かすんだ目に映るぼんやりとした街の光の中に。


 紫奈先輩は不思議な人だ。

 俺は彼女の1%も知らない。海の深さよりも、宇宙の広さよりも謎めいている。


 

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