信じているもの、信じていたもの
びゅう、と風が強く吹いているのが
室内にいてもわかります。
窓から外を眺めると、
木々はうんうんとしなっていました。
現在台風は近畿あたりにあり、
場所によっては停電しているそうです。
ニュースも台風一色で、
一応神奈川にいるとは言えど
外に出ることは憚られました。
ミオ「…。」
ミオちゃんはというと、
リビングにあるソファを背に
何度見たであろう同じニュースを
ぼんやりと眺めています。
心ここに在らずといった感じです。
虚げな目には何が映っているのでしょう。
朝ごはんを食べ終え、
外に出ることもできないこんな日は
自然と段ボール箱や
鳥籠を思い浮かべます。
入院時もそうでしたが、
何かやりたいことがあるのに
できないというのは
どうにも苦しいものなのです。
気持ちが追いつかなかったり、
体が疲れている時だって
そういう状態に陥ります。
はたまた、何かしたいけど
何もやりたいことが浮かばない時だって
謎の虚無感に襲われるのです。
入院していた時は
混乱していたこともあったのでしょう。
何者でもない自分を認めてあげられなくて
悶々としている時間が
今よりもうんと長かったのです。
結華「ふう。」
結華がソファに遠慮なく座ります。
振動が起き、隣が埋もれていく
感覚がしました。
ミオちゃんも背もたれとして
使っていたソファは、
ゆるりと形を変えます。
居心地が悪そうに座り直しているのを
見逃しませんでした。
結華「もうお母さんたちは出た?」
悠里「うん。近くのスーパーだって。」
結華「了解。」
悠里「…。」
ミオ「…。」
結華「ミオ。地面に座ってて痛くないの?」
ミオ「全然平気。」
結華「ならいいんだけど…。」
悠里「せっかくならこっちおいでよ。」
ぽんぽんと結華の座った方とは
反対側を叩きます。
それでもミオちゃんは
首を僅かに振りました。
ここに座る気はないそうです。
少しばかりしょんぼりとしながら
テレビに目を向けると、
天気予報から明るげな
ワンコーナーへと移り変わっていました。
Twitterで話題になったニュースを
取り上げているようです。
ミオちゃんはやたら口数が少なく、
膝を抱え続けていました。
昨日もみんなで夕食を食べましたし、
一緒の部屋で3人並んで眠りました。
何にハマっているのかだとか
何が好きなのかだとか、
色々と話した記憶はあるのですが、
こう、いまいち覚えていないのです。
というのも、記憶に色濃く残っているのは
お姉さんのことをやたらと
意識しているということのみ。
やはり何を話すにも
お姉さんが関わってくるようです。
ミオちゃん自身が好きなこととは
一体何なのでしょう。
ミオちゃん自身、
一体何なのでしょう。
ミオ「…。」
悠里「帰りたい?」
ミオ「え?」
悠里「なんだか遠いところを見てるような気がして…。」
ミオ「…そりゃあ帰りたいよ。」
悠里「…。」
ミオ「でも、悠里ちゃんが1日待ってっていうから…。」
結華「そんなこと言ったんだ。」
悠里「うん。一応、色々確認しておいた方がいいかなと思ったの。」
結華「なるほど。」
結華はすぐに悟ったようで、
そうひと言だけ口にしました。
現在高校3年生の方の澪さんに
2年前、どのような行動を取ったのか、
私たちは何をするべきなのかを
聴く必要があるように思えたのです。
タイムパラドックスも何も
私たちは成り行きのままにしていれば
そんなことは起こらないと思ったのですが、
もしかしたら甘い考えなのかもしれないと
不意に感じることが多くなったのです。
もし私のせいでミオちゃんが
元の世界に戻れなかったら。
今いる澪さんが消えてしまったら。
そんなことになってほしくない。
自分の責任になるのが
嫌だとかそう思っているわけではなく、
数日間一緒に過ごしてきた
目の前にいるミオちゃんが、
悲しい出来事を経験するような事態には
したくないのです。
確かに危うい部分の多い人です。
だからと言って、嫌いなわけではありません。
なんと言えばいいのでしょうか。
よき友人だなと感じるのです。
そう。
私たちは友達なのです。
それ以上、助けることに
理由は必要でしょうか。
結華が家族だからとこうして私のことを
支えてくれているのと同様に、
友達だから助けたいのです。
…否、理由なんて必要ありませんね。
ただただ助けたいのです。
元の場所へ送り返して、
今の澪さんにも笑っていてほしい。
ミオ「…お姉ちゃん…。」
結華「…。」
どんなに大切なのでしょう。
テレビをつけていたとしても、
その音声は全くと言っていいほど
耳には入っていない様子です。
知ってる人が誰1人としていないなか
生活しなければならない
その心細さには共感します。
ふと真っ暗な、または真っ白な世界に
ぽつんと産み落とされるのです。
誰を頼るにも、私は私として見られず
必ず幻影を見ます。
私の過去を見ます。
私と比較して、ここが違う、あそこが違うと
ためらった反応をするのです。
ミオちゃんも境遇は似ているのでしょう。
ましてや、相当強く意識している
お姉さんの存在が近くにいない。
自分の片割れが
なくなったようなものです。
自分の大部分が欠けてしまった今、
ミオちゃんを模るものは
ほぼなくなっているも同義なのです。
欠けてしまっているのです。
本当に、2年前へと戻してしまって
いいのでしょうか…?
結華「暇だね。」
悠里「…そうだねぇ。」
結華は何も考えていないのでしょうか、
それとも、場の空気を少しでも
変えようとしてくれたのでしょうか。
そう伸びやかに呟いていました。
結華は私の記憶が無くなる前は
どのような性格をしていたのか
今の私には知ることはできません。
知ることができるのは
今の結華だけです。
結華の友人に聞けば
ある程度はわかるかもしれません。
しかし、家でしか見せない顔だって
数多あったことでしょう。
今の私には気を遣っていないか
心配することが何度もありました。
結華「何かしよう、暇すぎて腐っちゃう。」
悠里「外に出なくてもできることはたくさんあるもんね。」
ミオ「…。」
結華「ゲームとかは?」
悠里「今のところやったことないからなぁ…。」
結華「うーん、ミオもスマホは使えないし…複数人だと難しいか…。」
悠里「ボードゲームとかはあったっけ?」
結華「探せばあるかな。あー、でもオセロとか将棋とかしかなかったはず。」
悠里「人生ゲームとかないの?」
結華「ないない。うちでは見たことがない。」
悠里「そんなー…。」
ずっとここに住んでいる
結華がそういうのですから、
ないものはないのでしょう。
3人で遊ぶにも、順番を回せば
何ともないのでしょうが、
折角であればみんなで何かをしたい。
ミオちゃんを元気づけられるような
何かをしたいと思うのです。
うんうんと唸っていると、
ミオちゃんは気を遣われていることに
居心地が悪くなってきたのか、
再度座り直しながら
眼鏡を拭き始めました。
何が。
何ができるのでしょう。
まず私は何をしたいのでしょう。
…。
お姉さんから離れることが
幸福だと言いたいわけではありません。
ただ、お姉さんを意識しすぎて
しまっているような気がするのです。
しかし、この前会った澪さんは
そんな雰囲気はあったでしょうか?
今とは大きく異なっているように思います。
例えば眼鏡をしていないことだとか、
髪の毛を伸ばして巻いていたことだとか。
外見だけでも多く異なっていますし、
何より話し方が
方言だったような気がします。
何かしらきっかけがあって
外見に気を遣うようになったのは
考えやすいのですが、
言葉遣いはどうにも考えづらい。
それこそ方言を使わないよう
自制するようになったと言えば
そうとしか言いようはありませんが…。
しかし、先日このようなことを
言っていませんでしたっけ。
°°°°°
ミオ「元々は福岡にいたんだよ。」
悠里「へえ!でも方言ってあまり言わないよね。」
ミオ「うん、気をつけてるの。お姉ちゃんが綺麗な標準語使うんだよ。一瞬で方言とも切り替えられて、すごいなあって。」
悠里「そっか。じゃあミオちゃんの行動の軸はお姉さんにあるみたいな感じなんだ。」
ミオ「そう!」
°°°°°
姉を…意識しなくなった?
そのきっかけはもしかして
この数日間にあるのでしょうか?
ともなれば、私たちが何かを
したということ…もしくは
何かをしなければならないということです。
気分の入れ替え的な
ものなのかもしれませんが、
行動の軸がお姉さんでは
なくなったということだと
仮定している自分がいました。
結華「何か考え事?眉間に皺寄ってる。」
悠里「え?あ、そんな顔してた?」
結華「してたしてた。ムッとしてたよ。」
悠里「やだやだ、気をつけよう…。」
結華「んー、何しよっかな。」
結華は何でもないことのように
またそう口にしました。
このままテレビを見続けるにも
勿体無い気がするのです。
ともなれば何かをする他ありません。
考えを巡らしていると
ここ数日間で自分が何をしていたのか
振り返り始めていました。
入院している間は本を読んだり
スマホゲームを入れて遊んでみては
すぐ消して見たりしました。
退院してからはまだ数日ですが
教科書を開いたり…。
あ、そうだ。
ふと思い立ち、
ミオちゃんの手を引きました。
悠里「音楽聞かない?」
ミオ「え。」
悠里「今日の朝、みんなが起きる前に動画を漁ってたら良さそうなものをいくつか見つけたんだ。」
結華「そうなの?ボカロ?」
悠里「それもあるし、邦楽もあるよ。」
だから、行こ。
私が手を離すことはなさそうだと
妙に悟ってしまったのか、
ミオちゃんは仕方なさげに重たい腰を
上げていました。
ミオ「わかった、聞く。」
悠里「やったあ!」
ミオちゃんの手を引いたまま
自分の部屋へと向かいます。
充電器に繋いだままの
スマホを手に取ると、
随分と前に充電し終わっていたのか
ひんやりとしていました。
みんなで床に寝転がり、
部屋にあった本や
少しばかりお父さんが持っていた
漫画を持ち出しながら
スマホを操作して曲を流します。
今朝は爽快な音を聞きたかったので、
再生リストには鮮やかな青色が
瞼の奥に浮かぶようなものばかり。
悠里「…。」
結華「あ、この曲いいね。」
悠里「でしょ。」
結華「昨日出た曲なんだ。」
悠里「そう!インディーズっていうのかな、まだ有名ってわけじゃないんだけど、だんだん知名度が上がってきてるんだ。」
結華「へえ、私もチェックしとこ。」
ミオ「2人はよく音楽を聴くの?」
悠里「うん、最近は特に聞いてる!」
結華「私は気が向いたらって感じ。」
悠里「ええー、私よりたくさん聞いてるよ。」
結華「1曲を長くリピートするタイプで、新曲を広く聞かないんだよね。時間で言えば私、種類で言えば悠里の方が強い。」
悠里「えへへ、そうかなぁ。」
と結華は言ってくれていますが、
実際のところは聞いたことの
ある曲すら忘れているもので、
この数日間の統計上での
話だということは私にもわかりました。
ミオちゃんは素直に
「そうなんだ」とやんわり頷いています。
いくつかの曲が流れ、
次の動画のおすすめでは
見たことのないものが数多
浮かび上がっていました。
悠里「これ、次に再生していい?」
ミオ「うん。」
結華「お好きに。」
悠里「ありがとう!」
それは桃色のサムネイルで、
可愛らしい女の子が
こちらに向かって満面の笑みを
向けているものでした。
曲が始まると同時に
淑やかな音が並びます。
悲しく切ない曲なのかな、と思うも束の間。
一気にドラムが入り、
絶対負けないぞと言った強く逞しい
音の羅列へと変化しました。
帰り道に急な雨が降ってしまい、
しょんぼりとしていた女の子。
ふと足を止めてしまいますが、
その子は考えるのです。
制服だってびしょびしょ、
鞄だって雨が染みた。
ならもう捨てるものはない、と。
水たまりにローファーのまま突っ込みます。
いっそのこと楽しんでしまえ、
こんな雨なんかに負けてたまるか。
逆境すらも楽しんだもん勝ちだ。
女の子は傘も差さずに
スキップをするところまで
脳裏に浮かびます。
ミオ「これ…。」
悠里「…?」
ミオ「これ、好きかも。」
悠里「本当!」
ミオ「うん、なんかかっこいい。」
それは、初めてミオちゃんが
好きと言ったもののような気がしました。
動画から目を離し
ミオちゃんのほうをじっと見つめていると
視線に気づいたのかこちらを見ました。
ミオ「…?何かついてた?」
悠里「ううん、ただちょっと嬉しくって。」
ミオ「嬉しい…?」
悠里「うん!…あのね、余計なお世話かもしれないけど聞いて欲しいんだ。」
ミオ「…?」
ミオちゃんはきょとんとした顔のまま
体をこちらに向けることなく
顔だけを向けていました。
面と向かうことは久しいような、
そもそも初めてのようにすら思い、
気恥ずかしくて髪を手櫛でときました。
悠里「…その、ミオちゃんの好きなものを大切にしてほしいんだ。」
ミオ「好きなもの…。」
悠里「そう。これまでの話を聞いてるとね、お姉さんがどうしても紐づいて出てきてる気がしたの。」
ミオ「あ……。」
悠里「それが駄目ってことでも、煩いとかうざいとか思ってるってことでもないの。それだけは誤解しないでね。」
ミオ「うん。」
悠里「ただね、ふと思うんだ。ミオちゃん自身が好きなものって何だろうって。何をしてる時、何を食べてる時、何を考えてる時、ミオちゃんは楽しいんだろうって。」
ミオ「…。」
悠里「今はまだわからないかもしれない。」
私にだってわかりません。
わからないなりに頑張ってる、
いろいろなことに触れて、知って、
確かな感触を探しているんです。
だからあなたもきっと。
悠里「でも、いつか見つかるよ。」
ミオ「…そうかな。」
悠里「うん。だから、そうだなぁ…お姉さんを意識しすぎなくてもいいと思うよ。」
ミオ「……。」
悠里「ミオちゃんはミオちゃんだからね。」
ミオ「……私ね。」
ミオちゃんはいつのまにか俯き、
その動画の終わりを見届けました。
曲は終わってしまい、
次の動画が自動で再生されます。
次の曲も元気の湧く音でした。
ミオ「お姉ちゃんみたいにならなきゃって思ってるところが強かったの、自分でもわかってた。」
結華「そうなんだ。」
ミオ「うん。親が姉妹間で隔たりなく接しようと頑張ってたのは分かる、伝わってた。」
悠里「…。」
ミオ「でも、実際姉の方が勉強もできて人当たりもいい。だから、そこに差が生じてたんだ。」
悠里「そうだったんだ。」
ミオ「いい人なんだよ、みんな。だからこそ、誰も悪くないっていうか…。」
悠里「優しいんだね。」
ミオ「…そういうことじゃないような気がするけど……。」
悠里「ううん、ミオちゃんはものすごく優しい。いろいろな人の視点で考えられるんだよ。それってものすごく素敵なことだよ。」
ミオ「…。」
悠里「確かに目に見えることも大切な時はある。偏差値とか、所属するコミュニティの多さとか。」
ミオ「…うん。」
悠里「でもそれ以上に、見えないものが大切になる時だってある。数値では表せないようなもののほうがむしろ大切なことがある。」
それは、かつて結華が
教えてくれたことでした。
前の私は人気者だったと聞きます。
友達は多く、成績も悪くなかったと。
しかし、悪い奴だったと聞きました。
それでは、私の考えとしては
ぴったりとは当てはまらなかったのです。
悠里「ミオちゃんはね、他人とは比べられない素敵なものを持ってるよ。」
素敵、と称されるには
別の何かがあるからこそ
そう言われるのであって、
ひとつだけだとなかなかそうとは言いません。
他人とは比べられないと言いつつ
矛盾を孕んでいました。
しかし、ニュアンスが
伝わればそれでいいと、
伝わってほしいと願いながら口にします。
ミオちゃんは優しいのです。
優しさに大きさも強さもなく、
それは比較できないものだと
私は思っています。
ミオちゃんはそっと
タブレットに手を伸ばし、
ひとつ前の、好きだと言った曲を
再度流し始めました。
ミオ「…いいのかな。」
ぽつり。
お天気雨のような声でした。
そこには音楽がありました。
ミオ「自分の好きを持ってみても、自分は自分だって意識してもいいのかな…。」
結華「…。」
ミオ「…お姉ちゃんになろうとしなくても…」
悠里「もちろん!」
ぎゅっとミオちゃんの手を握りしめ、
両手で包むように手を取りました。
思わずとった行動に
ミオちゃんも驚いたようで、
目を丸くしてこちらを見ていました。
悠里「だってミオちゃんはミオちゃんなんだから!」
ミオ「…!」
ミオちゃんは目を丸くしていましたが、
更に大きく目を見開いて、
やがてゆっくりと元に戻っていきました。
そして、またぽつりと。
ミオ「ありがとう。」
そう言ったのです。
私よ心の中にあった鎖も
緩やかに溶けて解れるような、
からんとした音が響きました。
それからはみんなで
たくさん曲を聴いては
再生リストに詰め込んでいきました。
たった数日の間に溢れるほど
詰め込まれた再生リストは、
私たちだけの宝物のようでした。
クーラーの効いた部屋で
ごろごろと過ごしていると
時間は止まったかのように思われました。
テレビはつけたままにし、
扉を開きっぱなしにしていることで
僅かながら人の声がしてきます。
このささやかなノイズが
また心地よく、夏を彷彿とさせます。
寝転がっているにも
肘が痛くなってきてしまい、
横にこてんと転がったり
時には座ったりと体制を変えました。
どのくらい経ったでしょう。
1冊の本を読み終わるか終わらないかと
言ったところで、
小さくながら寝息が
聞こえてくるのでした。
見てみると、ミオちゃんがカーペットの上で
横になったまま眠っています。
結華「寝ちゃったね。」
悠里「うん。タオルケットかけてあげよっか。」
結華「そうだね。」
いつもよりと数トーン落として
聞こえてくる結華の声。
タオルケットをとり、
そっとミオちゃんにかけてあげました。
3人いるのに、
ここには2人しかいないような
不思議な感覚に見舞われます。
しかし、それは居心地が
悪いわけではありません。
むしろ逆です。
言葉がなくとも居心地は
悪くならないのです。
安心し切った空気の中、
ぱたんと本を閉じる音がしました。
結華が漫画を閉じたようでした。
結華「あのさ。」
悠里「ん?」
あと数ページで終わるところで、
ゆっくりと顔を上げました。
結華「話したいことがあるの。」
悠里「何?」
結華「悠里、音楽は好き?」
悠里「え?うん、好きだよ。」
結華「どのくらい好き?」
どのくらい。
それは表せるものなのでしょうか。
優しさと一緒で
一概には言えないのでは
ないでしょうか?
悠里「ものすごく。」
結華「そっか。」
結果曖昧な答えにはなってしまいましたが、
結華は納得したのか
閉じた漫画を隣の床に置きました。
ひとつ、彼女が深呼吸しました。
決意を固めたような、
そんな神妙な面持ちでした。
結華「悠里。」
結華はこちらをじっと見つめます。
本に栞がわりとして指を挟み、
私も自然と本を閉じていました。
しんしんと降り積もる時間。
ですが一瞬、本当に時が
止まってしまったかのようでした。
ぴたりと止まっては
何もかも微動だにして
いなかったように見えたのです。
結華「吹奏楽部に入ってみない?」
悠里「…吹奏楽部…。」
結華「そう。学校の吹奏楽。」
悠里「…でも、トランペットなんて触ったことないし…」
結華「あのケースの中、見たんだ。」
悠里「あっ。」
結華「それだけ無意識のうちに音楽を意識してるってことだよ。」
悠里「…。」
結華「…何か引っ掛かるの?」
悠里「………。」
結華「悠」
悠里「それは、私への提案…?」
結華「…?」
悠里「それとも、昔の私への呼びかけ…?」
結華「…!」
結華はミオちゃんほどではありませんが
息を呑んで目を見開いているのが
わかりました。
どうやら図星だった部分もあるようです。
結華「…前までの悠里の面影を見てることは、否定はできない。」
悠里「でも最低な人だったんでしょ?」
結華「それも否定しない。でも、音楽がずっと好きで、それに一途だったことは尊敬してた。」
悠里「…。」
結華「…けどそんな理由は些細なことでしかないの。」
悠里「じゃあ本当の理由は何…?」
結華「本当の…。」
結華は膝の上で手を
ぎゅっと握っていました。
そして、やや俯いていうのです。
刹那、雲の合間から差し込む
柔らかなひかりが
部屋へと積もっていきました。
結華「…もう1度、悠里と音楽がしたい。」
悠里「昔は歌ってみた動画を上げてたんだっけ。」
結華「そう。でももうそれはできないから…その他の場所で、学校でやりたいの。」
悠里「え、でも結華って部活は…。」
結華「入ってない。だから、私も吹奏楽部に入る。」
悠里「えっ。」
今度は私が驚く番でした。
結華は確か、聴いた話によると
昔は絵を描いていて、
楽器をしたことがあるなんて話は
聴いたことがありません。
悠里「でも、私…吹奏楽部なんて…。楽器、吹いたことないよ。」
結華「私もない。…ってか、私の方がない。」
悠里「…。」
結華「昔の悠里を知っている人が沢山いる中、1人で突っ込んでいくのは大変だと思う。だから、その時の手伝いもできればなと思った。」
悠里「…私も、音楽やりたいよ。」
結華「…。」
悠里「でも、それはどうしても昔の私を見てるからじゃないのかなって…不安になる。」
私は今の私しか知らない。
昔のことを話されても、
全く知らない赤の他人の話を
自分のこととして聞かされている。
そんな気持ちになるのです。
まるでその人になれと
要求されているような
気がしてしまって。
きっとそれがミオちゃんに対して
抱いていた感情につながっていたのです。
自分と同じような苦しみを
味わって欲しくなかったのです。
誰かのようになれと言われるのは
どう頑張っても心が疲れて、
苦しくなってしまいますから。
どう足掻いてもあなたと私は違うのに
あちらの方が優れているからと
自分のことを否定するかのように
話されるのは、
とてつもなく苦しいですから。
好きなことも全て無視して、
自分を失くすように言われるのは…。
結華から目を離そうとした時、
彼女はふと口を開きました。
結華「私はずっと今の悠里と話をしてる。」
悠里「…っ!」
結華「現実的なことを考えると、昔の悠里を知っている人だとか、そういう単語は出てきてしまう。でも、決して前と同じ人になってほしいわけじゃない。」
結華は必死に続けます。
結華「私は今の悠里と音楽をしたい。だからこうやって提案をしてるの。」
悠里「…。」
結華「別に前と同じことをしてたっていいじゃん。してる人は別の人なんだよ。」
悠里「…。」
結華「悠里はどうしたい?」
あ。
また、そうやって。
そうやって聞くんだ。
°°°°°
悠里「どうかしたの?」
結華「…悠里は、記憶、取り戻したい?」
悠里「…。」
結華「…好きに決めて。」
°°°°°
結華「好きに決めて。」
まるで私に意見を丸投げして
責任を取らないようにも
聞こえてしまうでしょう。
しかし、結華は違うのです。
私に自由に選択肢を与えているのです。
本当の意味で自由でいいと、
私を新しく模ってもいいのだと
言ってくれているのです。
悠里「…わかった。」
ひとつ、間を空けます。
間には寝息がひとつ挟まりました。
悠里「私、音楽やりたい。もっと知ってみたい。」
雲は完全にどこかへと
消えてしまったのでしょうか。
光はずっと部屋に振り続け、
隅を照らし続けました。
その微かな光は、
まるでこれから先のことを
写しているようで、
心が温かくなります。
今の私の選択を
受け入れてくれているように見えたのです。
結華「…よかった。」
結華は嬉しそうに、
口元を綻ばせていたのでした。
***
三門の家にはありがたいことに
夕方ぐらいまで居させてもらい、
そこから今度は国方の家へと向かった。
三門が隣にいる中
国方に連絡をつけろと半ば脅され、
もう半分は面白半分で
結局連絡することになった。
4月当初にレクリエーションの件で
結華やらと集まって
話したことはあるものの、
当時の国方とは別人になっている。
世界線が変わったやら、
別の世界線と入れ替わったやらで
今の国方にはその記憶がない。
本当に知り合いですらない
ただの他人なのだ。
そんな人に連絡しても
いい返事はもらえないだろう。
諦めながらも連絡してみると、
予想とは真逆でけろっと
「いいよ」と返事が来た。
これには三門もはしゃいでいた。
何故三門がはしゃぐのか、と
ずっと疑問に感じたほどに。
楽しんでおいで、と言われ
送り出されたはいいものの、
こちらは楽しんで人の家を
跨いでいるわけではない。
3、4日目ともなれば
体に疲労が溜まってくる。
今日できっと人の家を伝うのは
最後になるはず。
そう考えながらインターホンを鳴らす。
すると、目の前の扉が開き、
ショートカットの女の子が
…国方が顔を出した。
茉莉「あ、どうも。」
澪「どうも。急にごめんな。」
茉莉「夏休みで暇だったし全然大丈夫です。」
どうぞ、と家に通される。
うちは促されるがままに
家の中へと入っていった。
Twitterで見かけたのだが
国方はどうやらお兄さんと
二人暮らしをしているらしい。
似たような境遇だなと
親近感を覚える部分があった。
家の中は高田の家と
似たような作りだった。
お兄さんの部屋もある分
少し広めになっている。
茉莉「夜ご飯すぐ食べますー?」
澪「ああ、そうしようかいな。」
茉莉「りょーかいー。」
澪「手伝うことある?」
茉莉「昨日作り置きしたカレーがあるからそれでいいっすか?」
澪「うん。…料理できるんやな。」
茉莉「あ、いや、作ったのはにーちゃん。」
澪「ああ、そうなんや。」
茉莉「茉莉は料理できないんで。あ、でもカップラーメンはいける。」
澪「…それは誰でもいけるな。」
茉莉「作るって言わないか。」
澪「うん。」
茉莉「くそう。」
国方は眠そうな顔はしつつも
真面目なのだろうと思っている節があった。
Twitterを見るかぎりは
ゲームばかりしているけれど、
いつも1番上のランクまで
上がっているのをみるあたり
腕前はそこそこにあるのだろう。
上位を取ろうと必死になっている、
夢中になっている姿が見えた。
他にも、彼女は成山ヶ丘高校に
入学している点から
そう思うことが多い。
何せ勉強を頑張らなければ
あの高校には入れないのだから。
が、実際会ってみれば
うちから見れば少しばかり小さい
ただの女の子でしかない。
きっちり敬語を使いそうだなとすら
勝手に思っていたのだが
そんなことはなく、
むしろ砕けている。
三門といい国方といい、
敬語を使わない方が
勉強はできるなんて理論が
あるのかと思ってしまう。
レンジで温めているのを
ぼうっと眺める。
段々とカレーの匂いが充満した。
茉莉「あ、やべ。」
澪「どうしたと。」
茉莉「米がねえ。」
澪「あーあ。」
茉莉「パンでいいすか?」
澪「よかよ。」
茉莉「うし、よかったー生きたー。」
国方は平坦な声でそう言った。
感情が読み取りづらいなとすら思う。
澪「国方ってさ。」
茉莉「はい。」
澪「敬語苦手?」
茉莉「あー、うん。なんか抜けるんすよねー。」
澪「タメでよかよ。」
茉莉「まじすか先輩。」
澪「先輩ってことは知っとるんや。」
茉莉「何かねー、三門さんって人が教えてくれた。」
あいついつの間に。
DMやら何やら使って
前情報を送っておいたのだろう。
昨日話したことまで
全部筒抜けでないことを
祈るしかない。
澪「他にも何か聞いとう?」
茉莉「家出中で転々としてることくらい?」
澪「それも知っとるんや。」
茉莉「うん。どうすか、楽しい?」
澪「…正直疲れたわ。」
茉莉「あーね。布団違うと寝づらいとかあるよね。」
澪「それもそうやし、普段一緒におらんような人とずっとおるもんで、1人の時間がないのが大変やな。」
茉莉「茉莉は空気と思っていただいて。」
澪「ええんやそれで。」
茉莉「え、そういうもんじゃないの?」
澪「昨日と一昨日泊まらせてもらった人たちはみんな賑やかで、むしろ夜を明かすまで話そうぜって感じやったんよ。」
茉莉「うげ、茉莉は無理だー。」
澪「はは、そうけ。」
茉莉「疲れる疲れる、茉莉も1人の時間好きだしわかる。」
澪「じゃあ今日は悪いことしたな。」
茉莉「あー、泊まりに来たこと?全然。茉莉、空気空気。」
澪「うちが空気になってないと意味ないっちゃない?」
茉莉「頭よっ。じゃあ2人とも空気空気。」
国方はフランスパンを切って
お皿に乗せながら
そう言っていた。
結局キッチン横で立って
その様子を眺めていたのだが、
フランスパンに見覚えがあり
国方の方へと近づいていった。
澪「それ…。」
茉莉「フランスパン。」
澪「いや、それはそうなんやけど。そこのパン屋さん、うちもよく行ってたわ。」
昔の記憶。
もう2年以上は前のこと。
それこそ、うちが2年後へと
タイムスリップする前までのこと。
姉とよくこのパン屋に行っていたのだ。
家の近くにあるもので、
朝ごはんがない時は決まって
2人で散歩しながら買いに行った。
茉莉「そーなんだ。これ、ちょっと離れたところにあるんだけど、にーちゃんのバイト先が近くって買ってきてくれた。」
澪「美味しいよな、そこ。」
茉莉「うん。ここの塩バターパン好き。」
澪「マニアックやな。」
茉莉「絶対他にもファンいるって。同担可。」
国方は訳のわからないことを言いながら
今度はカレーを注いでいた。
彼女は何とも不思議な生き物で、
これまで出会った人の中には
いないような存在だった。
仲良くなったことのない系統だった
といえば正しいだろうか。
良くも悪くも少しばかり
感覚がずれているようで、
話していても変に気を張るだけ
無駄だと実感していく。
国方自身が最初から
気を抜いているからだろう。
こちらが気を張っていたって
それに呼応するものがないのだ。
飾り気がないといえば
いいのだろうか。
高田や三門とも違ったラフさが
ちょうどよかった。
素が似ているのかもしれない。
夕飯を食べている間、
これまで泊まった家同様
テレビがつけられた。
三門や高田はテレビを見ながら
きゃっきゃっと騒いだり
あれこれ意見したりしていたのだが、
国方は前例とは異なり
ただ黙々とご飯を食べていた。
テレビは見るものではなく
あくまで生活音の一つとして、
無音を消すためにつけているようだった。
あえてノイズを作っている。
それで気を紛らわせている。
そのように感じた。
うちも別に話すことはないと思い、
口を開いてもご飯を詰め込むだけだった。
久しぶりに食べたフランスパンが
香ばしくって記憶の隅が
常に焼かれているような気持ちになった。
そのまましばらくテレビを見て
のんびりと過ごした。
国方は本当に空気のようで
近くに寝転がってゲームをしていた。
夜も更けてきたのでお風呂もいただき、
濡れた髪をそのままにぼうっとしていると
国方がフェイスタオルを渡してきた。
乾かせと言うのではなく
タオルを渡すあたり、
髪を乾かす習慣が
ないのだろうなと思う。
彼女がお風呂に入っている間
スマホを眺めていた。
この家でをしている間、
あえてツイートはしていなかった。
それこそ、もし何しらの手違いで
姉がうちのツイートを見つけてしまったら。
そう思うとどうしても嫌で
何も言わなかったのだ。
姉は私のことを
何とも思っていないから
…いらないやつだと思っているから
警察には連絡しないだろう。
清々しているのかもしれない。
うちだって家出して清々している。
お互い近くにいない方がよかったのだ。
そんなことを思っていると、
不意にスマホがぐらぐらと揺れた。
何かと思って見て見れば、
マナーモードのままのスマホに
電話が来ていた。
名前にはしっかりと
悠里と映し出されている。
そういえば2回目だっただろうか、
お見舞いに行く中で連絡先を
交換したのだった。
想起する間の数秒を経て
電話に出ることにした。
澪「もしもし。」
悠里『あ、もしもし。澪さん?』
澪「そうやけど。何かあったと?」
電話なんて珍しい。
大体であればTwitterやDM等
文字の連絡で事足りるはずなのだ。
なのに電話とは、
一時すら大切になる場面なのだろうか。
それにしては悠里は
焦っていないような声をしている。
悠里『ごめんね、急に。聞きたいことがあったの。』
澪「何や?」
悠里『その…今、もう1人のミオちゃんがいるってことは…知ってる?』
側から聞けば何を言っているんだ
この人は、と思うのかもしれない。
しかし、うちには確と理解できた。
澪「知っとる。そのために家出しとるんやから。」
悠里『え、家出してるの!?』
澪「そうや。」
悠里『そっか…。』
澪「聞きたかったのはそのことだけと?」
悠里『ううん、もうひとつ…。』
悠里は声を落とし、
何だか落ち込むように言った。
悠里『ミオちゃんがね、お姉さんに会いたいんだって…。』
どくん、と心臓が脈打つ。
ああ。
そんなこと、言っていたっけ。
悠里『それでね、澪さんが2年前、何をしていたのか聞きたいの。お姉さんと会わせていいかどうか…聞きたいの。』
ああ、そうだ。
そうだった。
そのせいであの出来事が起きたのだ。
会わせていいかどうか。
会わせた方がいいかどうか。
それで考えると答えはNOだ。
理由は明快。
タイムパラドックスがどうこうという
理由ではなく、もっと簡単で、複雑で。
ただし、起きたことを、
体験したことをそのまま言うのであれば。
澪「…うちは2年前、未来の姉におうたよ。」
悠里『…えっ。』
澪「家まで行って、鍵は一緒やったから入れたと。家には姉がおった。」
悠里『…そっか、ありがとう。』
澪「会わせるつもりなん?」
悠里『うん、澪さんが体験したなら同じことをしなくちゃ、今の澪さんがどうなっちゃうかわからないもん。』
それに、2年前のミオちゃんが
帰れるかどうかもわからないし。
そう付け加えていた。
澪「…あとは頼むな。」
悠里『…!うん、任せて!』
そう元気な声が聞こえてきては
ぷちり、と電話が切れた。
ふう、と息を吐く。
あの日、姉と会わない方が
よかったことも数多ある。
しかし、あったことで
今のうちがある。
…今のうちは、自分に満足
しているのだろうか。
あの時家に帰っていなかったらと
後悔しているのではないか?
悶々と思考が巡る中、
近づく気配に気づかなかった。
茉莉「未来の姉ってどーゆーこと?」
澪「…っ!?」
茉莉「あ、ごめん。聞こえちゃって。」
濡れた髪をフェイスタオルで
ぼさぼさと拭きながらそう言っていた。
本当に空気なのかと思うほど
存在感を感じなかったもので、
びくりと体が震え上がった。
茉莉「驚かせるつもりじゃなかったんだけど…。」
澪「…どこから聞いてたん?」
茉莉「もしもしー、からかな。」
澪「最初やんか…。」
茉莉「ねね、どーゆーことなの?」
もう1度ため息を吐こうとするも
国方は冷蔵庫からペットボトルに入った
お茶を持ち出しては隣に座った。
飲む?とペットボトルを傾けられると
それどころじゃなく首を振る。
…話さない方がいいことなのだろう。
けれど、国方は話さずとも
「話したくないことくらいあるよね」
なんて言って何もなかったことに
してくれるだろう。
これまで誰にも話してこなかった靄を
吐き出してもいいのだろうか。
彼女であれば、受け止めてくれるのだろうか。
澪「うちが頭おかしくなったと思わんと?」
茉莉「うーん、茉莉にも変なことが起こってた時あるし、別にかなあ。」
澪「変なこと…4月の?」
茉莉「4月、5月だっけ。茉莉が音楽作ってたことにされたんだよね。んで、なんか所属してたらしい音楽グループが解散してさ。」
澪「なんか文章書いとったよな。」
茉莉「そーそー。わけわかんなかったけどとりあえずそれっぽく書いた。」
…きっと本来であれば
それっぽく書いたなんて言わないのだろう。
元の国方が解散するとなれば
心を込めて綴っていただろう。
そもそもグループは解散
していなかったかもしれない。
奴村の声が出なくなったという
文面も見たため、
存続していたかは不確かだが。
茉莉「だから変なことが起こっても否定はしないかな。」
澪「大人やな。」
茉莉「歳の割にってよく言われる。」
澪「大学生と話しとる気分や。」
茉莉「まだ高1だよ。」
当然のことを言っただけだが、
それを呟く彼女は
どこか憂いているようにも見えた。
ふと、自然と口が開く。
澪「うち、タイムスリップしたことがあるんよ。」
茉莉「すげー。」
澪「2年前…2021年のお盆から、2023年のお盆に。」
茉莉「今じゃん。」
澪「そう。今、うちが2人おる状態になっとるってこと。」
茉莉「へえ。2年前、何がきっかけで?」
澪「…さっき話したパン屋さんあったやん?あのお店の前で変な風を感じて、ふと気がついたら移動してたんよ。」
茉莉「2年ってさ、タイムスリップしてすぐわかるもんなの?」
澪「2年前はコロナ禍で街中に人なんておらんかったし、みんなマスクをしてた。そうせんことなんて考えられんかったやん?」
茉莉「おー、懐かしい。それでわかったんだ。」
澪「そう。で、おろおろ歩いてたらとある人に会って、数日間家に泊めてもらった。」
茉莉「今、2年前の篠田さんはどっかで泊まってるんだ。あ、それで家出?」
澪「そう。うちが会わんようにするために。」
茉莉「でもさ、2年前の自分に家に帰るなって伝えとけば家出しなくてよかったんじゃないの?」
澪「それがそう簡単な話でもないんよ。」
茉莉「…?」
澪「うちは家に帰ったんよ。…多分最終日だけやったけど。」
茉莉「帰っちゃったの?」
澪「うん。帰りたいって、どうしても不安で不安で仕方なかったんやと思う。駄々を捏ねた。」
茉莉「それで、さっきの電話かぁ。」
澪「ようそこまで繋げられるな。」
茉莉「あれ、違った?」
澪「いや、合っとる。さっきの電話はうちを家に帰らせていいかの確認。」
茉莉「んで、家に帰って…それから元の世界に戻れてハッピーエンドか。」
澪「そうやったらよかったよ。」
茉莉「…?」
澪「そうやったらね。」
ゆっくりと口を開く。
鍵のかかった家に入り、
足音をさせないように進む。
あの夏の日、クーラーの効いた部屋。
リビングに姉の姿はない。
姉の部屋かな。
そう思い、ふと半開きになった扉の奥に
姉の背中が目に入った。
…電話をしているようだった。
そう。
今でも鮮明に思い出せる。
声が出なくなるほど、
息が苦しくなるほど。
あの冷えた空気の中、
逃げ出してしまったあの日を。
°°°°°
お姉ちゃんは誰かと電話をしているようで
うちが帰ってきてることに
気づかんかった。
足音を立ててなかったにしろ、
鍵を開けた音で気づくんじゃないかって
疑問には思ってたっけ。
でも、それくらい熱中して
話しとるんやろうな、くらいに
おもっとったんよ。
話の邪魔をしちゃいけないと思って
話が終わるのを待とうとした。
テレビもついてない家の中で、
姉の背をずっと眺めるだけ。
声なんて筒抜けで全て聞こえてた。
雫「あーあ、あんな妹要らないのよね。」
え。
一瞬にして息が詰まるのがわかった。
それまではずっと仲良く暮らしていて、
うち自身姉のことは大好きだったし、
姉もうちのことを
好いていてくれていることをわかってた。
それなのに。
雫「いっつも引っ付いてきて私の真似ばっかり。」
それなのに、
突き放すようなことばかり。
雫「こっちの身にもなって見てほしいわ。あんな不出来な妹がいると私の価値が下がるってわからないのかしら。」
まだ、いくつか言っていた
気がするけれど、
うちが覚えているのはそれくらいだった。
どれも聞いても酷い言葉ばかり。
そう思ってたんだ、
長い間一緒にいて、
そう思ってたんだって…。
雫「あんなやつ、さっさと消えればいいのに。」
そう思ってたんだって…。
°°°°°
澪「…今度は元の世界に戻りたくないって思ったけど、うちが離れれば全て済む話だなと思った。」
茉莉「…戻れた?」
澪「戻れたよ。翌日から姉に冷たい態度を取り続けた。今やってそう。ひと言も話さんし、自分のことは自分でするようになった。姉の後なんて追わんくなったし、姉のことが視界に入るたびに苛立つようになった。」
国方はだんまりとしたまま
ペットボトルのお茶を飲んだ。
リラックスしてるようにすら見えてしまった。
澪「姉を意識して真面目振ろうと思って髪をボブにしてたけどうんと伸ばして、外見からがらりと変えた。標準語を使う姉に反発するように方言だって使うようになった。」
茉莉「全部変わったんだ。」
澪「そうやね。それから…。」
ここまでは言わなくて
よかったのかもしれない。
けれど、口が、頭が止まってくれなかった。
澪「真面目を装う人間が皆嫌いになった。信じられんくなった。表でいい顔してるやつは皆、裏ではそう思っとるんやって。」
茉莉「…へえ。」
澪「それで終わり、今に至るって感じやね。」
茉莉「なるほどー。」
澪「なんか、国方の反応は重苦しくなくてよかね。」
茉莉「え、真剣に聞いてるけど。」
澪「いい具合に緩和されると。」
茉莉「ほーん。」
澪「そう、それ。」
納得がいっていないようで
首を傾げながら
ペットボトルを近くに立てた。
姉とのその一件があって以降、
真面目ぶる人間が嫌いになった。
だから吉永のことを嫌厭していた。
吉永自身が何かしたと言うわけではないが、
うちに話しかけてくるその仕草が
優等生だから隅にいるような人とも
仲良くしてあげるといった
下心が透けて見えた気がした。
それ以降、彼女には強く当たっている。
吐き気がするのだ。
真面目な人間を、
真面目の皮を被った人間を見ると。
しばらくの沈黙が続くる間、
テレビは1人で喋り続けていた。
そろそろ眠った方がいいかと思い、
腰を上げようとした時。
茉莉「電話相手、誰だったのかわかる?」
国方がそういった。
淡々と、事実を確認するように。
そこに心情は挟んでいないように。
澪「姉の…?」
茉莉「うん。」
澪「分からん。友達か何かやろ。」
茉莉「何かねー、聞いてる感じ、お姉さんって篠田さんのこと好きだよなぁって思うんだよね。」
澪「はあ?」
あんな暴言を吐いておいて?
姉がうちのことを好き?
そう言うフリをしていただけだろう?
澪「そんなわけなかろうもん。」
茉莉「えー、だってさ、嫌いなやつと同じご飯食べたくなくない?」
澪「そりゃあそうや。」
茉莉「今の篠田さんからしたらそうだよね。わかるよね。」
澪「どういうことなん。」
茉莉「パン。わざわざ一緒に買いに行って、一緒に食べたりする?嫌いなやつと?」
澪「…!」
茉莉「そこまでの暴言吐くってことは相当嫌いなわけじゃん?でもさ、それまでの行動が噛み合ってないんだよね。」
澪「…2年間の間に何かがあったって言いたいと。」
茉莉「確かに酷い態度取ってたって聞くしそうかもしれないけど…んー、ちょっとちがうかも。」
2年間の間に、うちがしたことといえば
姉に対して睨んだり無視したりと
それはそれは酷いものだった。
姉が好意を持って
頑張って接しようとしてくれているのは
うちだってわかっていた。
それでも信じられなかったのだ。
どれだけ返事をせずとも
挨拶してくれても、
忙しい中朝ごはんを用意してくれても、
うちを騙すための行動だろうって。
そう思ってしまうのだ。
茉莉「お姉さんって、わかりづらい人?」
澪「…どういうことを聞きたいん?」
茉莉「こう、思ったことがすぐ顔に出るとか…そうだ、素直かどうか聞きたい。」
澪「…素直やったね。美味しいもの食べたらすぐほっぺ落ちそうになっとったし、映画見たら泣くし。喜怒哀楽がこれでもかってくらいはっきりしとった。」
茉莉「じゃあ次。篠田さんは無視してるっていったけど、お姉さんはおはようとかいってらっしゃいとか言ってくる?」
澪「言う。」
茉莉「今でも?」
澪「うん。」
茉莉「気まずそうな顔してる?」
澪「…どうやろ。」
最近まともに顔すら見ていない。
どうだったか思い出せない。
しかし、うちが戻って早々の頃は
ずっと困惑しているようだった。
何か自分が悪いことしたんじゃないかって
ずっと自責しているようだった。
澪「でも…そうかもしれん。」
茉莉「じゃあやっぱり、篠田さんのこと好いてるんだよ。」
澪「今でも?」
茉莉「今でも。」
澪「じゃあどうしてあの時…。」
あの時。
うちへの暴言を吐いたの?
本当に今もなおうちのことを
大切に思ってくれているの?
ならなぜ。
何故、理由は。
あれは、本心だったの?
頭がぐるぐるとこんがらがる中、
ふと数日前の朝、
パンが置かれていたことを思い出す。
うちの好きやったメロンパンが
ぽつんと置かれていたのだ。
そういえば、去年の夏にも
ぽつんと置いていなかったか。
リビングに行くと、姉の姿はなくて、
既にバイトに行った後だったのだろう
閑散とした空気が流れていた。
そこにあったメロンパンを
何も思わず貪ったのを思い出した。
今年だってメロンパンが置いてあった。
あれは、姉なりの謝罪なのだろうか。
うちがタイムスリップから戻ってきて以降、
うちがひどい態度をとるたびに
謝ってきてくれたではないか。
当時覚えもないことを
延々と謝っていたではないか。
姉は。
…姉は。
茉莉「…言わされたんじゃない?思ってもないことをさ。」
澪「…っ!」
茉莉「ループを上手く繋げるために、誰かが。」
国方はそういって
うちのことを見つめては
またペットボトルを手にした。
手ぐせなのだろうか、
何かしら気持ちを
紛らわせているのだろうか。
ギャップを開けたり閉じたりしていた。
もし、本当に言わされただけなのであれば。
今もあのことを口にしたことを
姉は悔いているのだろうか。
今も、はおかしいか。
当時はそうだ、何も暴言は吐いていない。
覚えのないことに
罪悪感を抱いては
心に傷を抱えているのだろうか。
今も…。
…。
誰が。
…。
…。
…。
ああ、馬鹿だ。
うちってほんと馬鹿。
誰がやったのかなんて
そんなの1人しかいないじゃんか。
これまで自分のやったことで
勝手に憎悪を抱いて
勝手に当たり散らかして
周囲の人を巻き込んで
迷惑をかけていたのか。
うちはどこまで惨く迷惑なやつなんだ。
蹲りたくなった。
何でこんなことになっているんだって
嘆きたかった。
大声で叫んでやりたかった。
ぎゅっと自分の袖を掴む。
力を入れても入れても、
この気持ちが晴れることはない。
罪悪感だ。
罪悪感が押し寄せていた。
そんなうちの姿を見て、
気を遣ったのだろう。
国方は席を立って
何をしに行ったかと思えば
冷たい麦茶の入ったグラスを渡してくれた。
茉莉「あったかいものじゃないから趣ないけど。」
澪「…ありがとうな。」
茉莉「ま、ちょっと落ち着きなよ。」
すぐに飲む気になれなくて、
少しばかり時間を置いて口を向ける。
渋い味が喉に広がる。
お風呂上がりだったこともあって
今ですうっと心地よく通って行った。
また、思考はすぐに
このタイムスリップのことへと
戻りそうになった時。
ふと彼女が口を開いた。
茉莉「とりあえずゲームしたら?」
澪「ん?」
茉莉「ゲーム。fpsとか…」
澪「え、何でそうなったと?」
茉莉「へ?」
澪「へ?やなくて。」
茉莉「ほらさぁ、考えすぎて疲れるとかとか、考えたくないのに勝手に考えちゃうことあるじゃん?」
澪「…ある。」
茉莉「その時にゲームしてごらん?目の前のことで手一杯、頭いっぱいだから。」
澪「そげなことで考えるのをやめられると?」
茉莉「少なくともゲームしてる間はね。だって戦場だよ?どっから敵が来て撃たれるか予測するので頭の容量いっぱいだよ?」
澪「はあ。」
茉莉「やって見たら分かるって。」
国方は人とアプローチの仕方が
絶妙に違った。
普通であれば元気を出してよとか
眠れば何とかなるよとか
決まってそう言うことをいう。
しかし、まさかのゲームとは。
国方らしかった。
それと同時に、ぼうっとしていそうで
意外にも考える容量どうこうも
考えているのだなと感心する。
澪「意外やね。」
茉莉「何が?」
澪「何かな、勝手な妄想なんやけど、あんたのことが空っぽに見えとったんよ。」
茉莉「あー、あながち間違ってないよ。」
国方はけろりとしたまま
伸ばしていた足を寄せ
あぐらをかいた。
茉莉「茉莉、好きなこととかないから。」
澪「ゲームは?」
茉莉「今言った理由だよ。何も考えたくない時にやるの。」
澪「ゲームのことに頭使うんやろ?」
茉莉「別のことにリソース割いて、悩みをなかったことにしたい…みたいな?」
澪「へえ…。」
茉莉「確かに敵を倒したり勝ったりしたらスカッとするよ。でも、好きだからやってるわけじゃない。」
澪「でもTwitter見とる限りやと最上位のランクをとっとるやん。」
茉莉「あはは、見てくれてるんだ。」
澪「たまたま目に入ったと。」
茉莉「うーん、それなぁ…宿題みたいなものかも。」
澪「宿題?」
茉莉「そ。シーズンが変わった時にする宿題。暇つぶしでやるの。」
澪「ランクを最大まで上げ切ったらもうせんとね。」
茉莉「シーズン変わるまでしないね。」
澪「じゃあその間はなにしとるん?」
茉莉「何の特にもならないパズルゲームとか?あと動画見てる。」
澪「そうなんや。」
茉莉「いっつも同じゲーム実況を見てるから、違った情報が入ってくることもない。だから知識もつかないし、本当にただの暇つぶし。」
澪「…。」
茉莉「勉強も好きじゃないしさ。」
澪「でも成山ヶ丘に入っとるやん。」
茉莉「ああ、それね。お金かけたくなかったんだ。茉莉のわがまま。」
澪「それでも、努力できる人はすごかよ。」
茉莉「茉莉が?」
澪「それ以外おらんやろ。」
茉莉「…努力とかじゃないよ。言われた通り空っぽだし、人生暇してる。」
澪「…。」
茉莉「暗い話になっちゃうのもあれなんだけどさ、別に茉莉っていなくてもよくねー?みたいに思う時が結構ある。」
澪「…うちもあるよ。」
茉莉「誰もが思うことなんだろうなぁ。」
澪「自分の嫌なとこばっか目について、どうしようもなくなる時があるとよ。どこかに行けば気分転換できるやろうに、動こうにも動けんくて。」
茉莉「へえ、篠田さんでもあるんだ。」
澪「あんたにはうちがどう見えとうか知らんけど、あるよ。」
茉莉「茉莉からはね、自分磨きに余念がなくって、その部分での努力家さんって感じがしてた。」
それは、姉に歯向かうための…。
それは間違った努力じゃなかったのだろうか。
正当な、自分磨きとして
捉えていいのだろうか。
茉莉「あと、うーん…意外と苦労人?頑張り屋さんって感じ。」
澪「何もしとらんけどね。」
茉莉「有能な人ほど自己肯定感低いって言うしそれじゃない?」
澪「そげな言葉があるんや。」
茉莉「うん。ネット記事で見たことある。あとはそうだなぁ、自信がある人に見えてたからこそ、本当意外なギャップだったんだよね。」
澪「自信…?」
うちには全く当てはまらない言葉なもので、
思わず鸚鵡返しをしてしまう。
国方は当然のようにこくりと頷き、
あぐらの足を組み替えた。
茉莉「堂々としてるように見えるよ。」
澪「…。」
茉莉「自分で色々決めてきてそう。」
澪「そんなことなか、流されるまま。」
姉の姿ばかり追ってきた身だ。
自分で色々決めたのなんて
ここ2年だけ。
それでも、国方は肯定して
くれているような気がして、
少しばかり心が軽くなる。
茉莉「じゃあ茉莉と一緒だ。」
澪「…そう。」
茉莉「うん。一緒。」
澪「堂々としてそうに見えたんは、今思えばただ自分を守るための殻やったんよ。」
茉莉「殻ねえ。」
澪「いろんなことを認めたくなくて、自分で自分を守るための…。」
茉莉「じゃあより一層大切なものじゃん。」
澪「…。」
茉莉「大切なものを守り続ける努力をしてたんだ、納得納得。」
大きく頷いた後、
短い髪に手櫛を通した。
擽った勝ったのかぽりぽりと
後頭部を引っ掻いていた。
茉莉「ゲームやろうよゲーム。」
澪「脳筋…っていうかちゃんとゲーマーやな。」
茉莉「そーしないとやってけねーよー。」
操作、教えるからさ。
国方はそう言って、
あらかじめ引いていた布団に寝転がりながら
スマホを手にしていた。
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