最終話 金曜日までの五泊 9


    ×


 正直くたくたであるし、時間帯も明け方だ。単純な辛さで言えば、このあたりがピークかとも思われた。


 だが幸いにして睡魔に襲われてはいなかった。幸か不幸か、眠いだの何だのと言える状況ではなかったからだ。


 今や敵の攻勢は留まることを知らず、モニターから視線を外す隙さえない。東と西から同時に攻めてくるのはしばしばある事として、ひどい時には、天井と合わせて計三か所ぶんの“抗議のノック”を一挙に浴びせられることもあった。


 こうなると怖いを通りこしてただただ忙しい。「ゆっくり恐怖を味わうなど贅沢だ」、とでも言わんばかりの猛攻である。


(それもいいさ、何といっても最後の夜……そのくらいは意気込んでもらわないと……)


 根拠のない強がりながら、それでもそう思うと少しは気持ちが楽になった。



 そうしてまたいくらか時が過ぎたのち、ついに恐れていた事態が現実のものとなった。あの継ぎはぎ人形が東側の通路まで到達したのだ。


 むろん利点も少しはあれど、もう後がないのも事実だ。


(鍵をかけてあれば詰所には入ってこられないのではないか?……それとも、あの大鬼と同じく扉をぶち破って踏み込んでくるか?)


 疑問は疑問として、されど検証してみようとは思えない。


 また、エネルギー残量も残り一八パーセントと本格的に余裕がなくなってきた。ここまで減ると、「念のためにぐるっと見回りを」というのもそう気軽にはできない。


 こちらの武器はじりじりと減り続けている。対照に、敵方にはまだまだチャンスが残されていた。なにせ夜明けまでまだ一時間以上もあるのだ。それだけあれば、疲弊しきった新米警備員がミスを犯す可能性は十分以上にある。


(つけ込ませてはいけない……)


 あらためて肝に命じると、監視作業にも一段と身が入った。


 こうなると気を付けたいのはやはりあの女。二体いる女人形のうち、どちらのことなのかは言うまでもあるまい。


 くだんの逆さ女は今この瞬間も、詰所の端でにやにやと薄ら笑いを浮かべていた。


(そうしてへらへらしていられるのも今のうちだ、ここで必ず決着を着けてやる……)


 と威勢よく考えはするものの、本音では是が非でもこのまま静かにしていてもらいたいところである。


 だがまあ、この願いは叶わぬことであろう。この女とあと一時間近くも穏便に過ごせるとは到底思えない。



 意外だったのは、五時台に入って以降もしばらくは平穏――明確な危機とまでは言えない状況――が続いたことだ。


 気づけば時計の針は五時半を指していた。「ひょっとするとこのまま逃げ切れるのでは」、と淡い期待に胸が膨らむ。


 ところが当然そうはいかない。


 事は大鬼への電気刺激を終わらせた直後に起こった。そういう意味では、これ以上ない最高のタイミングだとも言えた。


 本日三度目、かつ正真正銘、最後の妨害行動。


 気のせいか、逆さ吊り女の表情にもこれまで以上の気迫が感じられた。


(状況は悪くない……このまま、このまま……)


 考えるが早いか背筋が凍る。


 理由は一つの音だった。その時、天井裏からけたたましい騒音が降ってきたのだ。


 これから起こるだろう事態は容易に察せられた。


 あの黒髪の女の青白く、かつ細長い両腕が、生ぬるい鮮血を浴びて深紅の一色に染まる。狂気の笑い声はいよいよ高らかに響きわたり、俺は極寒の苦痛に深くふかく沈み込んでゆく……


 避けようのない無残な死。


 その克明なイメージに精神を焼かれながら、次に俺が耳にしたのはしかし、思いもよらぬ音色だった。


 素手で金属をたたく鈍い音。固く閉じられた換気口の向こうで、怒りに満ちた衝動が何度も繰り返し爆発する。


(どういうことだ……?)


 と一瞬戸惑う。パソコンが使えなければ施錠はできないはずだ。


 だが疑問はほどなく氷解した。


 つまり、俺は鍵を開け忘れていたのだ。


 道理で入って来られないはずである。これこそ怪我の功名というか、「単純な過失が思わぬ形で命を救った」といったところか。


 一命は取り留めたが依然、危機を脱したとは言い難い。大鬼と黒髪の女については心配無用としても、まだ三体もの人形が残っている。


 その事実もあってか、最前から心臓の動悸が止まらない。こめかみに圧力を感じるほど、俺の脈拍は上がっていた。


――一分でも一秒でもいい、どうか早く明けてくれ……!!


 その瞬間、俺の求めに応じるかの如く、モニターがちりちりと明滅した。


 間を置かず息を吹き返す液晶画面。


 まずは手早く東側の通路を表示させる。


 一方で、西側の通路は必ずしも視認する必要はなかった。見る前に施錠してしまうのが手っ取り早いからだ。


 どうやら鹿男の位置は問題ないようだ。この大柄な男が次の一手を仕掛けてくるまで、今しばらく猶予がありそうだった。


 反面、警戒すべきは継ぎはぎ人形、すなわち自律するマネキンの化身である。こちらはすでに通路の八割がたを行き過ぎていた。これ以上不用意に目を離せば、それこそいつ踏み込んでくるか分かったものではない。


 そのうえ電力ももはや限界間近である。残り五パーセントというのは間違いなくギリギリの値だろう。これ以降はほんのわずかでも無駄遣いは許されない。


 決戦――そんな二文字が頭をよぎる。


 夜明けまであと二十五分。ひときわ長い、いや長すぎる一夜も、とうとう最終局面だ。


    ×


 ここに来て思わぬことが起きていた。人形たちの活動頻度が、目に見えて減少していたのだ。


 直前までの喧騒が嘘のように静かな時が流れる。夜明けが近づくにつれ、邪悪な力が弱まってきたのかもしれない。


 そうした状況のなか、ついにその瞬間は訪れた。


 時刻は五時五五分。勤務終了まで、残り五分足らずというタイミングだった。


 そのとき突然、詰所全体が暗闇に呑み込まれた。これまでとは違い管理コンソールのみならず、電灯を含むすべての電化製品が機能を停止していた。


 換気扇の振動も、PCの冷却ファンの音も、室外のどこかから伝わる低いうなりも、ありとあらゆる機械的な鼓動が一斉に鳴りを潜める。


 エネルギー残量〇パーセント。いよいよもって“弾薬”が尽きた。


 ひとまず即死でないだけほっとしたが、かといって生きた心地などするはずがない。こうなるともう、誰が、いつ、どこから攻めてくるかは問題ではない。いずれにせよ、対抗手段は一つも残されていないのだ。


 そんな無防備な状態で約五分間、およそ三百秒も耐え続けなければならないというのは、俺個人にとってはまったく未曾有の経験だった。


(頼む、頼む、頼む、頼む……!)


 冷たい暗闇のなかでただ一人、声も出せずに震えて祈る。自分がいま生きているのか、それとも死んでいるのかさえ定かでない気分だ。


 現時点で俺が知る事実はただ一つ。この手の場合、往々にして祈りは届かない、ということだ。


 最初にやって来たのは音。天井裏で「何者か」が暴れまわる音だった。


 次いで訪れる激しい振動。部屋全体が揺れるほどの勢いで、東西二か所の扉がほぼ同時に開かれる。


 最後に現れたるは光。底知れぬ暗闇のその淵から、こちらを覗き見る眼光である。初めこそ二個一対に過ぎなかったそれは、五秒十秒と経つうちに次々に数を増やしていき、ついには四体ぶんの赤光が一堂に会することとなった。


 強烈な悪寒に吐き気がこみ上げる。それでも、俺はこの場から逃げ出そうとは思わなかった。「そもそも逃げ場がない」というのもあったが、「ここで背を見せればそれこそ敗北だ」という気持ちのほうが強かった。


――いいさ。たとえここで命を落そうとも、次こそ必ず勝利してみせる。絶対に夜明けまで生き抜いてやるぞ……殺すというなら殺せばいい。だが、こっちだってそう簡単にはあきらめないからな――


 無数の目をきっと睨み返しながら、言葉もなく決意を固める。


 とたん、一対の光が中空に溶け消えた。


 次いで別の一つ、さらにまた一つと、紅の妖光が連鎖的に揺らいで消失する。まるで流水に溶ける雪のように。まるで空に昇りゆく煙のように。


(いったい何が起こっているんだ……!?)


 考える間もなく飛びかかる一つの影。目にも止まらぬ速さで俺の首筋を捉えたのは、ほかでもない例の継ぎはぎ人形であった。


 その冷たく無機質な十本の指が、ぎりぎりと俺の喉を締めあげる。明確な殺意が皮膚を通して伝わってくるようだ。


 だが、そこまでだった。


 もはやここまでか、と覚悟を決めかかった時、ふと呼吸が楽になった。人形の手から力が抜けたのだ。


 すると直後、至近距離でにらみ合っていた相手の顔から、何か生気のようなものが消え失せた。目鼻のない無表情な顔でも、どういうわけか、その変化ははっきりと感じ取ることができた。


 そこにいるのはもはや邪悪の化身などではない。ただ、人の形を模したガラクタだ。



 やがて鳴り響くベルの音。勤務終了を告げる合図。恋い焦がれ、待ちに待ちわびた至福の音色。


 ふたたび電灯に光が宿り、防犯モニターに監視カメラの映像が映しだされる。


 俺は急ぎ倉庫の中を確認した。するとそこに見えたのは、継ぎはぎ人形を除くすべての人形たちが、規則正しく整列する姿であった。彼らはその全員がもれなく一方の壁を向き、横一列になって直立していた。


 その光景を目にした時、俺はようやく実感した。


(……やった…………やったぞ! ついに最後まで生き残った!!)


 窓もなく狭苦しい警備員詰所にいるにもかかわらず、そのとき俺の脳裏には、外界を明々と照らす曙光の姿が思い浮かんでいた。


    六


 その後の顛末について、俺――デイビッド・キャプランに語れることはそれほど多くない。あえて言うなら、良いことが二つに悪いことが一つ、くわえて、良いか悪いか判断がつかないことが一つといったところである。


 良いことの一つ目は、フレデリクソン氏が無事に意識を取り戻したことだ。


 たしかに怪我の具合は軽くないが、医者が言うには「幸いにして後遺症は残らないだろう」とのことである。一、二か月も療養すれば仕事に戻れるという話だが、当の本人は「バカンスと思って当分はゆっくり過ごすよ」、と気が済むまで休養を満喫するつもりらしかった。


 続いて二つ目の良いことだが、つまり人形たちの処分が正式に決定されたことだ。


 決め手になったのは数々の証拠映像と、一人の警備員の証言、つまり俺が見聞きし、経験したすべてだ。いくら費用も時間もかけた事業計画とはいえ、これだけ奇妙な出来事が続けばさすがに断念せざるを得ない。用済みとなった人形はすべて製造元に返却され、また新たなアミューズメント展示品に生まれ変わるという噂である。願わくば、次こそ誰かを笑顔にする存在になってほしいものだ。


 さあ一転して悪いことだが、これは直前に述べた事柄と直接かかわる内容である。回収が決まった人形たちが、なんと工場への移送中に姿を消したらしいのだ。


 彼らの行き先は今もって判明していない。おそらく、この先も明らかになることはないだろう。このまま虚空の彼方に消え去ってくれれば、この世界も少しは安全になるのだが……



 さて、では最後に、良いか悪いか微妙な話を一つ。


 早い話、俺は仕事を辞めた。クビになったわけではない。例の一件があって以降、なんとなく職場に居づらくなったのだ。


 これで晴れて無職の身。念願の自由を手に入れたわけだが、いつまでもこのままではいられまい。一刻も早く、新たな飯の種にありつかなければ……この次も警備の職を探すのかって? さあ、どうだろうか…………実際、人生なんてその時にならないと分からないものさ。


 ただ、当分は単独勤務の仕事は、御免こうむりたいものである。

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