第七話 網膜の裏に映る物 3


    二


 その時、俺はバスルームでひげを剃っていた。


 シェービングクリームをたっぷり乗せた頬の上で、四枚刃の安全剃刀を滑らせる。伸びかけの無精ひげがなくなるのはいつだって気持ちがいい。


 俺がいるのは自宅の洗面所だった。本当のところ記憶にない場所のはずなのだが、とにかく俺はここを自宅のバスルームだと認識していて、現にどこにどんな物が置いてあるのか手に取るように分かっていた。バスルームの外がどうなっているのかさえ頭に思い浮かぶほどだ。



 ひととおり身支度を整えたあと、俺はキッチンに向かった。単身者向けアパートに付き物の不便で狭苦しい台所だ。


 自炊をする習慣がないため調理器具は必要最低限しか置いていない。その最低限にギリギリ含まれているオーブントースターの内側に、俺は食パンを一切れ置いた。


 次いでタイマーを二分三〇秒にセットする。すると、トースターの内側にぼんやりと赤い光が灯った。


 そうして冷蔵庫を開けたところで、はたと手が止まる。


(バターを塗るかジャムを塗るか、それが問題だ)


 いっそ両方味わってやろうか。それくらいの贅沢なら、神様だって目をつぶってくれるはずだ。


 見るでもなく時計を見る。時刻は午前九時二〇分。


 とたん、俺は思わず声をあげた。完全に遅刻だ!


(どうしてこんなことになった? さっきまで充分余裕があったはずなのに!!)



 キッチンを飛び出してベッドルームに駆け込む。昨晩ベッドの脇に脱ぎ散らかした勤務先の制服を手に取るや、脱兎のごとく玄関へ。


 早足に歩きながらも「先に職場へ連絡すべきか」とスマホを取り出したところで、俺は自分がまだ寝床で横になっていることに気が付いた。


 飛び起きて時間をたしかめる。時計の針は午前九時二〇分を指していた。


「遅刻だ!」と慌てるのは最前と同じだが、今度は急いで着替えようとは思わなかった。どういうわけか「ここはまだ夢の中なのだ」と理解していたからだ。


 なんとか目覚めようと試みるも、しかし身体が思いどおりに動かない。やっとの思いで起き上がっても気付けばまた寝そべる状態に戻っていて、何度やっても起床の状態までたどり着けなかった。


 そうして悪戦苦闘するうち、今度は寝返りをうつことさえ段々と難しくなり、やがてついには唸り声をあげることしかできなくなってしまった。


 そんな状態に陥ってなお、考えることは「このままじゃ仕事に遅れてしまう」。


 俺はそんなに勤め先を恐れているのか?


 それとも、怖いのは社会的責任を果たせないことそのものだろうか。



 というところで、何度目か分からない覚醒の瞬間が訪れた。今度は素直に身体が動いた。いや、今度こそと言うべきか。


 慌てて上半身を起こし、スマホを見ると時刻は午前七時四〇分。起床用のアラームが鳴る少し前である。


(なんだ……全然大丈夫じゃないか……)


 ほっと胸を撫でおろす。横になると今度こそ本当に寝過ごしてしまいそうだったので、俺はベッドから出ることにした。


(ああ、また今日も一日がはじまるなあ……)


 それも、長いながい平日の一日が。


 憂鬱な気分を引きずりながら、俺はバスルームに向かって歩みを進めた。



 寝室から廊下に続くドアを開けると、その先にはまるで見慣れぬ、しかし同時に見覚えがある部屋が広がっていた。


 紫色の壁に緑の天井、黄色い床。部屋の中央にはテーブルと二脚の椅子があり、その卓上には一輪挿しの花瓶が飾られている。四方の壁にはそれぞれ一枚ずつ、額に入れられた絵画が配置されていた。


 入った覚えもないのに、俺はいつの間にかその部屋に足を踏み入れていた。直前の寝室に続くドアはどこにも見当たらない。



 こうしてまた“悪夢”ははじまっていく。繰り返される不条理に終わりはなく、日常は残酷なペースで時計の針を回し続ける。


 半ば打ちのめされるように感じながらも、だが俺は考える。


(この次はいったい何が飛び出してくるんだろう?)


 恐れと興奮が入り混じった不確定な感情。その混沌としたエネルギーに背中を押され、俺はまた一枚の絵画に向かって歩みを進めはじめた。

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