第七話 網膜の裏に映る物 2
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『SLD』というゲームがある。
「ゲーム」という言葉の定義を、「勝敗がある」だとか、「プレイヤーの行動や環境要因によって成功と失敗が決定される」だとかの点に求めるならば、この一作はゲームと呼ぶにはふさわしくない代物かもしれない。
だが反面、本作がテレビゲーム専用のコンソールに対応したソフトとして開発、流通していた事実を重視するならば、「SLDは紛れもなくテレビゲームだ」と結論付けられるのである。
この作品にストーリーは存在しない。主人公およびプレイヤーの主たる目的は、各ステージを探検することである。
プレイヤーは一人称視点でキャラクターを操作し、一定の広さをそなえたエリア内を自由に探索する。エリア内には建造物や生き物などのオブジェクトが配置されており、それらにプレイヤーキャラクターが接触することでエリアが変更。プレイヤーは次なる空間へ移動し、そこでさらなる調査を遂行していく。
移行先のエリアは触れた物体の種類によって左右されるが、この点については法則が一定でないので狙った場所に進むのは極めて困難になっている。好意的に言えば、それだけ研究しがいのある題材だということだ。
探索のフィールドは種類が豊富な反面、その多くがでたらめな空間となっている。原色をやたらに使ったサイケデリックな迷路であったり、人面らしき謎のパターンが延々と続く地面だったりと、その意図を汲み取るのは容易ではない。「頭で考えず心で感じるのだ」という、開発者からのメッセージが垣間見えるようだ。
クリア条件は特に設定されていない。強いて言うなら、プレイヤーが満足した時がゴールということになるだろうか。
いちおう、調査を続けるうちにゲーム内で日付が進行し、スタートから特定の期間が過ぎると特別なムービーが流れるようになっているのだが、それとてエンディングだと明言されたものではない。奇妙な冒険はどこまでも終わることなく続くのだ。
以上のようなカオスなシステムにカオスな世界観が相まって、その仕上がりはまさしくカオス。いや、カオス超えてパオスといったところか。
当然、この仕上がりは偶然ではなく狙って作られたものである。というのも、このSLDは開発者の見た「夢」を題材に制作されたゲームなのだ。
脈絡のない悪夢を元に何かを作れば、当たり前だが脈絡のない物が出来上がる。
「ゲームクリエイターとしてそれはどうなんだ」という意見もあろうが、テレビゲームを一つの芸術作品として捉えるならそれもまた妙味である。現に、SLDは発売から二十年以上が経過した今でも根強いファンがいる作品なのだ。
完成度はどうあれ時代を超えて愛される一作――このゲームはまさに、カルト的人気を誇る“怪作”とも呼ぶべき存在なのである。
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そういう一作を俺がこのとき思い浮かべたのは、むろん今置かれている状況と似通ったものを感じ取ったからだ。
ピンク色の空。丘ほどもあるケーキ――エレベーターから草原へと一歩踏みだし、すぐその場で背後を振り返ると、もはやそこには虚空しか見えない。
この理不尽さ、荒唐無稽さは悪夢が持つそれとよく似ている。そして悪夢となると、やはりその手の芸術的な作品が自ずと思い出されるのだ。
となれば、ここは頭を切り替えるのが吉だろう。
「どうなっているんだ」とか「どうすればいいんだ」だとかはもう考える必要すらない。ただ目の前で繰り広げられる事象を、起こるがままに受け入れればそれで良い。
そう考えると、頭の中のハテナマークがすっと霧散するような心地がした。
(ああ……今ならあの美しい女性との対話も、心から楽しめそうなんだけどなあ……)
思えども、彼女の姿はすでにない。女性は例のエレベーターとともに忽然と姿を消してしまった。逃がした魚は大きそうだ。
とはいうものの、ここに見えるショートケーキはそれに輪をかけて巨大である。
間近で見ると最初の印象以上に大きく感じられる。ざっと二階建てのアパートくらいはあるだろうか。束の間圧倒されるも、なに、菓子が大きくて困る道理はない。
それにしてもイチゴやメロンならいざ知らず、パイナップルが具材のショートケーキとは少々珍しい。
しっとり濃厚なホイップクリームが、酸味の効いた果実と絶妙なハーモニーを奏でる――想像するだけで涎が溢れてきそうだ。
そういえば、俺は最初に転生してから何も口にしていなかった。どういう仕組みか腹が減ることはないものの、まあそれはそれとして、ここらで甘いひと時を享受するのも悪いことではないだろう。
ひとまず味見を、と指先でケーキの側面に触れてみる。ここまで近づくとスイーツというよりただの白い壁に見える。そのまま指でホイップクリームをひと掬いすると、俺はためらうことなくそれを頬張った。
直後、俺は口に含んだばかりのクリームを無意識に吐き捨てていた。あまりの苦さに身体が拒否反応を起こしたのだ。渋味というかえぐ味というか、とても人間が食せる物だとは思えない。できることなら、舌を取り外して丸洗いしたい気分だった。
この風味はどことなく有毒な化学薬品を思い起こさせる。考えてみれば、これだけ大きな物体が本物の食料品であるはずがないのだ。
この期に及んで常識を突きつけられるとは思いもしなかった。なんだか無性に腹が立つ。
そんな俺の怒りに同調するように、そのとき突然、空に黒雲が立ち込めた。どうもひと雨きそうな雰囲気だ。
そんなわけで今度は水族館である。
このたび俺が放り出されたのは、何かの展示室らしき一室だった。その部屋は通路のような細長い作りになっており、道幅の割には天井が高かった。床から天井までおおよそ七、八メートルはあるだろうか、ゆったりと展示物を見られるよう、余裕を広く取ってある。
室内の片側の壁は一面水槽になっていた。水槽は数メートルおきに区切られていて、それぞれの区画に異なった標本が収容されているようだ。
鑑賞のためか室内の照明は適度に落とされていて、ほどよくライトアップされた水槽との対比が印象的である。薄暗い通路にぼうっと青白い光を投げかける巨大な窓の様子は、それ単体でもロマンチックな雰囲気を漂わせていた。
(いったい何が展示されているんだろう?)
当然の疑問を解決すべく、俺は手近な水槽の前に立った。
ところが、何も見えない。
区切られた空間の中を右端から左端まで、また上から下まで満遍なく目をやるも、海洋生物はおろか金魚一匹みつからない。さらに言うなら、生物が身を隠すような岩や物陰のようなものもなかった。ぱっと見た感じ、ここにあるのはたっぷりの水だけだ。
どういうことかと周囲を見回すと、アクリルガラス窓の脇に案内板が見つかった。
そこに記された文言はこうだ。
〈北太平洋の海水〉
前代未聞である。俺の解釈が間違っていなければ、この水族館――暫定――はただ海の水を見せるためだけに、この巨大な水槽を丸ごと一つ費やしていることになる。むろん、俺が世間知らずなだけでこういった試みは往々にしてあるものなのかもしれないが、それにしたってこの規模でやる必要はあるまい。
(……しかしまあ、これだけ潤沢なスペースがあるなら、たしかに一か所くらいはこういう変わり種があっても――)
と考えたところで思いつく――本当に一か所か?
俺はすぐさま隣の水槽の前に移動した。思ったとおり、ここも中は空っぽだ。いや、厳密にはなみなみと海水は詰まっているのだが。
案内板を見れば〈黒海の海水〉との表記。
さらにその隣は〈地中海の海水〉で、そのまた向こうは〈北大西洋の海水〉となっている。おそらく、それらの奥には南太平洋だとかエーゲ海だとかが続いているのだろう。
正気か?
むろんどの窓を覗いても小エビ一匹見当たらない。仮に本当はいるとしても、おおかたプランクトンくらいが関の山だ。
となると、間違っていたのは俺ということになる。
要するにここは水族館ではないのだ。いわば「海水保存施設」とでもいうのか、世界各地のそれを一堂に集めた貯蔵庫のような場所なのである。
そう思うと、ノアの箱舟のようでなんだか荘厳な気持ちになってくる。
(ひょっとすると、これはこれで正しいのかもしれないな……)
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