第七話 網膜の裏に映る物 1


    一


 俺は見慣れぬ部屋にいた。


 広さは十メートル四方といったところか、ざっと見た感じ正方形で、前後左右の壁にはそれぞれ一枚ずつ絵画が飾られている。


 絵のほかにあるのは小洒落た雰囲気の天井ランプと、椅子が二脚のテーブルセットと、あとはその卓上に置かれた小さな花瓶のみ。花瓶には可憐なピンクの花が一輪だけ挿してあった。


 調度品だけ見れば「いい部屋じゃないか」とも思うのだが、気になるのは壁や天井の色である。


 なんと四方の壁はすべて紫色、天井は全面緑色で、くわえて床は黄色一色。しかも、どの色もビビッドな原色系の色調ときている。ずっと見ていると「ほかにもっと良い選択肢はなかったのか」、と思わず設計者を問い詰めたくなるようだ。


 ただ、もっと悪いのは次の一点だった。つまりこの部屋にはドアが設置されていないのだ。


(俺はいったいどうやってこの部屋に入ったんだ?)


 当然の疑問にしかし、答える者はない。


 こうなれば謎を解く方法は一つ。とにかく調査あるのみだ。


 と、その前に自己紹介を済ませておこう。今度の俺は何者でもない、ただのひとりの男である。この辺の設定が曖昧だと「もしや手抜きか」とちょっと嫌な予感がしてくる。そんなふうに感じるのは果たして自分だけだろうか?



 さて調査だが、実のところ調べる物はあまりない。テーブルと椅子は何の変哲もない普通の家具だし、天井ランプにもこれと言って秘密はなさそうだ。むろん、花瓶と花にも気になる点はない。


 となると残るは四枚の絵画のみ。察するに、この絵こそが今回の世界の鍵を握っているに違いない。でなければもう完全にお手上げである。


 俺はひとまず、一枚ずつゆっくりと絵を眺めてみることにした。


 さしあたり近くの額を覗いてみると、その中に見えたのは駅のホームらしき情景だった。太い柱の並ぶ様子や薄暗い天井付近の具合を見るに、どうやら地下鉄のような感じである。電車は停まっておらず対面のホームがよく見渡せる。人物は一人も描かれていない。


 ホームの奥の壁にはいたずら書きが残されていた。その内容は、「トマトソース」という言葉を青いスプレー塗料で書き記したものだった。こんなに無意味なメッセージをこんなに相応しくない色で記すとは、正直許しがたい。


 とはいえ「目まいがするほど不愉快」だと言うと言葉が過ぎるはずなのだが、このとき俺は実際、強烈な揺れを感じていた。


 立っていられないほどの不調に思わずその場にしゃがみ込む。まるで、稼働中の洗濯機に突然放り込まれたかのようでもあった。


 それからしばらくのあいだ、俺は目をつぶって必死に吐き気と格闘した。


    ×


 次に目を開けると周囲の景色が一変していた。直前までいた部屋と同じ空間だとは到底思えない。とはいうものの、いつの間に移動したのかはまったく見当が付かなかった。


 窓の一枚もない真っ白な部屋だ。


 内装は見るからに風変わりで、四方の壁一面には隙間なくクッションが敷き詰められている。そのわりに家具らしい家具は一つも見当たらない。


 ドアは一枚あるが外側から施錠されているようで、そのドアの目線の高さには、スリット状ののぞき窓がしつらえてあった。ちょうど、古い映画で見た精神病院の隔離室によく似ている。


 こんな所に放り込まれてもこっちとしては困惑するしかない。ドアは開かず、のぞき窓も内側からは開閉できない。拘束衣こそ着せられていないが、どこにも行きようがないのは同じことだ。くわえて部屋の広さもあまりなく、考え事をしながら歩き回ることもできそうになかった。


 突破口を探して壁のあちこちに手を触れてみたり、ドアノブを捻ったり押したりしてみるも手応えはない。もしや何もせず待機するのが正解なのか? としばし瞑想に浸るも、待てど暮らせど変化は訪れなかった。


 結局、俺は体感にして一時間ほど、この小さな一室に閉じ込められる羽目になった。



(いったい何をしろっていうんだ……)


 やがて途方に暮れたころ、またも周りの景色が急変した。


 ほんの一瞬まばたきをしたあいだに、それまでとは似ても似つかぬ景色が自分の眼前に出現する――魔法のようというか呆気にとられるというか、むしろ気が変になりそうだ。


 今度そこに現れたのは見渡すかぎりの砂漠だった。どこまで行っても砂、砂、砂。たしかにせせこましい隔離室にはうんざりしていたが、だからといってこの開放感はちょっとやり過ぎだ。


 頭上は雲一つない快晴で、さんさんと照りつける太陽が眩しい。今のところは心地よいが、十分もしないうちに暑苦しくてたまらなくなることだろう。


 遥か遠方には雄大な地平線が見える。一方で、オアシスの木立なり現代的なビルの影なり、逃げ込めそうな場所は一つも見当たらなかった。


 くわえて言うなら、俺はこのとき飲み水も日よけに使えそうな物もともに持ち合わせていなかった。この状況でさきと同様に一時間も放置されたら、場合によっては命に関わる恐れもある。


 降って湧いた死の恐怖に目まいを覚えはじめたころ、どこからか大きな音が聞こえてきた。その音は上空から聞こえてくるらしかった。


 何事かと頭上に目をやると、紺碧の大空に小さな黒点が見えた。


 その黒点はみるみるうちに大きくなるようで、少しすると、その正体がはっきりするほどこちらに接近してきた。けたたましい音を立てつつ空を滑るそれは、まぎれもなくプロペラ飛行機だった。


 これぞ天の助け!


 安心感のためだろう、俺の心はいつになく弾んでいた。


 しかし直後、その期待感は見事に裏切られることになった。


 飛行機は無情にも俺の上空を通過していった。むろん降りてくる気配は微塵もない。(まったく……ぬか喜びさせてくれるもんだ……)と理不尽な怒りが湧いてくる。


 行き過ぎる飛行機をなお諦めきれずに見つめていると、そのとき不意に何かが投下された。大きなリュックサックくらいのサイズだろうか、箱状の物体がパラシュートを広げて降りてくる。救援物資かとも思われたが直前のこともあって簡単には喜べない。二度続けて肩透かしをくらうのはまっぴらごめんだ。


 とはいえほかに行く当てはない。そんなわけで、俺は仕方なく物体の落下位置に向かって歩きはじめた。



 真っ赤なパラシュートは砂の上でよく映えた。おかげで、目標物を見失うことなく、無事にその落下地点までたどり着くことができた。


(何か助けになる物があるといいが……)


 最初に思い浮かんだのは飲食物。水が入った水筒やレトルト食料などの詰め合わせだった。


 しかしそれでは一時しのぎにしかならない。この状況でもっとも望ましいのは、やはり救助を要請するための通信手段である。


 はやる気持ちを抑え落下物に近寄る。その正体は立派なサイズの木箱だった。ちょうど、成人男性の胴体ほどの大きさだ。


 箱の外面には手ごろな斧が固定されていた。なるほど、これを使って箱を開けろということか。


 すかさず斧を手に取る。ひとまず上蓋あたりを狙ってみるか。


 半端に叩いて弾かれたりしないよう、俺は高らかに斧頭を振り上げた。


 直後、俺は見知らぬ女性と握手を交わしていた。ナチュラルブロンドの髪がまぶしい美人。彼女は朗らかな表情で俺の長旅をねぎらった。


 次いでその女性はくるりと身をひるがえすと、「オフィスにご案内いたします」と言って道を先導しはじめた。


 このとき俺の周囲に広がっていたのは、開放感あふれる巨大な一室だった。一方の壁が全面ガラス張りになっており、往来の人でにぎわう通りの様子がよく見える。時間帯としては真昼ごろだろうか、太陽の位置が高く、人々の影が短い。


 屋内外を問わずビジネスマンふうのスーツ姿が多く見られる。彼らは装いこそ似通っているものの行動は千差万別で、一分一秒が惜しいとばかりに先を急ぐ者もあれば、漫然と足を進めつつ手元の液晶画面を眺める者もあった。


 どうあれ総合すると、この場所はどうやら「ビジネス街に立つオフィスビルのエントランスホール」であるらしい。



 さきほどの女性に導かれ、ほどなくたどり着いたのはエレベーター。


 歩みを進めるあいだ、彼女は天気や交通情報など当たり障りのない内容を楽しげに話し続けていた。ビジネスライク過ぎず、かつ砕け過ぎてもいない絶妙な態度。そうした立ち振る舞いは、エレベーターの中に入っても変わることはなかった。


 対する俺は、最前から「まったく心ここにあらず」という状態が続いていた。例の女性が語る内容は右から左に抜けるばかりで、何一つ頭に入ってこない。適当な相槌を打つだけで精一杯という有様だ。


 この時、俺の頭に思い浮かんでいたことはただ一つ。すなわち「いま何が起こっているのかまるでわけが分からない」ということだ。


(これはいったい何なんだ? さっきからどうしてこんなことが続いている? こんな脈絡のないことが……隔離室に、砂漠に、オフィスビル?……俺はいったい、どんな世界に生まれ変わったっていうんだ……?)


 混乱する俺の耳に鈴が鳴るような声が届く。


「さあ、到着しましたよ」


 はっとして顔を上げると、エレベーターのドアが開いていた。


 そのドアの枠で四角く切り取られた中に見えたのは、馬鹿みたいに巨大なショートケーキが鎮座する円形の広場、という情景であった。


 足下には広大な草原が広がっていて、生命力あふれる緑の色が流れる風に合わせて濃淡の変化を繰り返している。


 ショートケーキの上にはこれまた巨大なカットパインが並べてある。その一切れでちょうど俺の身長と同じくらいだろうか。目にも鮮やかなライトイエローが、ピンク一色の空に一層に際立って見えた。


 そうした景色を目にしたとたん、脳裏に電流が走った。


 なんてこった、俺はなんて世界に放り込まれちまったんだ――

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